魚梁船
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名称
魚梁船は一般には「やなぶね」と呼ばれていたが、公的な場では「ぎょりょうせん」と称された。また「剣先船」や「大和川通船」と呼ばれることもあった[1]。
「魚梁」という名称は、魚梁船の拠点であった立野村(三郷町)に、龍田大社の瀧祭で供える魚を捕獲するための簗が設けられていた場所があり、その場所を魚梁と呼んでいたことに由来する[2]。

構造
魚梁船の船頭だった大川亀吉によれば、魚梁船の長さは約8間半(15.45メートル)、幅は5尺(1.52メートル)ぐらいの平たい船であり、筵を広げて帆としていた。大阪側の大和川で就航していた剣先船とほとんど構造が一緒であり、やや小型である点のみが異なっていたという[1]。
江戸時代の『諸川船要用留』によれば、剣先船は長さが17.58メートル、幅は1.52メートルとあり、魚梁船の証言よりも2割ほど大きい[3]。
歴史
前史
魚梁船が登場する以前の大和川水運については、明確な記録が残されていない。ただし、大和川に船が通っていた可能性を示すものとして、『日本書紀』に記された裴世清(はいせいせい)に関する記述がある。裴世清は607年、小野妹子の遣隋使帰国に随行して来日した隋の使者である。記録によれば、筑紫から難波を経て海柘榴市に至り、そこから京に入ったとされる。海柘榴市は現在の桜井市に位置し、大和川沿岸にあったと考えられている。この経路について、多くの研究者は、裴世清が大和川を船で遡った可能性を指摘している[5]。

魚梁船の創始
1609年、大和国の平群郡を支配していた竜田藩の片桐且元は、大和川で領内の米の船運を行うため、大和国と河内国の境にある亀の瀬の大和川開削工事を行った。工事の指導は角倉素庵が担当した[6]。この工事は岩の根が深くて切ることができず成功していなかったと考えられている。工事の際、亀の形をした亀岩の首を切ったところ、血が流れだしたとの伝承も残っている[7]。
1610年、且元は立野村(奈良県三郷町)の龍田大社の神人である安村喜右衛門に船を造らせ、その支配を命じた[8]。且元は安村家に魚梁船の経営で得た利益の一部を龍田大社の維持に充てることを義務付けている[9]。
魚梁船は亀の瀬の滝から上流の大和の村々までを運行した。魚梁船の航行権は安村家のみに認められ、他の者は船を航行させることができなかったという[10]。
立野村百姓への支配権の移行
1655年、竜田藩の3代藩主、片桐為次が死去、断絶により竜田藩はいったん廃藩となったが、為次の弟の片桐為元が家督を継いで存続した。為元も子がいないまま死去すると、小泉藩の片桐貞就を養嗣子として迎えたが、この貞就も1694年に死去。片桐氏は断絶により改易となった[11]。
片桐氏の改易後、立野村は幕府領となり、大和代官の竹村八郎兵衛が管轄することになった。八郎兵衛は、運上銀として安村喜右衛門に毎年銀30枚を納めさせることで魚梁船の支配を続けさせようとしていたが、立野村惣百姓が銀100枚で魚梁船を支配させてほしいと請願した。幕府は言い分の正しいほうに支配させるように八郎兵衛に指示するが、1695年に八郎兵衛は死去する[12]。
八郎兵衛の後を継いだ辻弥五左衛門に対し、喜右衛門は魚梁船支配の由緒と運上銀100枚の納入を主張した。一方、惣百姓は銀150枚で魚梁船の支配を認めてほしいとの願書を提出した。結果、五左衛門は片桐が安村家に魚梁船の支配を命じたというのは言い伝えに過ぎず確かな証拠がないことを理由に惣百姓に支配権を移譲することを決定、元禄10年(1697年)に立野村百姓に支配権が移行した[12][13]。この移譲には、立野村全体に利益を寄与するという目的もあった[12]。
立野村の百姓支配は、幾つかの困難に直面した。まず、村内での勘定をめぐる内紛が発生し、隣村の藤井村庄屋が仲裁に入る事態となった。また、1707年に発生した宝永地震では船が損壊、積荷補償をめぐって大和国の503村および大阪の干鰯商人から訴訟を起こされる事態となった。1710年の判決では立野村側の主張が認められ、大阪と亀の瀬間での破船による被害については、同村に責任はないとする判断が下された[14]。
安村家の再支配
支配権が惣百姓に移った後も、安村喜右衛門は再獲得を目指して請願を繰り返した。その結果、「先祖は魚梁船で得た利益で龍田大社を修復してきたが、支配権の移転で支障が生じている」との主張が認められ、1713年に支配権が安村家へ返還された[15]。
しかし、川船の新調費や人件費を賄う資金が不足していたため、返還から20日後には宇治の喜多立玄と北柳生村の森吉左衛門に支配権の半分を売却し、年間利益の半分を両者に分与することとなった[16]。安村家はこの支払いをたびたび滞納しており、1725年には、支払いを求めて奈良奉行所に訴えを起こされている[15]。以後、明治まで魚梁船は安村家と森家の支配が続いた。
大和川付替え
大和川はかつて河内に入ってから北上し淀川と合流する流路を取っていたが、氾濫が頻発していたため、現在の堺に向かってまっすぐ進む流路に付け替えられている。
河内平野の大和川は、17世紀に入ったあたりから山が荒れたことなどを背景に急激に土砂の堆積が進み周りよりも水位が高い天井川となっていた。天井川は一度氾濫を起こすと溢れた水が川に戻らず被害が大きくなるという特徴があり、この大和川もたびたび氾濫を起こしていた[17]。最初に旧大和川沿いの村々による付け替え運動が起こったのは1659年とされ、翌年には幕府による大和川の付け替え検分が行われている[17]。このあと何度も請願が繰り返されるが、新流域となる村々の反対運動もありなかなか実現せず、運動は衰退していった[18]。1703年、幕府は大名手伝普請で各藩に負担を分担させられることや、旧流域を新田開発することで金銭収入が増えるなどの理由から大和川の付替が決定、8ヶ月の工期を経て大和川は付け替えられた[19]。
付け替えの水運への影響
大和川の付け替えにより、剣先船は亀の瀬へと遡ることができなくなり、代わりに平野川を運航していた柏原船が大和への荷物を引き受けるようになった。柏原船は荷物取扱量が三倍になるほどの活況をみせたが、10年もすると取扱量が急速に減少している。これには剣先船が新大和川に運航ルートを変更し軌道に乗り始めたことが影響した可能性が指摘されている[20]。
大和川付け替えの影響は船賃の引き上げとして現れた。莫大な肥料を購入して綿作を行っていた大和の村々にとって船賃は死活問題であり、1705年、1714年、1726年、1783年の四度にわたって剣先船の船賃値上げの反対運動を起こしている。1840年の反対運動は大和の総石高の6割を占める村々が関わり国訴と呼ばれる規模にまで発展している[21]。
衰退
1872年、安村氏が独占していた魚梁船の権利が廃止され、大和川の川船の運航は自由化された。しかし安村氏以外に新たに川船の運航に名乗りをあげる者がおらず安村氏の独占状態が継続した[22]。
1875年、安村家、藤井問屋、河合啓五良の三者が共同で「内国通運会社運送取扱所」を設立している[23]。
また、亀の瀬で行われていた積み替え作業を不要にするため、亀の瀬の開削工事を行った。この工事では、航行の障害となっていた岩礁の除去に加え、堰を閉じて水位を上げ、船を通すための水平式運河が設けられた。1883年、総工費1,400円をかけて工事は完成し、亀の瀬での積み替えを行わずに通航することが可能となった[22]。
このような改善策を施したものの荷物の取扱量は減少していった。1885年の広告によれば、運送量の減少を受けて昼夜を問わず運航するようになり、さらに旅客を乗せる船の運航も開始された[24]。
1892年、大阪の湊町と奈良を結ぶ大阪鉄道が開通、物流は鉄道へと置き換わり魚梁船は姿を消した[25]。安村氏は船を売却して大阪に移り、大和川には棄却された魚梁船が漂っていたという[22]。

