高橋太郎 (言語学者)

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死没 (2006-11-20) 2006年11月20日(79歳没)
日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都大学
高橋 太郎
人物情報
生誕 (1927-05-15) 1927年5月15日
日本の旗 日本京都府京都市下京区
死没 (2006-11-20) 2006年11月20日(79歳没)
日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都大学
子供 高橋さきの
高橋洋平
学問
時代 昭和平成
研究分野 日本語学
研究機関 国立国語研究所
麗沢大学
立正大学
関西外国語大学
学位 博士(文学)
主要な作品 #著書
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高橋 太郎(たかはし たろう、1927年5月15日 - 2006年11月20日)は、日本言語学者日本語学者

京都府京都市下京区の生まれ。1952年京都大学文学部哲学科心理学専攻卒業。国立国語研究所名誉所員。学位は博士(文学)

1988年に国立国語研究所を定年退職。

長女は翻訳家高橋さきの。次男は映像作家高橋洋平

業績

国立国語研究所を退職後も麗沢大学立正大学関西外国語大学などで学生の教育にも力を注ぎ、多くの研究者を育てた[1][2]

奥田靖雄鈴木重幸らの言語学研究会の主要メンバーの一人であり、教育科学研究会・国語部会その他の民間教育研究団体や、日本教職員組合全日本教職員組合教育研究全国集会等でも、講師などとして国語教育(主として文法を体系的に教える言語教育)に関する指導・助言を行った[3]

人物

大学時代は矢田部達郎に師事したが、矢田部からは入学早々に「君は入るところを間違えた。学問は対象に規定されるのだから、心理学よりも言語学国語学講義を聴いて、きちんと勉強しなさい」と言われた[4]

いわゆる熱血漢で、毎週開かれる研究部会議の席上でを叩きながら激しい口調で鋭い質問や提言をしたり、学会でも発表者に鋭い質問を浴びせたりしたが、多くは本質に関係することであり、研究内容の実証性を問うものであった[5]

「研究は全て研究室で行うもので、家は食事をし、寝るところである」と考えており、朝早くから夜遅くまで研究所に滞在して仕事を進めた[6]。学問に対する姿勢は実例主義を貫いており、研究室には小説などの文庫本をコピーしたカードを大量に保管するなど、来る日も来る日もデータと向かい合っていた[7]議論するときは、単なる観念論のようなものではなく、「そういう例は島崎藤村の『破戒』に出てくる」といった調子で、様々な多くの具体例を取り上げていた[8]

「弟子が師匠の技を盗むのは当然のことだが、師匠が弟子の研究を自分のものとすることは許されない」と考えていた[8]。自身の古稀記念論集に寄せた論考には、自分のにあたるような教え子たちの論文を幾つも引用している[8]

著書

脚注

参考文献

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