高鍇
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元和9年(814年)、進士に及第し、さらに博学宏辞科に登第した。河東節度参謀として召し出され、吏部員外郎に累進した。大和3年(829年)、別頭試の結果が紛糾すると、監察御史の姚中立が高鍇の審議で定めるよう奏聞した。大和6年(832年)2月、高鍇は司勲郎中から諫議大夫に転じた。大和7年(833年)、中書舎人に任じられた。大和9年(835年)10月、本官のまま知礼部貢挙をつとめた。開成元年(836年)、礼部侍郎となった。高鍇は科挙をつかさどること3年、毎年の及第者は40人に上り、その数が多すぎると文宗に非難された。開成3年(838年)、吏部侍郎に転じた。9月、鄂州刺史・御史大夫・鄂岳観察使として出向した[2][3]。開成4年(839年)、刑部侍郎から河南尹となった[4]。のちに死去した。礼部尚書の位を追贈された[2][5]。