高嵩月
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高嵩谷の門人。氏は坂本[3]、名は常雄。字は子行または巨熊。嵩月、蓑虫庵、景訥、観、卓朗斎、(草冠+鹿)菴と号す。生家は筑島屋といい、もともとは材木屋だったが、祖父・坂本雪花斎の代に別家し、地主として地代で生活していた[3]。父は幕府御用達という池之端仲町の小間物手遊類問屋の大槌屋(新井氏)からの養子だった[3]。祖父の代から俳号を持っており、祖父の姉または妹が江戸座の俳人・岡田米仲の妻になり、自身も米化という俳名を持つなど俳諧グループとの繋がりもあった[3]。
久松町に住んでおり、主に寛政から文政にかけて活躍、肉筆画のほかにわずかに版画、摺物を残している。一方、書画に精通しており、菅原洞斎著『画師姓名冠字類鈔』や朝岡興禎著『古画備考』に、情報の提供や仲介をし、その成立に大きな貢献を果たした。嵩月の祖父の長屋に晩年の尾形乾山が住んだ(『古画備考』巻三十五)という縁からか、酒井抱一にも乾山の情報を提供している[4]。嵩月自身も、『画師冠字類考』(西尾市岩瀬文庫蔵)を編著している。戒名は観月院湘室景納居士、墓は深川の陽岳寺で、金3両で妻と共に永代供養を契約したためか、現在も陽岳寺の本堂前に観月の墓石は残っている[5]。また、その墓の隣にはやはり金1両で永代供養を約した英一蝶 (2代目)の墓が建っている[5]。