シャン州軍
ミャンマーにかつて存在した少数民族武装勢力
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シャン州軍(シャンしゅうぐん、シャン語: တပ်ႉသိုၵ်းၸိုင်ႈတႆး、ビルマ語: ရှမ်းပြည်တပ်မတော်、英語: Shan State Army、以下SSA)は、ミャンマーにかつて存在した少数民族武装勢力である。1964年、ふたつの武装勢力の統合により成立し、同国のシャン州において、国軍と戦闘した。
SSAは現地のシャン人を召集・訓練し、組織に入隊させた。当初の目的はシャン州の自治を獲得することであったが、ビルマ共産党(CPB)・泰緬孤軍(中国国民党軍)・州内のアヘン密輸業者などとも戦闘した。SSAは1976年に解体したのち、シャン州軍 (北)およびシャン州軍 (南)の基礎となった。
前史
シャン族の伝統的首長であるツァオパーの権威は、イギリス植民地時代にも維持されていており、近代的教育を受けたツァオパーの子弟たちはシャン民族主義に覚醒していた[1][2]。日本占領下で、シャン州ケントン(現チャイントン)とモンパンがタイに譲渡されたことも、彼らの民族主義を刺激した[3]。
1945年にイギリス支配が復活し、ミャンマーの独立交渉が推進されると、ツァオパーたちはこれに抵抗したが、最終的にアウンサンにほだされ、1947年2月、カチン族、チン族とともにパンロン協定に署名した。しかし、同年7月アウンサンが暗殺され、協定の行方は不透明なものになった[4]。
1948年1月4日、ミャンマーはビルマ連邦として独立し、初代首相にウー・ヌ、初代大統領にはシャン州ニャウンシュエのツァオパーであるサオ・シュエタイッが就任した[5]。同年9月に施行された憲法では、シャン州の存在が認められるとともに、「10年後の連邦離脱権」が認められた[6][7]。
独立直後、同連邦はビルマ共産党(CPB)やカレン民族同盟(KNU)、その他の少数民族武装勢力の反乱に直面したが、シャン族はカチン族、チン族とともに政府側に付いた[4]。しかし、1950年1月頃から、国共内戦に敗れた中国国民党(KMT、泰緬孤軍)の一部がシャン州北部に侵入した[2]:102,122。これに対処するため、1952年にミャンマー軍(国軍)がシャン州に派遣しされた。多くのシャン族の人々にとって、これはビルマ族との初めての接触だったが、[8]:276国軍と乱暴狼藉ぶりに、彼らの対ビルマ感情は著しく悪化した[8]:277。
1958年になり、約束された「10年後の連邦離脱権」が行使されないのを見るや、シャン民族主義者の中には武装闘争に入る者が現れ、同年5月21には、初のシャン系武装組織であるヌムスックハーンが結成された[8]:278-281。
一方、ツァオパーたちは、あくまでも法的および憲法上の枠組み内での問題解決を図り[9]、1961年6月、各州代表およびオブザーバーを招聘してタウンジー会議が開催され、(1)諸州団結評議会の設立、(2)憲法改正、(3)国民会議の開催、(4)モン州[注釈 1]、ラカイン州、チン州の設置、(5)中国国民党の排除を求める声明を発表した[10]。
引き続き1962年2月には、ヤンゴンで辺境地域の将来的地位について考える連邦セミナーを開催されたが[9]、これを連邦分裂の危機と見た国軍総司令官ネ・ウィンはクーデターを起こし、ウー・ヌ以下セミナー参加者、閣僚、有力政治家30人以上を拘束した。サオ・シュエタイッも拘束され、その際、サオ・シュエタイッの10代の息子であるソー・ミィミィ(Saw Myee Myee)が、国軍兵士に銃殺された。サオ・シュエッタイも1962年11月21日に獄死した[11]。
結成

1962年にビルマ革命評議会が全権を掌握した時点で、シャン州にはヌムスックハーン(のちにシャン民族独立軍〈SNIA)に改名)、ヌムスックハーンから離脱したシャン州独立軍(SSIA)、シャン民族統一戦線(SNUF)、タイ民族軍(TNA)などの武装勢力が乱立していた[13]。
1963年には、革命評議会に要請に応じて、SNUF‐SSIA合同チームが軍政との和平交渉に臨んだが、結局、交渉は決裂した。ミャンマー軍(国軍)およびシャン州に根城を張った中国国民党軍(KMT、泰緬孤軍)に対抗するためには、シャン系武装勢力の統一は急務だった[14]。
