黒川真武

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死没 (1982-02-05) 1982年2月5日(82歳没)
研究分野 化学
黒川真武
人物情報
生誕 1899年3月23日
死没 (1982-02-05) 1982年2月5日(82歳没)
学問
研究分野 化学
研究機関 東京帝国大学工業技術院
学位 工学博士(東京帝国大学)
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黒川 真武(くろかわ またけ、明治32年(1899年3月23日 - 昭和57年(1982年2月5日)は、日本化学者工業技術院長化学、特に燃料工学に関する本邦屈指の権威として知られ、試験研究に関する技術行政の分野でも大きな足跡を残した。学位工学博士東京帝国大学)。

工業技術院長

大正12年(1923年)東京帝国大学工学部応用化学科卒業後、農商務省燃料研究所へ入所する。昭和9年(1934年燃料研究のため欧米を視察、帰国後『燃料協会誌』に「獨逸に於ける代用燃料の現況及将来」を寄稿する[1][2]。 昭和12年(1937年)に竹内寛との共同論文で『水性ガス反応における触媒の研究』を発表[3]、昭和21年(1946年)に『石炭水素添加に関する研究』で東京帝国大学より工学博士の学位を授与される[4][5][6]

昭和23年(1948年)、終戦後、食料や燃料が不足する状況下で、乏しい生活に耐えられながらも、生活の向上を考え、日本の再建を図るためには、基礎知識として「科学の一般化」が必要と考える。実際の観察、実験を元に科学的観察や考え方を学び、生活と科学の結びつきの重要性を啓蒙することを目的に、子供向けの『火の研究室』を刊行した[7]

昭和24年(1949年)燃料研究所長に就任する。昭和25年(1950年)には、進藤武左ヱ門加茂正雄始関伊平と共に第4回世界動力会議に日本代表団として出席している[8]。自立経済達成の前提条件は、工業技術水準の向上であり、生産性の向上も貿易の振興も技術の完全な裏付けが必要との視点から、化学物理電気の総合技術が必要となる防錆技術に着目した[9]。昭和27年(1952年通商産業省工業技術院資源技術試験所長を務める。

昭和30年(1955年)工業技術院長に就任する。ウィーンで開かれた第5回世界動力会議、イギリスで開催された石炭工業に関する化学工学会議に出席し、 ルール工業地帯を中心とするドイツ石炭化学工業をつぶさに視察した[10]。第二次大戦後の技術的空白を埋めるため、外国技術の導入が急増した状況が、「外国技術の見本市」と揶揄されるほどの過当競争を招き、国内の研究意欲を阻害している現状に強い危機感を示す。外国技術への過度な依存、当時の日本の技術輸出輸入のわずか100分の1に過ぎない国際技術収支の不均衡の現状を元に、日本の技術政策を提言した[11]

  1. 「独自技術」こそが国力の格付け:技術水準の高さは教育や資金と同様に「国力」そのものであり、特定の分野でリーダーシップ(世界一の技術)を持つことこそが、資源の乏しい日本の国際競争力を高める唯一の道である。
  2. 科学者に必要なのは「夢」:日本の研究者は過去の文献に頼りすぎる傾向があると指摘。ソ連の科学記者の言葉を引用し、「科学者の夢」こそが技術という木を育てる太陽の光であるとし、若い世代が夢を持てるような教育と指導の重要性を強調した。
  3. 境界技術と共同研究の推進:オートメーション化などに代表される現代技術は、電気機械化学など複数の専門分野が融合した「境界技術(総合技術)」が主流になると予見。専門の壁を越えた産学連携の共同研究や、専門外の知識(化学者が電気を知るなど)を習得する広い視野が必要である。
  4. 研究管理(マネジメント)の改善:日本は優れた発明(八木アンテナフェライトなど)をしながら、国内で正当に評価できず、外国で評価されてから逆輸入するという「目利きのなさ」を批判、成果を迅速に実用化するための「研究管理」の重要性を訴えた。

そして、石油繊維原料などの天然資源に乏しい日本にとって、合成高分子による「物質の代替」や「自給度の向上」は、産業構造を転換させる大きな力になると考え、日本が国際収支を安定させ、貿易を拡大するためには、世界最高水準の「独自の力による新技術の開発」が不可欠であり、付加価値が高い高分子が、日本の将来の発展にとって最も重要な工業の一つと提言した[12]

