高橋五月

From Wikipedia, the free encyclopedia

死没 2024年1月(76歳没)[1]
身長 177 cm (5 ft 10 in)
体重 77 kg (170 lb)
高橋 五月
Satsuki TAKAHASHI
基本情報
生誕 1948年5月6日
死没 2024年1月(76歳没)[1]
身長 177 cm (5 ft 10 in)
体重 77 kg (170 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県横浜市
テンプレートを表示

高橋 五月(たかはし さつき、1948年5月6日 - 2024年1月[1])は、神奈川県横浜市出身[2]プロゴルファー

荒川高校卒業[3]後に21歳でゴルフを始め[4]杉本英世に師事[2]

1974年秋のプロテストに26歳で合格し[3] [4]1975年の美津濃プロ新人では4位タイ[5]に入った。

1980年岐阜関カントリー倶楽部開場15周年記念「岐阜関チェリーカップトーナメント」[6]では2日目に松田敏博寺本一郎川上実と並んでの5位タイ[7]に浮上し、最終日には68をマークしてミヤ・アエビルマ)の2位[8] [9]に入る。日本プロでは初日の14番パー5で第2打を20cmにつけるイーグルが効いたか、河野高明中嶋常幸と共に2アンダー69で並んで首位タイとなる[4]。プロ6年目で初の首位発進を決めると、2日目も踏ん張って5バーディー、3ボギー、4ダブルボギーのイーブンパー71で通算2アンダーをキープし、宮本省三に並ばれたが、初の2日間首位も経験[4]。最終的には山本善隆金井清一鷹巣南雄鈴木規夫・河野に次ぐと同時に宮本・長谷川勝治藤木三郎を抑え、出口栄太郎安田春雄と並んでの7位タイであった[4]。表蔵王国際東北オープンでは関水利晃川俣茂と並んでの9位タイ[10]に入った。

1981年から1986年までシード選手[2]として活躍し、1981年の第1回KSB香川オープン内田繁・宮本省・藤木・高橋純一榎本七郎と並んでの5位タイ[11]に入った。

1981年の阿蘇ナショナルパークオープンでは初日を田中文雄藤間達雄謝敏男中華民国)・草壁政治と並んでの4位タイ[12]でスタートし、2日目に松本紀彦上田健次泉川ピート冨田三十士と並んでの4位タイ[13]に着け、最終日には羽川豊・泉川と並んでの6位タイ[14]に入った。

1981年の東北クラシックでは泉川・金本章生と並んでの8位タイ[15]に入り、同年から日本ゴルフツアー機構(JPGA)のツアー競技に指定された[16]群馬県オープンでは小林富士夫川田時志春・中嶋・新井規矩雄を抑えると同時にプレーオフで高橋勝成を下して優勝[17] [18] [19]

1982年にはKSB香川オープンで内田・新井に次ぐ3位[20]ダンロップ国際オープン許勝三(中華民国)・高橋勝と並んでの7位タイ[21]美津濃トーナメント杉原輝雄・羽川・内田に次ぐと同時に中嶋・鈴木を抑えての4位[22]に入った。

1983年のKSB瀬戸内海オープンでは初日を十亀賢二・杉原に次ぐと同時に藤木・金井・前田新作・新井・高橋を抑え、磯崎功・小林と並んでの3位タイ[23]でスタートし、最終日には十亀・安田に次ぐと同時に牧野裕・内田・藤木・小林・吉武恵治・杉原・新井・金井と並んでの3位タイであった[24]

1983年のゴルフダイジェストトーナメントでは初日を64で首位[25] [26]スタートし、2日目には2日間60台の内田に並ばれて首位タイ[27]、3日目には辛うじてパープレーで首位を守ったが[28]、最終日には中嶋・藤木・河野和重青木功と並んでの3位タイ[29] [30]に入った。

1983年のブリヂストントーナメントでは2日目の12番パー3でホールインワンを達成[31]

1984年パールカントリークラブオープンでは鷹巣・石井裕士に次ぐと同時にデビッド・イシイアメリカ)、泉川を抑えての3位[32]に入り、帰国後のKSB瀬戸内海オープンでは藤木と並んでの4位タイ[33]に入った。

1984年の栃木県オープンでは初日を河野・安達典夫と並んでの3位タイ[34]でスタートし、最終日も町野治川波通幸に次ぐ3位タイ[35]に留まった。

1984年のKBCオーガスタでは初日に6バーディー、ノーボギーの安定したプレーで6アンダー66の首位[36]スタートを決め、2日目もノーボギー67とスコアをまとめて11アンダー133で首位を守る[37]。3日目は藤木、ドン・プーリー(アメリカ)、出口と並んでの8位タイ[38]に後退し、最終日には尾崎健・倉本昌弘・牧野、ジョーイ・シンドラー(アメリカ)と並んでの5位タイ[39]に入った。

1984年の全日空札幌オープンでは泉川とのプレーオフに敗れて[40] [41]2位に終わる[42] [43]

1984年のダンロップフェニックストーナメントではフレッド・カプルス(アメリカ)、倉本、ジョニー・ミラー(アメリカ)と並んでの7位タイ[44]に入った。

1985年の栃木県オープンでは浅井教司渡辺司と並んでの4位タイ[45]に入った。KBCオーガスタでは3日目が台風13号の直撃で中止して迎えた最終日[46]飯合肇ファジー・ゼラー(アメリカ)、青木功尾崎将司・出口と共に9アンダーで並ぶ激戦を繰り広げ、飯合の2位タイであった[47]

1986年の東北クラシックでは森憲二宮本康弘・前田と並んでの10位タイ[48]に入るが、森・宮本康と共にレギュラーツアーでの最後の十傑入りとなる。

1987年のテーラーメイド瀬戸内海オープンでは新井・新関善美・杉原、ブレッド・オグルオーストラリア)、入江勉と並んでの5位タイ[49]に入った。

1989年のゴルフダイジェストトーナメント[50]を最後にレギュラーツアーから引退し、その後はテレビ東京解説者[51]などのテレビ出演、レッスン指導、講演と幅広く活躍[3]

レッスンは歯に衣着せぬ発言と親しみのあるキャラクターから好評し、師匠の杉本に勝るとも劣らないゴルフ理論を持つ[3]。「原則はひとつ。しかし基本はプレーヤーの数だけある」が口癖で、セオリーといわれる基本を、それぞれのプレーヤーの個性に合わせ、アレンジし、プレーヤーに最も適したグリップ、スイングを指導、人気を博す[3]

「もっと飛ばしたい」「ボールを曲げたくない」「もっと寄せたい」「パターが上手になりたい」「もっといいスコアーで回りたい」など悩むアマチュア・ゴルファーへのゴルフ教室、ワンポイントレッスンは実戦的で分かりやすく好評であったほか、講演ではゴルフコンペでのスコアメイクのコツ、試合での駆け引き、トッププロの人間像、プロの練習方法などの裏話も面白く聞かせた[52]

2023年までは栃木県下都賀郡壬生町の宮の森カントリー倶楽部に所属し[2]、川波・高橋完植田浩史と共に栃木県プロゴルフ会メンバー[53]であった。

2024年1月死去。享年76歳[1]

主な優勝

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI