李珏

From Wikipedia, the free encyclopedia

李 珏(り かく、785年 - 853年)は、唐代官僚政治家は待価[1][2]本貫趙州賛皇県

塩鉄判官の李仲塾の子として生まれた。幼くして父を失い、母に孝事して知られた。進士に及第し、河陽三城懐州節度使の烏重胤の幕府に招かれた。書判抜萃科に登第して、渭南県尉に任じられた。右拾遺に抜擢された。穆宗が酒色にふけっていたため、李珏は同僚たちとともに上疏してこれを諫めた。穆宗は諫言を聞き入れなかったが、かれを慰労した[1][2]

長慶元年(821年)、塩鉄使の王播が茶税を増税しようとしたため、李珏は上疏してこれに反対した。ときに禁中で百尺楼が造営され、財政が逼迫しており、王播の増税論は穆宗の意に沿っていたことから、李珏の上疏は顧みられなかった。李珏は司勲員外郎・知制誥となった[3][4]

大和5年(831年)、李宗閔牛僧孺が宰相の地位にあり、李珏と関係が深かったことから、李珏は度支郎中・知制誥となり、翰林学士をつとめた。大和7年(833年)3月、中書舎人に任じられた。大和9年(835年)5月、戸部侍郎に転じた。7月、李宗閔が罪を得ると、李珏も連座して、江州刺史として出向した。開成元年(836年)4月、太子賓客・分司東都となり、河南尹に転じた。開成2年(837年)5月、李固言が宰相となると、李珏は再び戸部侍郎となり、判戸部司事をつとめた。開成3年(838年)、楊嗣復が宰相となると、李珏はその推薦を受けて、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった。12月、上疏して退任を求めたが、許可されなかった。開成4年(839年)、賛皇県男に封じられた[5][6]

開成5年(840年)8月、李珏は宰相から退任し、太常寺卿となった。9月、桂州刺史・桂管観察使として出向した。会昌元年(841年)、端州司馬に左遷され、昭州刺史に転じた。会昌3年(843年)、驩州に流された。会昌5年(845年)、郴州刺史に転じた。会昌6年(846年)、舒州刺史に転じた。大中2年(848年)、崔鉉白敏中李徳裕を追放すると、李珏は入朝して戸部尚書となった。孟州刺史・河陽三城懐州節度使として出向した。入朝して吏部尚書となった。金紫光禄大夫の位を加えられ、検校尚書右僕射・揚州大都督府長史・淮南節度使・上柱国となり、賛皇県開国公に封じられた。大中7年(853年)、死去した。享年は69。司空の位を追贈された。は貞穆といった[7][8]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI