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魏ボ

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魏 謩(ぎ ぼ、793年 - 859年)は、唐代の官僚・政治家・歴史家。字は申之[1][2]。本貫は恒州鼓城県。

経歴

大和7年(833年)、進士に及第した。楊汝士が同州刺史となると、魏謩は同州防禦判官として召し出され、秘書省校書郎となった。楊汝士が入朝すると、魏謩は推薦されて右拾遺となった。文宗は『貞観政要』を読んで魏徴の賢明さを敬慕していたため、その子孫である魏謩を厚遇した[1][2]。

前の邕管経略使の董昌齢が邕州都督府録事参軍の衡方厚を誣告して殺し、叙州司戸参軍に左遷され、まもなく硤州刺史に移された。魏謩は故意に人を殺した者には赦令はなく、刺史に任命するのは理に合わないと、文宗を諫めた。そこで董昌齢は洪州別駕に転出した[1][2]。

大和9年(835年)、御史中丞の李孝本が李訓の罪に連座して処刑され、その娘が後宮に入れられると、魏謩はこれを諫めた。文宗は聞き入れて李孝本の娘を後宮から出し、魏謩を右補闕に任じた。教坊副使の雲朝霞が笛を吹くのを得意としたため、文宗に気に入られ、揚州司馬を兼任した。魏謩が文宗を諫めると、雲朝霞は潤州司馬に移された[3][4]。

開成3年(838年)、魏謩は起居舎人に転じた。ほどなく本官のまま弘文館に宿直した。開成4年(839年)、起居舎人を兼ねたまま、諫議大夫に任じられ、判弘文館事をつとめた。宦官の使者が起居注を見ようとしたが、魏謩はこれを許さなかった。また文宗が起居注を閲覧しようとすると、魏謩は史官が善悪を直筆できなくなり、後世の信用を失うといって諫めた[5][6]。

開成5年(840年)、武宗が即位し、李徳裕が宰相となると、魏謩は楊嗣復や李珏の仲間とみなされて、汾州刺史として出された。楊嗣復や李玨が左遷されると、魏謩もまた信州長史に流された。会昌6年(846年)、宣宗が即位し、白敏中が宰相となると、魏謩は郢州刺史に移された。大中元年(847年)、商州刺史に転じた。大中2年(848年)、長安に召還されて給事中となり、御史中丞に転じた。戸部侍郎を兼ね、判戸部司事をつとめた[7][8]。

大中5年(851年)、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[9][10]。ほどなく集賢院大学士を兼ねた。大中6年(852年)、河東節度使の李業が降伏した北方民族たちを殺害すると、北方辺境は大騒ぎになった。魏謩は李業を弾劾し、李業を滑州に移させた。魏謩は中書侍郎を加えられた。大理寺卿の馬曙の僕従の王慶が馬曙の家に武装を隠してあると告発した。馬曙は罪に問われて左遷されたが、王慶は罪に問われなかった。魏謩は法律を引いてこれを非難し、王慶を杖殺させた[11][8]。

魏謩は銀青光禄大夫の位を加えられ、礼部尚書・監修国史を兼ねた。『文宗実録』40巻を編纂して奏上した。大中10年(856年)、門下侍郎に転じ、戸部尚書を兼ねた。大中11年(857年)、検校戸部尚書・同平章事・成都尹・剣南西川節度副大使・知節度事として出向した。病のため交代を求め、召還されて吏部尚書に任じられた。魏謩は病が治らず、散官を求め、検校尚書右僕射・太子少保となった。大中12年12月(859年1月)、魏謩は死去した。享年は66。司徒の位を追贈された。著書に『魏氏手略』20巻・『文集』10巻があった[12][8]。

家族

  • 玄祖父:魏徴
  • 高祖父:魏叔琬
  • 曾祖父:魏殷(汝陽県令)
  • 祖父:魏明(県令)
  • 父:魏馮(献陵台令)[1]
  • 子:魏潜
  • 子:魏滂[13]

脚注

伝記資料

参考文献

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