高木恭造
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1903年、青森県青森市に三代続いた開業医の末っ子として生まれた[1]。橋本尋常小学校、青森県立青森中学校を卒業後、一本木村袰月へ代用教員として赴任する[1][2]。袰月での生活は4ヶ月間ではあったが、後の『まるめろ』のモチーフとなる[1]。高木の没後、当時の教え子たちによって袰月集落を見下ろす高野崎に文学碑が建立されている[1]ほか、袰月集落内の国道280号沿いにも文学碑が建立されている。
1926年に弘前高等学校を卒業した後、青森日報社へ入る。もともと東奥日報社への就職するつもりであったが、青森日報の前を通りかかった際に社員募集の張り紙を見て入ると、そのまま採用となった[1]。当時主筆を務めていた詩人・作家の福士幸次郎の助言により方言による詩作に取り組むようになる[1]。
翌1927年に青森日報社を退社して上京、出版社に勤務するも不況で倒産したため満州へ渡る[1]。1933年に満州医科大学医学部卒業。この間、青森時代の文学仲間であった藤田金一によって詩集『まるめろ』が編集され、1931年に出版されている[1]。1946年に満州から引き揚げ、弘前市に眼科医院を開業した。眼科を営む傍ら詩や小説、戯曲などの創作を再開、全国で方言詩の朗読公演を行なうなど精力的に活動した。
代表作『まるめろ』は、ジェイムズ・カーカップと中野道雄による英訳(『冬の月』と改題)で、1968年にカナダの雑誌「マラハット・レビュー」に発表され、1970年には朝日新聞社の英字季刊紙「ジャパン・クォータリー」に英訳版が掲載されるなど、海外でも翻訳された[1][2]。また自らの朗読ソノシート付き詩集が1967年に刊行されるなど、その朗読と共に作品としても高い評価を得た。