安全工学の体系化

昭和35年(1960年)に工業技術院長退任後は、日本学術会議会員、高圧ガス保安協会会長、日本工業標準調査会副会長、学士会理事、総合安全工学研究所初代理事長、産業公害対策委員会顧問、北海道炭礦汽船顧問などを歴任した。

高度経済成長期において、技術革新が進む一方で深刻化していた産業災害(特に化学事故)に対し、専門的な知見から警鐘を鳴らした。

  1. 技術革新とオートメーション化により、単純な死傷件数は減少傾向にあるものの、一度事故が起きると大規模化・複雑化している。
  2. 物理的から化学的へ、従来の機械的な事故だけでなく、目に見えない化学的反応による爆発や火災が増加している。
  3. それにより、連続操業化により、一部の事故が全工程の停止や莫大な損失を招く構造になり、経済的損失の増大している。

〇事故原因の3分類

  1. 新技術に伴う未知の現象: 開発を急ぐあまり、安全性の研究が後回しにされている。
  2. 異常操作: 工場の増設や改造など、日常とは異なる操作時に発生する。
  3. 不注意・規則無視: 教育の徹底と安全意識の欠如。

〇「生産技術」と「防災技術」の乖離

  1. 生産技術は目覚ましく発展しているが、それを守るための防災技術の研究が「縁の下の力持ち」扱いされ、著しく遅れている。
  2. 国産技術の開発においては、生産と防災を「平行して」確立すべき。
  3. 防災は化学、機械、電気などが融合した「境界技術(総合技術)」であり、専門家がバラバラに研究しても解決しない。

〇 下請業者への教育と責任

  1. オートメーション化が進まない修理や保守などの危険な作業現場に下請業者が多く入るようになり、犠牲者の多くが下請業者で占められている現状である。
  2. 下請業者への教育、安全工学の体系化が今後の大きな課題。

化学、機械、電気、物理などが交差する「境界領域(総合技術)」こそが防災の本質であると説き、安全を「個人の注意」に頼るのではなく、「安全工学(Safety Engineering)」という独立した学問体系として大学などに設置すべきだと提言した[13]。これにより、精神論としての「安全」から、データと工学に基づいた「事故を防ぐための設計・管理」へとパラダイムシフトが起こり、大学や研究機関に安全工学の講座が設置された。高圧ガス保安協会の初代会長として、法律(高圧ガス取締法)の改正とともに、民間企業が「自主保安」を行うための技術基準を作り上げ、企業自らが技術的にリスクを評価し、保安体制を組むという日本独自の自主保安体制のモデルケースとしている。

黒川調査団と公害対策

昭和38年(1963年)、通商産業省(通産省)が日本初の環境アセスメントを実施するために、学会の権威を集めて編成した調査団(通称「黒川調査団」)の団長に就任する[14]ばい煙の排出の規制等に関する法律(ばい煙規制法)の指定地域に三重県四日市市が適用されるための基礎資料を得ることを目的に、厚生省および通商産業省(通産省)から調査を委嘱された。また、反対運動が高まっていた東駿河湾地区石油コンビナートによる公害の心配を払拭するために調査を行ったが、住民による反対運動が強く、計画は中止された[15]。これらの調査を元に公害対策、石油化学コンビナートと公害の特殊性について指摘、国及び地方公共団体、企業側の産業公害防除対策の方向を提言した[16]。黒川団長の指導力は卓越し、電力系の委員(東大教授)の発言が討議の紛糾を招く中、語気を強くし、その後の大気汚染対策に影響を与える提言をまとめあげた[17]。この調査結果は、昭和42年(1967年)に制定された公害対策基本法の重要な科学的根拠の一つとなった。

日本の公害対策の「科学的基盤」を築いたパイオニアの一人であり、 環境庁設置の翌昭和47年(1972年)年の講演では、公害問題の解決には科学技術の進歩だけでなく、法整備、都市計画、そして国民の意識改革を含む、以下の包括的な取り組みが不可欠であると訴えた[18]

