高銖

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高 銖(こう しゅ、生没年不詳)は、唐代官僚は権仲[1]

元和6年(811年)、進士に及第した。河東節度使の張弘靖の幕府に召し出されて、その補佐役をつとめた。元和15年(820年)、穆宗が即位すると、高銖は入朝して監察御史となった。員外郎・吏部郎中を歴任した。大和5年(831年)、給事中に任じられた。大和7年(833年)、監中外官考使をつとめた。大和8年(834年)10月、文宗が国子監助教の李仲言を侍講として任用しようとすると、高銖らはこれを諫めた。この年、旱魃の後で長安の穀物の価格が騰貴し、彗星の天変があり、選挙が停止されて、民情が騒然とすると、高銖らは鄭注を非難する上奏をおこなった。大和9年(835年)、李訓と鄭注が政権をうかがうと、高銖が自分たちにつかないのを憎んだ。5月、高銖は越州刺史御史中丞・浙江東道観察使として出された。開成3年(838年)、検校左散騎常侍を加えられた。ほどなく入朝して刑部侍郎となった。開成4年(839年)7月、河南尹として出向した。会昌6年(846年)、吏部侍郎となった。大中元年(847年)、礼部尚書・判戸部事となった。のちに太常寺卿に転じた。太常寺博士の李愨に非難されたことを恥じて、死去した[2][1]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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