音頭を取ったのは、クーデターで夫と息子を殺され、タイのチェンマイに亡命してたサオ・ナン・ハーン・カムだった、彼女は亡命先でシャン州戦争評議会(Shan State War Council: SSWC)を結成し、当時、SSIAに所属していた息子のサオ・ツァイ(Chao Tzang)がこれを支援した[15]。
しかし、ヌムスックハーンとTNAはSSWCを「後発組」と見なしてこの話に乗らず、結局、SNUF、SSIA、オリーブ・ヤン(楊金秀)の兄であるジミー・ヤン率いるコーカン革命軍(Kokang Revolutionary Force)が合併して、1964年初頭にシャン州軍(SSA)が結成された。議長には、パンロン協定に署名したクンキ・キャ・ブー(Khun Kya Bu)の息子クン・キャ・ヌー(Khun Kya Nu)が就任し、サオ・ツァイが書記長に就任した[16]。
シャン州進歩党(SSPP)の設立
知識人層によって幹部が構成されていたSSAは、効率的な組織改革を断行し、軍部隊、行政組織、政治組織の緊密なネットワークを築いた[17]。
16歳から40歳の男女を青年会、支援団体、PTA、村政府、宗教委員会、村民兵などに組織し、地域の生活改善と抵抗運動への動員の二つの目的を並行して実現した[17]。
内部規律の向上にも注力した。特に、冤罪が多かったとされる脱走兵やスパイ容疑者の即決処刑を抑制するため「恩赦制度」を導入し、組織の正当性と統制を強化した[17]。
1969年には指導者養成校を設立。将校や下士官に対し、軍事技術のみならず、政治、歴史、国際情勢の教育を施した。また「安全保障・行政評議会」を設置して行政将校の業務を監督するとともに、リーダーシップ講座を通じて行政能力の向上を図った[17]。
こうした規律ある組織運営が対外的にも評価された結果、1971年8月、より高度な政治指導を目指す政治部門シャン州進歩党(SSPP)の結成へと結実した[17]。1970年代を通じて、SSA/SSPPは9,000名を超える訓練を受けた大半がシャン族からなる志願兵を召集することができたと伝えられる(ただし、武装できたはその半分)[18]。
シャン系武装勢力統一の挫折
しかし、シャン系武装勢力の統一というSSA結成当初の目的は達成できなかった。
サオ・ツァイはその要因として、慢性的な資金不足を挙げている。SSAは泰緬国境を掌握していなかったため、国境貿易による資金や物資を確保することができなかった。また、SSAは他のシャン系族武装勢力と異なり、麻薬ビジネスにも関与していなかった。SSAの領土内で生産されていたアヘンはシャン州全体の0.2%にも満たず、そのわずかなアヘンの栽培者・購入者に10%の課税し、さらに領土を通過するアヘン隊商に課税するのみであった。そのため、SSAは、他のシャン系武装勢力に比べて資源面で劣っていた[19][20]。当然、兵器も慢性的に不足しており、当時、SSAの兵士は戦闘後に使用した弾丸の数を上官に報告しなければらなかったと伝えられる[21]。
また、内部対立も絶えなかった。
ジミー・ヤンは早々にSNAを離脱し、当時チェンマイ県タムゴップを根拠地としていた李文煥率いる国民党第三軍と同盟を組んで麻薬密売を再開させた[22]。
また、革命評議会は1963年から1973年まで、カクウェイェー(KKY)という制度を導入。これは、反乱軍と戦うことの見返りに、武装勢力にシャン州内の政府が管理するすべての道路と町をアヘン輸送のために使用する権利が与える制度で、麻薬取引でKKYが経済的に自立しつつ、反乱軍と戦うことを促進するものだった[23][24]。SSA内でも、モン・ルン(Mong Leun)とモンスー地区を管轄していた第2旅団と第6旅団が、革命評議会に要請に応じてKKYに鞍替えした[25]。
さらに、1966年にはSSA第1旅団からタアン族(パラウン族)のグループが離脱して、パラウン州解放機構(Palaung State Liberation Organisation:PSLO)を結成した[26]。1969年には、SSAの参謀長だったモーヘンが、サオ・ナン・ハーン・カムの従属的地位に立たされたことに不満を募らせ、国民党第三軍の支援を得て、1969年、シャン連合革命軍(SURA)を結成した[16]。
しかし、SSAにとっての最大の脅威はCPBだった。
ビルマ共産党(CPB)の脅威

1968年1月、CPBの3つの部隊がシャン州に雪崩れこんできて、8月までにシャン州北東部に広大な「解放区」を築いた[27]。CPBは中国共産党の支援を受けて潤沢な資金と兵器を有しており、それらを梃子にしてシャン系武装勢力を懐柔を推進した[28]。