  1. 分析技術・防除技術の開発:有害ガスのサンプリング・分析技術は地味ながら非常に重要であり、精度と迅速性が求められるため国際的な協力も必要である。
  2. エネルギーの改質・燃焼方法の改善:工業用燃料の増加に伴い、排出される硫黄酸化物(SOx)や窒素酸化物(NOx)が重大な問題となっている。低硫黄重油(LS重油)、ナフサLPガスLNGといったクリーンなエネルギー源の確保、あるいは重油の脱硫排煙脱硫技術の開発が急務であり、燃焼効率だけでなく、公害の少なさも重視すべきである。
  3. クローズド・システムの開発:従来の生産性第一主義から脱却し、生産プロセスから公害を全く発生させない「無公害工程」の確立を目指すべきである。これは工場やコンビナート、さらには都市・地域規模での広域的なシステムとして考える必要がある。
  4. 工場の近代化・分散と環境容量の決定:公害防止を最優先に考えた工場の近代化やクローズド化を進め、公害の恐れのある作業は集約し、遠隔地の適地に分散させるべきである。火力発電所などをコンビナートから離す例が挙げられており、ある一定地域の環境容量を計算に入れてこれ以上の発生は抑制する必要がある。
  5. 生産の効率化から生活の合理化へ: 環境保全という視点への転換が必要である。一般消費者は過大な宣伝に惑わされず、科学的根拠に基づいた正しい判断力を持つべきであり、必要な場合には住民運動として科学的根拠を示すことも重要である。
  6. 社会道徳の高揚:公害を防除する根本には、国民一人ひとりが社会道徳を身につけることがある。公害の加害者にも被害者にもなりうる現代において、自らを律し、無駄な自動車の使用を控えるなど、まず個人が行動を変える必要がある。

エネルギー技術政策の指針

昭和48年(1973年)7月に内閣総理大臣議長を務める科学技術会議が設置した「エネルギー科学技術部会」の部会長に就任する。10月3日の科学技術会議で「エネルギー技術の開発」を講演、石油の99%以上を輸入に依存する日本の脆弱性を強調した。単位面積あたりのエネルギー消費が世界的に高く、クリーンエネルギーへの転換が急務であるとして、資源不足と環境汚染という二重の課題を解決するには、「新しい技術開発」と「合理的利用(省エネ)」こそが最も重要な方策であると強調した。

新エネルギー源の開発ロードマップとして、時期別に以下の技術開発目標を掲げた。短期、中期、長期に分けた時間軸によるエネルギー戦略(ロードマップ)エネルギー開発は膨大な資金と人材、長い年月を要するため、環境・安全への影響を事前に予測する「テクノロジー・アセスメント」の実施、大学・国・民間の垣根を越えた共同計画、エネルギーが過去に国際紛争の原因となったことを反省し、平和的な国際共同プロジェクトとして解決を図るべきと提言した[19]

  1. 短期 ~1985年 軽水炉原子力)、石炭のガス化・液化、地熱発電太陽熱エネルギー温水器
  2. 中期 ~2000年 高速増殖炉、高温ガス炉、太陽光発電、水素エネルギーシステム
  3. 長期 2000年~ 核融合宇宙太陽光発電、海洋エネルギーの利用

この講演直後の10月16日に第四次中東戦争による第1次オイルショックが発生する。エネルギー研究開発の長期的かつ総合的な研究目標の設定、その推進方策の基本を審議、エネルギー資源、消費形態、安全・環境問題など社会的側面から技術を評価して、「エネルギー研究開発の長期目標」として600ページを超える最終報告を行った[20]

人物

  • 「日本文化の集成者」と言われた黒川真頼(東京帝国大学教授)の孫にあたる。
  • 東京府立三中の同級生に石井桂岸田日出刀、喜多武四郎(彫刻家)、浅沼稲次郎がいた。誠に几帳面な性格で、遊ぶことより勉強に熱心な生徒だった[21]
  • 話術に秀てており、講演では硬い話、柔らかい話を適当に混ぜて、時には笑わせ、長い時間少しも退屈にさせなかったという[22]

著書

  • 『火の研究室』まえがき、少年文化社、1948年
  • 『応用燃料化学』、実業教科書、1950.年
  • 『熱精算』、丸善、1953年
  • 『燃焼工学』、技報堂、1948年
  • 『燃料発熱量測定法』、実業教科書、1949年(佐々木正治共著)
  • 『應用燃料化学』実業教科書、1950年
  • 『石炭・石炭化学』、日刊工業新聞社,1963年

家族・親族

栄典

外部リンク

脚注

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