1605年7月1日生まれる(生まれた場所は不明)。崇禎3年(1630年)に、庚牛科順天府郷試に合格し、23番目の挙人となり、崇禎13年(1640年)には、庚辰科易四房試にて98番目に合格して進士となった[1]。その後の殿試にて、崇禎帝は再び進士48人を文華殿召し、『今日の内外の争いいかにして復讐し晴らすか?』と問い魏藻徳は『知恥』と答え、更に、崇禎11年(1638年)の通州を守り功績を挙げたと答えた。崇禎帝は、彼を第1位にし、翰林院の修撰に任命した。崇禎16年(1643年)5月に、兵事の策疎くして帝意を尽くしたため、破格の昇進で、礼部中郎将兼内閣大学士として内閣の補正に就任した。崇禎17年(1644年)2月に、崇禎帝は、工部尚署に任命され、河道総督、屯田、練兵などに任命され、天津に留まる。3月、陳演を罷免し、魏藻徳は内閣首輔に就任した。同月、宦官の社励が李自成の攻撃を受けないよう降伏を勧めたが崇禎帝が彼に意見を求めると、何も答えなかった。それに崇禎帝は激怒し、魏藻徳の前で龍椅を倒した。その後、李自成は、燕京(北京)を破り、魏藻徳は降伏した。その後李自成は、魏藻徳になぜ殉死しなかった理由を聞くと『効用を求めるなら、敢えて死ぬ』と答えた[2]。その後、李自成は劉宗敏に彼に対して恐喝を命じ、十万銀の支払いを求めてたが、魏藻徳は一万銀しか払わなかった。劉宗敏は少ないと考え、5日5夜にわたって、刑罰を求めたが、脳が裂けて、死亡した。享年38-39歳。