アバタイ

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ᠠᠪᠠᡨᠠᡳ abatai
出身氏族
アイシン・ギョロ氏
名字称諡
漢字音写
諡号
出生死歿
出生年 萬曆17年1589[4]
死歿年 順治3年1646[5]
爵位官職
爵位 多羅饒餘郡王[6]
追封 和碩饒餘親王[7]
親族姻戚
ヌルハチ
伊爾根覺羅氏札親巴晏女 (側妃)[8]
二兄 ダイシャン
八弟 ホン・タイジ
十四弟 ドルゴン
ヨロ

アバタイは、明朝末期から清朝初期のアイシン・ギョロ氏女直。清太祖ヌルハチ第七子。和碩饒餘敏親王。

清太宗ホン・タイジ (ヌルハチ第八子)明朝征討で活躍し、奉命大將軍に任命された。

太祖時代

*本章は基本的に『清史稿』に拠る。それ以外の典拠のみ脚注を附す。

*特記しない限り、日づけは旧暦、年齢は数え歳

萬曆17年15896月16日の午刻12:00前後、後の太祖ヌルハチの第七子として出生[4]。母はイルゲン・ギョロ氏札親巴晏の女で、ヌルハチ側妃[8]。同父母姉の皇二女・嫩哲格格 (和碩沾河公主) は、ゴロロ氏チャンシュの子ダルハンに嫁いだ[9]

萬曆39年16117月、フョンドンアンバ・フィヤング (ともに後の開国五大臣の一) とともに窩集ウェジ所属の烏爾古宸ウルグチェン・木倫ムレンの二路を討伐し、1,000餘名を捕虜とした。[3]

後金天命8年1623ジャルート部ベイレ昂安に滿洲マンジュの使者が捕縛された末に、イェヘに送られて殺害され、さらに蒙古への使者も度々その掠奪に遭うなどした為、太祖ヌルハチは同年4月14日、アバタイ、德格類デゲレイ、齋桑古ジャイサング、岳託ヨトに兵3,000を与え、昂安を征討させた。アバタイらは連夜の行軍の末、22日の曙に遼河を渡って昂安を急襲した。昂安が妻子とともに牛車に乗って逃亡を図った為、前鋒總兵・岱穆布が追撃したが、重傷を負って絶命した。アバタイらはその後を追って昂安父子を殺し、その妻子ら多数を捕虜とした。[10]

太宗時代

太宗ホン・タイジが即位すると、アバタイは王ベイレに封ぜられたが、戦功をあげたにも拘らず、ホショイ・ベイレ[注 1]でなく一般ベイレであることに就いて不満を募らせた。

天聰2年1628、ヨト・ショト兄弟と錦州を征討し、明軍が寧遠に後退すると墩台21箇所を陥落させ、錦州、杏山、高橋の3城を破壊した。

天聰3年1629、明征討に従軍し、ハラチン部の波羅河屯から七日行軍した後、アジゲとともに左翼4旗と蒙古軍を率いて龍井関を攻め、夜中までかかって陥落させた。明の将軍・易愛が漢児荘から加勢するとこれを斬伐し、城を攻略した。その頃、ホン・タイジは洪山口を攻略して遵化にせまると、山海関の明の援軍を破り、これを攻略した。アバタイはヨトとともに順義に駐屯していた明の総兵・滿桂と侯爵・世禄を撃攘し、馬1,000、駱駝100を鹵獲し、順義を陥落させた。アバタイはさらにマングルタイとともに、兵20,000を廣渠門外に駐屯させていた袁崇煥祖大壽を襲撃した。事前に明が伏兵をしのばせていると聞いた諸ベイレは、伏兵が潜むとされる右方向に進むこととし、中路にそれた者は敵前回避と同罪とすると取り決めた。しかし、ホオゲが右路を進んで伏兵を破ったころ、アバタイは中路を進みながら敵を破り、城壕でホオゲと合流した。諸ベイレは、作戦違犯だとしてアバタイの爵位を剥奪すべしと主張したが、ホン・タイジは事情を斟酌し、アバタイを宥恕した。アバタイは通州に侵攻すると船を焼き、張家湾を侵略した。続いてホン・タイジに従って薊州に至り、山海関からの明の援兵5,000を殲滅した。

天聰4年1630、ホン・タイジに従って永平を包囲し、ジルガランとともに劉興祚を斬伐し、永平の守護を命じられた。

天聰5年16317月、六部設置にともない、工部主管となった。[11]

翌8月、大凌河城に拠る祖大壽らは清の大軍に包囲され[12]兵糧攻めにより城内が混乱したことから、同年12月に降服した[13][14]。それを承けてホン・タイジは、アバタイ、德格類デゲレイドルゴン、岳託ヨトに、漢人の服装をさせた兵4,000人を率い、祖大壽およびその兵350人とともに明の潰走兵を装って錦州を襲撃させた。二鼓22時前後頃、大凌河城内に砲声が轟くと、祖大壽およびアバタイらは進軍を開始した。しかし濃霧の影響で隊列が崩れたため、各隊進軍を止め、翌朝を待って撤収した。その間、砲声を聞いた錦州の明兵が大凌河城に援軍を送ったが、清軍により撃攘された[15]

天聰7年16338月、山海関に侵略し、数千人を捕虜とした。ホン・タイジは帰還を労いつつ、明の懐まで攻め入らなかったことに不満を表した。

天聰8年1634、宣府征討に従い、応州で霊丘と王家荘を攻略した。

崇德元年16364月、多羅饒餘貝勒ベイレに封ぜられた。[16]アジゲらと明をうち、雕鶚堡、長安嶺堡を制圧して延慶にせまり、兵を分けて定興、安肅、容城、安州、雄、東安、文安、寶坻、順義、昌平の10城を制圧した。56戦すべてに勝ち、十数万を捕虜にした。ホン・タイジの北韓征討に際しては、噶海城の守護を任じた。

崇德3年1638、ホン・タイジのカルカ部征討に際し、アバタイはダイシャンと留守を任された。

奉命大將軍ドルゴン

崇德3年16388月、和碩睿親王ドルゴンが奉命大將軍に任命されたことに伴い、アバタイはホオゲとともにその補佐を命ぜられ[17]、翌9月、ホン・タイジらの見送りを受けて出征した[18]。一行は辺牆[注 2]を破壊して明領内に侵入すると、青山關 (現唐山市遷西県) を経て[19]西へ通州 (現北京市通州区) に至り、そこで左右両翼が合流した。続いて明都燕京から南接する涿州 (現保定市涿州市) に至ると、西へ山西境界に至るまでの六府を蹂躙して引き返し、そのまま東へ臨清 (現聊城市臨清市) を経由して済南府 (現済南市) を攻略した後、北上して天津に侵攻した[20]。翌4年16393月、再び青山關に至った一行はそこで明兵の迎撃を撃退し[21]、翌4月に凱旋した。この戦役で揚武大將軍として従軍していた多羅貝勒・岳託ヨト (ダイシャン長子) が陣没し、訃報をきいたホン・タイジと父ダイシャンはその場に崩れ落ちたという[22]

錦州包囲

崇德4年16399月、アジゲ、ドゥドゥらとともに錦州・寧遠に侵略。[23]崇德5年164012月、ホン・タイジの命を受け、ドルゴン、ホオゲ、杜度ドゥドゥとともに将校兵士の半分を率い、ジルガランらに代って錦州を包囲した[24]。翌6年1641、錦州侵攻に際し、錦州から30里という遠距離に軍営を張り、更には兵士を勝手に数名ずつ帰宅させ、錦州包囲を無効化させたとして、元帥ドルゴンがホン・タイジの怒りを買った。従軍したアバタイはドルゴンを諌めなかった廉で同じく叱責を受け、爵位剥奪が検討されたが、ホン・タイジの宥恕を受け、罰銀2,000両が課された。[25]

奉命大將軍アバタイ

崇德7年164210月、奉命大將軍に任命され、[26]明征討にむけ出発した[27]。翌8年16435月、凱旋。ジルガラン、ドルゴンらが出迎えた。この時、福晋の訃報が知らされた。[28]

世祖時代

順治元年16444月、多羅饒餘貝勒から多羅饒餘郡王に晋封。[6]

順治3年16463月25日、死去 (享年58歲)[5]

康熙元年16623月、和碩饒餘親王に追封[7]

康熙10年16716月、追諡「敏」[29]

逸話

脚註

文献

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