アンバ・フィヤング
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 氏族 | ギオルチャ氏 |
| 名称表記 | |
|---|---|
| 仮名 | アンバ・フィヤング |
| 転写 | amba fiyanggū |
| 漢文 |
|
| 別称 |
|
| 出生死歿 | |
| 出生年 | 嘉靖38(1559) |
| 死歿年 | 天命7(1622) |
| 一族姻戚 | |
| 孫 | ドゥルデ |
| 孫 | スンタ |
| 曾孫 | マシタイ |
アンバ・フィヤング (またはアン・フィヤング) は、ギョルチャ氏女真族。
若い頃にヌルハチに従って以来、多数の戦功をあげ、後にアイシン・グルン (後金) の五大臣の一人に選ばれた(ほかはニョフル氏エイドゥ、グァルギヤ氏フュンドン、ドンゴ氏ホホリ、トゥンギャ氏フルハン)。
満文史料では基本的に「ションコロ・バトゥル (šongkoro baturu)」という称号で呼ばれる為、その本名については的然とせず、主には「アン・フィヤング」説と「アンバ・フィヤング」説の二つにわかれる。漢文の『滿洲實錄』巻1には「碩翁科羅初名諳班偏格」とあり、本名を「諳班・偏格」(普通話拼音:ànbān piāngé) とする一方、『清史稿』などは「安・費揚古」(拼音:ān fèiyánggǔ) としている。
立命館大学の増井寛也氏 (非常勤講師) に拠れば、2000年代に入って発見された「中国第一歴史档案館蔵『満文国史院档 巻号001冊号2』に満文で「amba fiyanggů」が本名であると書かれているらしく、増井は「アンバ・フィヤング」説をとっている。[1]
漢字で満洲語の音声を完全に再現することは不可能であり、「安・費揚古」も固より近い音をとったに過ぎず、漢字で読めば「アン」だが、元は「amba」であった可能性も否定できない。従って本項では増井に従って「アンバ・フィヤング」とする。
忠臣
父・ワンブル (完布禄) はフジ・ガシャン[2]の人で、[3]ヌルハチにつかえた。ボオシの居城・ジャンギ[4]や、ボオランガの居城・ニマラン[5][6]の人からヌルハチを裏切るよう教唆されたが従わず、[7]孫を攫われ強要されたが、それでも志を抂げなかった。[8]
アンバ・フィヤングは若い頃にヌルハチに従って以来、建国からヌルハチの死去以降も、清朝を樹立したホンタイジ、北京入城 (明清交替) を果たしたフリン (順治帝) と、代々アイシン・ギョロ氏に仕えた。下の「年表」からも分かる通り、その功績は非常に多く、当時あまたいた豪傑の中にあって、アンバ・フィヤングとロサ (労薩) は突出した存在であったとされる。[8]
年表
万暦10 (1582) 年旧暦8月、フジ・ガシャンで戦捷。
万暦11 (1583) 年、ヌルハチ挙兵。ニカン・ワイランの圖倫トゥルン城を攻略。
万暦12 (1584) 年旧暦正月、ジョーギヤ・ホトンで戦捷。
万暦12 (1584) 年旧暦6月、マルドゥン・ヘチェン (馬兒墩・城) を攻略。
万暦15 (1587) 年旧暦6月、ジェチェン・アイマン (哲陳・部) を討伐。同8月、洞城不詳を攻略。
万暦16 (1588) 年旧暦9月、ワンギヤ・ホトン (王甲/完顔・城) を攻略。
万暦21 (1593) 年旧暦6月、フルギヤチ・ガシャンで戦捷。ションコロ・バトゥル (碩翁科羅・巴図魯) の称号を頂戴。
万暦21 (1593) 年旧暦9月、グレ・イ・アリンで戦捷。
万暦21 (1593) 年旧暦閏11月、ネイェン (訥殷) に進攻、路主・ソウウェン (搜穏)、セクシ (塞克什) を斬伐。
万暦27 (1599) 年、ハダ討滅。
万暦39 (1611) 年旧暦7月、ウェジ・アイマン (渥集・部) のウルグチェン (烏爾古宸)、ムレン (木倫) 二路を征討。
万暦41 (1613) 年旧暦2月、ウラ・ホトンで戦捷、ウラ・グルン滅亡。
天命元 (1616) 年旧暦7月、サハリヤン・アイマン (薩哈連・部) 討伐。アイシン・グルン (後金) 樹立に伴い五大臣に選出。
天命3 (1618) 年旧暦4月、ヌルハチが撫順攻略。張承廕の援軍の左営を撃破。
天命4 (1619) 年、サルフ・ホトンで戦捷。イェヘ討滅。
天命6 (1621) 年、瀋陽、遼陽を攻略。
順治7 (1650) 年旧暦7月、病逝。享年64歳。
順治16 (1659) 年、敏壮と追謚、記念碑建造。
