鮫島宗雄
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1920年(大正9年)、岡山医学専門学校に進学する[注 1]。在学中の1922年に岡山医学専門学校は岡山医科大学に昇格した。1924年(大正13年)3月、岡山医科大学付属専門部を卒業[2]。
日本の各地の医師を経て、南洋群島に渡り1934年(昭和9年)頃に南洋庁の官医となる。1940年医学博士号取得[3]。 太平洋戦争で南方海域での戦況悪化に伴い、本土に戻り東京府の医師として勤務する。1942年(昭和17年)に府立淀橋健康相談所所長、兼阿佐ヶ谷健康相談所所長、兼板橋性病予防所所所長、兼淀橋性病予防所所長に赴任[4]。軍医として戦時招集され、シンガポールに赴任。肺結核を患い復員し、召集前の勤務地である杉並区内の結核療養所である救世軍杉並療養所(現在の救世軍ブース記念病院)に入所。1947年(昭和22年)に同所で死去。
マーシャル諸島での調査研究
南洋庁の管轄島嶼域内の医学、疫学調査結果は南洋庁警務課が「南洋群島地方病調査医学論文集」として1933年に発刊し、1939年まで続刊されていたが、その中でサイパン島は岡谷昇、ヤップ島は藤井保、ヤルート島(マーシャル諸島)は鮫島などが主に報告を行っている。マーシャル群島内の指紋調査[5]ではマーシャル群島内に設けられた4公学校(ジャポール(ヤルート)、エボン、クェゼリン、ウォッジェ)の生徒400名と比較的大規模に実施し、指紋学上の民族的傾向がパラオ人と近似し、その次に中国人、朝鮮人に近似するなどモンゴロイド系族の性質を具えていることを見出している。また、初めて大規模にマーシャル人(346人)のABO式血液型を調査し、O型53%、A型23%、B型19%、AB型4%とO型が圧倒的に多いことを報告している。他、多数のマーシャル人の体格、形態について細かい測定を行い報告を行っている。これらの鮫島の民族疫学的研究は当時金沢医科大学教授である古屋芳雄の指導を多大に受けている。古屋芳雄は、永井潜とともに日本人やアイヌ人の生物測定学的研究の推進、後に国民優生法の制定につながる「民族優生協議会」(断種法制定を協議する場)へ強く関与し[6]、2代目の国立公衆衛生院長、日本医科大学教授となる人物である。