黒シール事件
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経緯
11月19日朝、新井の事務所に新井を中傷するポスターが張られているとの電話が殺到した[4]。新井事務所はスタッフやアルバイト総出で張り替え作業を行ったのち[4]、選挙区であった大田区、品川区全域にあった凡そ5000枚のポスターの7、8割に同様のシールが貼られていることが判明した[4]。このシールは同日夕方新井の事務所脇にあったポスターにも貼られていた[4]。
2、3人からなるパトロール隊が2組編成され、警戒に当たっていたところ[4]、同日午後11時10分ごろ、品川区蒲田のそば店に張られていた新井のポスターに縦16cm、横7cmの黒シールを貼る浮浪者風の男を支持者の大学生が発見し、池上警察所派出所に連行された[4]。
新井は会合を終え事務所に向かう途中で犯人連行の報を聞き[4]、支援者の東京都議の醍醐安之助は事務所に帰ってきた新井に対して「やっぱり神様がいるんだよ。悪いことはできない」と叫んだ[5]。
池上署の取り調べの結果、男は石原慎太郎公設第一秘書の栗原俊記であった[5]。栗原は取り調べを受けたものの、新井の事務所からの告訴がなかったため釈放された後、石原慎太郎に対して辞表を出した[5]。
『週刊宝石』1983年1月14日号によれば、記者が栗原の元を訪れた際、栗原は「私個人がやったことであり、石原は無関係。シールは300枚ほど貼った。石原からはバカなことをしてと言われた。」と語っている[5]。また、栗原は同年4月28号付の『週刊新潮』では「5000枚作って三日かけて貼った。」と語っていた[6]。
この際、栗原は1982年6月ごろに事務所宛てに「新井はこういう経歴だから大阪から出馬できない」との電話と共に新井の戸籍謄本が贈られてきたと主張していた[6]。
栗原は「新井の本名が朴景在であり、1966年10月に朝鮮籍の両親と共に日本国籍を取得」としていた[7]。また、問題となった戸籍謄本は品川区の品川信用組合の顧問弁護士の小野孝徳が取得し[7]、小野は河信基からの問いに対し戸籍謄本の取得依頼があったことを認めている[7]。
新井の朝鮮籍について、新井が帰化人であった事実は政界に広く知れ渡っていたうえ[7]、戦後在日朝鮮人は朝鮮籍となったのち、日韓条約によって韓国籍の人物に永住権を付与されることになり朝鮮籍から韓国籍、日本国籍を取得する者が増えたことによるもので[8]、河信基はこれを「初歩的な誤り」として批判している[8]。
石原慎太郎本人は事件について言及せず、石原の第二秘書の柳原常晴は「シール事件は栗原個人がやったことである」と発言していた[9]。
しかし、選挙区であった大田区や品川区では石原側の弁明は受け取られておらず、83年1月14日号の『週刊宝石』では大森魚市場の事務所で石原が「新井将敬は韓国だ、それも北の方だ、こういう人間が国会議員になると北朝鮮のスパイと通じることになる」と発言していた飯島克美の証言が取り上げられている[10]。
柳原はこの石原の発言についても「新井将敬氏個人の名誉にかかわることを言った覚えはない。そんな馬鹿なことをいうはずはない」と石原からの言葉として反論している[10]。
事件以降、新井の事務所や自宅に無言電話などの嫌がらせや街頭に立つ新井に対して「朝鮮人、帰れ」とヤジを飛ばす者もいた[11]。さらには、週刊新潮の記事と新井の両親の戸籍を大田、品川区内の全ての町内会長や商工会会長に郵送される事態に到っている[12]。
週刊新潮での栗原のインタビュー、そして一連の嫌がらせによって、1983年(昭和58年)5月16日、新井は東京地検に栗原を告訴した[13][12]。
新井は記者会見で、「出生の条件を自分で選ぶことはできません。生命は父母からのさずかりものだからです。父や母が背負ってきた歴史から逃げることはできません。そんなことをこそこそとほじくり出してきて、石を投げつけるようなことをする選挙ゴロや一部の政治プロには負けたくない。それをはっきりさせたうえで、普通の人たちの判断にゆだねたい。そう思って、相手のハッキリしているシール事件のほうの告訴に踏み切ったんです。」「正直言って、栗原君、石原事務所を罰したいという気持ちはまったくありません。政治家としての僕の存在する理由、生きていく意味、栗原君たちの人間観、世界観、敢えて言えば歴史観というものと僕の考えを、明らかにしていきたい……」と語ったほか[14][15]、新井がルーツについて両親に聞いたことも語っている[14]。
しかし、新井は本件について告訴を取り下げた[16]。『週刊宝石』1998年4月9日号内の栗本慎一郎の談によれば黒シール事件を知った野村秋介が石原事務所に対して「日本人の面汚しだ」と怒鳴り込み、それがきっかけとなって新井は野村に恩義を感じたことや思想に共鳴したことで親交を持つようになり、衆議院議員当選後の1993年7月、野村を仲介役とした新井と石原の会合の中で石原が謝罪したことにより決着がついたとしている[16]。
河はこれに関して栗本の真意を探るために議員会館事務室を訪問したが、「それは言っていない」との返答を貰っている[17]。これについて河は野村と石原の間の手打ちであり、新井に対して石原は謝罪していないと指摘している[17]。
1983年12月の第37回衆議院議員総選挙で新井は40393票で次点で落選するも、1986年9月の第38回衆議院議員総選挙で初当選を果たした[18][19]。