高階良臣
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承平8年(938年)武蔵介・源経基が平将門の謀反を朝廷へ誣告すると、翌天慶2年(939年)朝廷は当時左衛門少尉だった良臣と、左衛門権佐・源俊、勘解由主典・阿蘇広遠らを問東国密告使に任じて、その事実確認を命じる。しかし、3名は障りがあると称して東国へと下向せず、その内に東国は承平天慶の乱で大いに乱れたため、翌天慶3年(940年)3名は怠慢をもって揃って解官となった[4][5]。
天慶4年(941年)末の大赦で恩赦となり、天慶5年(942年)には民部少丞に任じられた[6]。その後、左近衛中将や左京大夫を歴任したともいい、円融天皇の代に従四位下・宮内卿まで昇る。
良臣は仏法に深く帰依し、晩年は日夜法華経を唱えて往生極楽を祈念したという。天元3年(980年)の年頭より病がちになり、夏にやや回復したのを機に出家した。すると病状が持ち直したため、家人たちに遺言をよく伝えた。7月5日になって死去したが、臨終の際には芳ばしい香りが満ちて美しい音楽が流れ、また酷暑であったにもかかわらず遺体が腐乱することがなかったため、人々は不思議がったという(『今昔物語集』)[7]。
人物
文の道に達した才人であったという[2]。