サオ・ツァイらSSA/SSPP指導部は「毛沢東のマスタープランは中国本土周辺の他の国家や民族を奴隷化する」と主張する反共思想だったので[18]、CPBからの兵器の無償供与の提案を拒否したが、常態的な兵器不足に不満を募らせていた現場指揮官たちには不評だった。当時、東南アジアではベトナム民主共和国(北ベトナム)、ラオスのパテート・ラーオ、カンボジアのクメール・ルージュ、タイのタイ共産党(CPT)など共産主義が猛威を振るっていた。CPBも国軍との戦闘で連戦連勝を重ねており、国際感覚に乏しい現場指揮官にとって、共産主義が魅力的に映ったとしても無理はなかった[28]。
こうして、CPBへの対応をめぐってSSA/SSPPは、副議長のサイ・ミンアウン(Sai Myint Aung)を指導者とし、作戦参謀長にサイ・ザムムアン(Sai Zam Muang)を据えて、CPBとの同盟を模索する北部軍区と、それを拒否するサオ・ツァイ、クン・キャ・ヌーの南部軍区の2つの派閥の分裂状態となった。兵士の大半が北部出身だったので、北部軍区が優勢だった[29]。
1973年12月から1974年にかけて、SSA北部軍区は、CPBの仲介で、カレン族の左派前衛政党であるカレン民族統一党(KNUP) のドーナ遠征隊(Dawna team)とともに訪中し、地雷戦用の弾薬3万発と大量の爆発物を持ち帰った。その1年後の1975年、SSA北部軍区はクン・キャ・ヌーの反対を押し切って、CPBと正式に相互防衛協定を締結した。これにより、SSAの軍備は劇的に改善したとされる[30]。
同盟の模索
こうした事態を受けて、クン・キャ・ヌーは、次のような2つの戦略を策定した[31]。
- 泰緬国境に隣接する南部に拠点を設置し、SSA/SSPPをCPBの影響から遠ざける。
- カレン族、カチン族、パオ族、カレンニー族、モン族など反共少数民族武装勢力と統一戦線を構築し、革命評議会とCPBに対抗しうる「第三勢力」へと発展させる。
まず、サオ・ツァイらは、泰緬国境で武装闘争を展開していたウー・ヌ元首相の議会制民主主義党(PDP)と接触した。1972年初頭、サオ・ツァイは800人の兵士を率いて、ウー・ヌとの交渉を試みた。しかし、PDPは既に資金が尽きかけており、交渉は不調に終わった。しかし、この際、泰緬国境の武装勢力との関係を築いたことで、1973年5月、1970年代半ばから1990年代半ばまで少数民族武装勢力同盟である民族民主戦線(NDF)の前身組織、革命民族同盟(Revolutionary Nationalities Alliance:RNA)に参加することになった[31]。
同年、今度はKKY解散を拒否した「麻薬王」ロー・シンハンとの同盟が模索され、両者の間で次のような協定が締結された[32]。
- アメリカ麻薬取締局(DEA)に対してシャン州のケシ栽培地を訪問して、アヘン隊商に関する情報を自ら無線通信機で送信できるようにする。
- SSAとロー・シンハンはシャン州のアヘンをなるべく多く収集し、アメリカ当局に引き渡す。
- この同盟に賛同しない他のアヘン隊商を攻撃する。
- 見返りにアメリカはシャン州の問題に関する恒久的解決方法の模索に尽力する。
- 問題解決が図られ、新たに選出されたシャン州政府が成立したあかつきには、件の政府は、国際麻薬取締り機関が残りケシ栽培地を破壊することを許可する。
これは、麻薬密売人がそのビジネスを放棄するだけでなく、再発防止のために国際麻薬取締機関と協力するという画期的な協定だった。ロー・シンハンとしては、アメリカの後ろ盾を得て、シャン州での生き残りを模索する意図があったものと思われる[32]。
同年7月17日、1960年代から1970年代にかけてミャンマーのアヘンに関するドキュメンタリーを多数制作した、イギリス人映画監督・エイドリアン・コーウェルが、この協定をタイのアメリカ大使館に届けに行った。しかし、その日のうちにタイ北西部メーホンソーン県の辺鄙な場所で待機していたロー・シンハンの元に、タイ王国軍のヘリコプターが舞い降り、ロー・シンハンとその護衛のSSA将校を乗せていった。ロー・シンハンはてっきりアメリカ大使館との交渉の場に連れて行かれるものと思っていたが、ヘリコプターが着陸したのはチェンマイ近郊のタイ王国軍の軍事基地で、ロー・シンハンはその場で拘束された。仮にこの協定が実行されれば、タイ国内の流通・販売に際してヘロイン取引業者から賄賂を徴収しているタイの警察官・軍人の収入が大幅に減収することが見込まれるところ、何者かがタイ王国軍・警察に密告したとされている[33]。