寺本一郎
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川西市立東谷中学校卒業後の1966年にプロ入りし[1]、1972年の日本プロでは中村通・松田司郎と並んでの7位タイ[2]、1975年のスポーツ振興インターナショナルでは高橋信雄と並んでの5位タイ[3]に入った。
1978年の日本プロマッチプレーでは快晴だが強風でアンダーパーをマークしたのは僅か4人であった初日に2アンダーで首位に立ち[4]、準々決勝では有利と見られていた[5]メダリストの山本善隆を18ホールの接戦の末に破る番狂わせ[6]を起こす。
準決勝では青木功と対戦し、5番パー3で先に青木に15ヤードのチップインを決められるが、寺本も同じような距離をチップインさせる粘りを発揮[7]。7番で70cmにつけて寺本がリードすると、10番で青木が取り返し、11番で寺本が1.5mを入れると、12番で今度は青木が3mを入れる[7]。寺本が先手を取るが青木が離れない、という展開は15番で初めて青木がリードし、16番で50cmにつけて2アップとリードを広げた[7]。ドーミーホールの17番パー3で、グリーン手前にショートした青木は、絶妙のアプローチでカップ手前5cmに寄せる[7]。寺本は3mのバーディーパットを外し、青木に2-1で振り切られた[7]。
最終日の石井裕士との3位決定戦ではアウトでの鍔迫り合いから10番で石井にイーブンに戻されたが、後は相譲らず[8]。16番で9mのパットを沈めたが、最終ホールを石井に取られて再びイーブンとなり、14番ショートホールの19ホール目で振り切った[8]。同年初出場の試合でプロ入り後初めての上位となる3位に入ったほか、賞金200万円も初めて獲得し、試合後には三菱ギャランの招待状も舞い込んだ[8]。
1979年の日本プロでは初日に快晴、微風の絶好のコンディションの下でアウトからスタートし、物凄い勢いで飛び出していく[9]。球の転がりの速いベント芝の受けグリーンを手前から攻めていき[9]、2番3m、3番8m、4番2mと3連続バーディー[9]、7番からも4m前後を沈めて2度目の3連続バーディー[9]を決め、アウトで30をマーク[10]。インに入ると好スコアを意識してか6アンダーから伸びなかったが[9]、内田袈裟彦が持っていた68のコースレコードを2打縮める[9]通算6アンダーの66で謝敏男(中華民国)に1打差付け、コース新[11]での単独首位スタートを決める[10]。
1979年には賞金ランク対象となった美津濃トーナメントで杉原輝雄と並んで橘田光弘の2位タイ[12]、1981年の関西オープンでは甲斐俊光と並んで金本章生の2位タイ[13]、1981年のゴルフダイジェストトーナメントでは最終日に69をマークして4位[14]に入る。
1980年のくずは国際では初日に68をマークして森憲二・入江勉・山本善・尾崎将司と並んでの8位タイ[15]でスタートし、最終日には金本・竹安孝博と並んでの7位タイ[16]に入った。岐阜関カントリー倶楽部開場15周年記念「岐阜関チェリーカップトーナメント」[17]では2日目に高橋五月・川上実と並んでの5位タイ[18]に浮上し、最終日には藤木三郎・豊田明夫と並んでの5位タイ[19] [20]に留まった。
1981年の日本オープンでは初日を雨と難コースでスコアが伸び悩む中、陳志明&謝永郁&何明忠(中華民国)・山本善・金海繁・藤木三郎・松本紀彦、ボビー・クランペット(アメリカ)、河野高明・重信秀人と並んでの10位タイでスタートし[21]、2日目には中嶋常幸・尾崎直道・倉本昌弘・浅井教司と並んでの3位タイ[22]に着けた。
1982年の広島オープンで小林富士夫と並んでの7位タイ[23]に入り、1983年には地元の兵庫県オープン[24]で初日を三好隆と並んでの2位タイ[25]でスタートし、最終日には69をマークして、川上・一岡義典・十亀賢二・金山和雄を抑えて初優勝[26]。
1987年の日本プロでは初日を中村忠夫と共に首位三上法夫と1打差2位[27]でスタートし、シニア入りした1990年には第1回「コマツアバンセオープン」を通算8アンダーで優勝[28]。
日本シニアオープンでは1991年にエレウテリオ・ニバル(フィリピン)と並んでの6位タイ[29]、1993年に金井清一・新井規矩雄・天野勝に次ぐ4位[30]、2000年には小林富士夫・上原宏一・井上久雄・中村忠と並んでの6位タイ[31]に入った。
1997年のダイドードリンコ静岡オープンでは2日目に通算4アンダーで9位タイと健闘し[32]、日本プロシニアでは2日目には初日首位の中山徹と共に2打差の2位[33]に着け、3日目には前日首位の榎本七郎から奪い返した中山から3打差2位[34]、最終日は72で回って通算2アンダーの286で逆転優勝[35]する。
1998年のミズノオープン[36]を最後にレギュラーツアーから引退し、1999年の日本プロシニアで中山・冨田三十士と並んでの6位タイ[37]に入り、2000年・2001年には日本グランドシニアを連覇[38] [39]。