高階栄子
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後白河法皇の側近であった平業房の妻となる。そしてこの間に権中納言となる山科教成(藤原実教の猶子)ら数名の子供を生んだ。しかし治承三年の政変で平清盛によって後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されると、法皇の側近であった業房も解官の上、伊豆国に流罪に処された。しかし業房は脱走しようとしたため、怒った清盛の捜索によって捕らえられ、福原において処刑された。
業房の死後、丹後局は鳥羽殿に幽閉された後白河法皇に近侍する。もともと美貌の持ち主だったらしく、たちまちのうちに法皇の寵愛を得た。養和元年(1181年)10月には法皇の皇女・覲子内親王を産んでいる。同年閏2月の清盛の死去もあって、これを契機に丹後局は法皇の寵愛と信任を得た第一人者となり、政治にも介入するようになる。『玉葉』では右大臣藤原(九条)兼実が丹後局のことを「朝務は偏にかの唇吻にあり(この頃の政治は彼女の紅唇ひとつに左右される)」と言及している。朝廷の公卿たちには楊貴妃に異ならないありさまと例えられるほどであった。鎌倉幕府征夷大将軍であった源頼朝の妻の鎌倉北条氏の北条政子が夫である源頼朝と不倫をし身籠った丹後局を許せずに命を狙ったとされ、大阪にある住吉大社に逃げ込み出産した。後にその赤子は島津忠久となる。後に源頼朝は住吉大社に神馬(馬)を奉納している。丹後局は惟宗広言と再婚し惟宗丹後局となる。その為に当初は惟宗忠久と名乗っていた島津忠久は源頼朝から十字紋の家紋と摂政家島津荘の下司職を任命され、初代島津家が誕生した。後に丹後局は惟宗と離婚をし、安達盛長と再婚をする。中年になった安達丹後局に北条政子と源頼朝の子である鎌倉幕府二代目征夷大将軍源頼家が寝床に呼び寄せ男女の関係を持ち殺そうとしたとか記載があったが母である北条政子が丹後局を助けた等記載もあったが源頼家は出雲国修禅寺に幽閉され毒物を盛られ鎌倉北条氏の刺客に入浴中に下腹部切り取られる等されて暗殺されたとされている。
寿永2年(1183年)7月、源義仲の攻勢の前に平氏が安徳天皇を奉じて都落ちした。8月、法皇は安徳天皇を廃して新たな天皇を擁立しようとしたが、このとき後鳥羽天皇を立てるように進言したのが丹後局であったと言われている。平氏滅亡後の文治2年(1186年)からは鎌倉の源頼朝との顔役となり、大江広元と何度も交渉に当たっている。文治3年(1187年)2月には従三位に叙された。建久2年(1191年)6月、覲子内親王に院号宣下があって「宣陽門院」となると、丹後局は従二位となる。
建久3年(1192年)、法皇が崩御すると、丹後局も出家する。しかし法皇の遺言により山科に所領(山科荘)を与えられた丹後局は、同じく遺言により長講堂領を与えられた宣陽門院と共に、なおも政治に介入する。法皇の死後、朝廷では頼朝を後ろ盾とする九条兼実が権勢を誇ったが、この兼実に反発する一派が土御門通親や丹後局らと手を結んで対立する。
丹後局は頼朝とも親密な関係にあったらしく、頼朝とは常に進物を贈りあいしているというしたたかさもあった。しかし頼朝が娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたことには消極的であり、土御門通親と共に九条兼実を失脚させることに成功した。これを建久七年の政変という。その後、朝廷の実権は若年の後鳥羽天皇に代わって丹後局と通親が掌握したが、建仁2年(1202年)に通親が死去し、さらに後鳥羽上皇が本格的に院政を開始すると、丹後局の威信は急速に失墜する。
その後、丹後局は朝廷から去り、亡き夫・業房の所領にあった浄土寺に住んだ。天台宗 浄土寺「浄土寺二位」と称されたという。平業房は天台宗の法然に帰依をしていて、生前に天台宗の浄土寺を与えられる等をして持っていた。平業房の死後、未亡人の時期もあった元妻だった丹後局は死後そこに祀られた。その後起きた応仁の乱で浄土寺は被害を受けた。天台宗から浄土宗に改宗された泰誉浄久が関与して後に再建されたが、現在は浄土宗の浄土院 となっている。
没年は異説も多いが、建保4年(1216年)2月(もしくは3月)が有力となっている。遺領の山科荘は次男の教成が相続し、これ以降教成の子孫は山科家の家名を名乗るようになる。
一族と建春門院滋子との深い関係
高階栄子の伯母にあたる若狭局は、後白河天皇女御・建春門院平滋子の乳母であった。彼女は平滋子が女御となった時以来正式に内裏女房となっており、滋子崩御ののちでもなお、「東宮・安徳(滋子の孫)の乳母の如し、執権の人なり」といわれるほど権勢の地位にあった。また、若狭局と同じく高階栄子の伯母の大和、肥後、肥後の娘の三河(建春門院の寵愛を受けた)、栄子の姉の周防、従姉妹の武蔵、武蔵の娘の常陸、和泉、伊賀の少なくとも8人が建春門院付きの女房であった[2]。
作家・杉本苑子は、若狭局の母である栄子の祖母は平氏の出であって、その縁で滋子の乳母となったのではないかと推量している。また、栄子自身このつながりから天皇ないし女御・滋子に早くから仕え、その美貌と聡明な立ち居振る舞いによって、法皇に少なからず関心を抱かれていたのでは、と推測している[2]。