現在魚梁船は一艘も現存していない。船材は民家の建築材に転用されており、特に三郷町に多く分布する[26]。
運航
組織
記録によれば、魚梁船の船団は、1713年に70艘、1724年に73艘、1808年に70艘運航していたとされ、中期以降は70艘前後で推移していたとみられる[27]。7艘を一組として一番手から九番手、そして大川組と唱える組の合計10組の編成が組まれ、一つの組はそれぞれの組頭によって統率された。これは水量が少ない際、水路を浚って船を通すのに人手が必要であったための措置である[28]。
運航
一年のうち6月から9月にかけては大和川の水が灌漑に使われ水量が少なくなるために魚梁船は運航できずたびたび欠航している。春から初夏にかけての就航を「春川」と呼び、主に大和へ油粕や干鰯といった肥料が運ばれた。秋と冬の就航は「秋川」と呼び、主に河内へ米や雑穀が運ばれた[29][30]。
江戸時代、大和国は全国有数の綿作地帯として知られていた。奈良盆地は降水量が少なく、水不足に悩まされる地域であったが、綿は比較的水を必要としない作物であるため、この地で広く栽培されるようになった[31]。綿作には多量の肥料が必要とされ、その供給は大和国内の村々にとって極めて重要であった。1714年の記録によれば、大和国で消費された肥料は年間で40万駄にのぼった[32]。
肥料は水に濡れると商品価値が大きく低下するため、船には葦や藁で編んだ筵を屋根としてかけ、水しぶきや雨への対策が施された。また、船の破損や水濡れによって荷が損なわれた場合に備え、運賃には保険料にあたる運上銀が含まれていた[31]。
所要時間
大阪から亀の瀬までは、大和国百姓が船方を訴えた史料で、付け替え前は1日で航行できたが、付け替え以降は4日から5日、時には10日近くかかるようになったとある。下りは、明治時代の時刻表によれば、今里の浜から堺を経由して大阪まで向かうのに13時間をかけて下っていた[24]。





