ヨロ (アイシンギョロ氏)

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姓氏部族
アイシンギョロ氏
名字称号
ᠶᠣᠯᠣyolo[1] (岳樂yuèlè)
封号
諡号
異称 古香主人[1]
出生死歿
出生年天啓5年(1625)
死歿年康熙28年(1689)
爵位官職
不詳:奉恩輔国公
順治3年(1646)?奉恩鎮国公
順治6年(1649):ドロイ・ベイレ
順治8年(1651):ドロイ郡王
順治10年(1653):宣威大将軍
順治12年(1655):宗人府左宗正
順治14年(1657):ドロイ親王
康熙9年(1670):玉牒監修総裁官
康熙13年(1674):定遠平寇大将軍
親族姻戚
祖父清太祖ヌルハチ
饒餘郡王アバタイ
叔父 清太宗ホンタイジ
岳父 ヘシェリ氏ソニン
義兄 ヘシェリ氏ソンゴトゥ
孫娘婿 廉親王胤禩

ヨロ(岳楽)は、の太祖ヌルハチの孫、アバタイの第四子。アイシンギョロ氏。史料上ではしばしば封号「安親王」で記載される。

順治年間に、四川で大量殺戮をはたらいていた張献忠ホーゲとともに征討した。康熙年間に三藩の乱が勃発すると、大将軍に任命されて江西と湖南の失地を恢復し、数々の武功を立てて康熙帝から郊労の礼を受けた。

宗人府の事務をとりしきり権勢をふるったが、歿後、冤罪により爵位を剥奪されたとして諾尼に弾劾され、断罪されて郡王に降格された。この事件は更にその子孫にも影響を及ぼし、爵位を剥奪された恨みから子孫が康熙帝・雍正帝と反目する要因になった。

天啓5年・清天命10年 (1625)[1]

  • 多羅饒餘郡王アバタイの第四子として出生。[2](以下、【 】内は満年齢。)

順治3年 (1646)【11歳】

順治6年 (1649)【14歳】

順治8年 (1651)【16歳】

  • 2月20日:郡王に陞爵し、ドロイ安郡王に改号。[6]
  • 2月1日:ヨロの姉夫・寧塞がドロイ・エフに昇格。[7]

順治9年 (1652)【17歳】

  • 2月5日:工部事務を掌握。[8]
  • 10月20日:議政に参与。[9]

順治10年 (1653)【18歳】

順治12年 (1655)【20歳】

順治14年 (1657)【22歳】

  • 11月8日:ドロイ安親王に陞爵。[13]

順治18年 (1661)【26歳】

  • 正月9日:僅か満6歳の愛新覚羅・玄燁 (康熙帝) が践祚。[14]

康熙元年 (1662)【27歳】

  • 3月1日:ヨロの父・ドロイ饒餘郡王アバタイ (阿巴泰) に親王を追贈。[15]
  • 3月13日:総裁として携わった玉牒監修が完了。[16]

康熙9年 (1670)【35歳】

  • 3月3日:玉牒監修の総裁官に再任。[17]

康熙11年 (1672)【37歳】

  • 正月20日:八子・塞冷額が三等輔国将軍に冊封。[18]

康熙13年 (1674)【39歳】

康熙14年 (1675)【40歳】

康熙15年 (1676)【41歳】

康熙16年 (1677)【42歳】

康熙17年 (1678)【43歳】

  • 9月11日:三藩の乱の首魁の一人・呉三桂の戦死を承け、康熙帝が長沙攻撃を指示。[36]

康熙18年 (1679)【44歳】

康熙19年 (1680)【45歳】

  • 正月21日:ヨロに凱旋命令。康熙帝は「朕將計日以待」(汝の凱旋を指折り待つ) という言葉とともに駱駝、良馬を贈与。[42]
  • 3月8日:康熙帝が在京の諸王、ベイレ、ベイセ、公および満漢大臣を引率れて郊外の蘆溝橋に駐輦。[43]
  • 3月9日:康熙帝が盧溝橋の南20里においてヨロ一行の凱旋を歓迎。[44]
  • 10月22日:ヨロの娘が郡主に、婿・鼐格がホショイ・エフに冊封。[45]

康熙20年 (1681)【46歳】

  • 12月22日:宗人府事務を掌握。[46]

康熙27年 (1688)【53歳】

康熙28年 (1689)【54歳】

  • 2月:薨去。

康熙39年 (1700)【死後11年】

  • 12月14日:ドロイ・ベイレの爵位を剥奪された諾尼が故人となったヨロを告訴。[47]
  • 12月24日:故人ヨロに有罪判決が下され、諡号剥奪の上、郡王に降格。[48]

諾尼雪辱騒動

ヌルハチの次子・ダイシャンの曾孫・諾尼は、ヨロの従姪孫 (従兄弟の孫) にあたり、ヨロが郡王から親王に昇格する一年前の順治13年 (1656) にドロイ・ベイレに冊封された。[49]しかし康熙4年 (1665)[50]、当時宗人府左宗正であったヨロ (30歳) が、ハラチン部タイジ畢喇什[51](順治3年に死去) の妻の言い分を鵜呑みにして公正さを缺いた審判を下した為、[48]諾尼とその母 (都統・佟養性の娘[50]) は冤罪を着せられ、更に諾尼はドロイ・ベイレの爵位を剥奪された。[47]

畢喇什の妻は岳託の次女で、ウラナラ氏アバイの娘を母にもち、県主に冊封されていた (康熙17年死去)。岳託はダイシャンの子で、諾尼の祖父にあたる。諾尼の父・ロロホンは岳託とハダ末代国主ウルグダイの娘との間の子であり、即ち畢喇什の妻と諾尼の父・ロロホンとは、共通の父・岳託をもつ異母兄妹にあたる。諾尼の嫡妻はこの県主たる叔母とハラチン部タイジ畢喇什の間にできた娘であり、従って諾尼の従妹にあたる。[52]

冤罪から35年後、即ちヨロ薨去から11年経った康熙39年 (1700)、諾尼は宗人府を相手に当時の審判に対する不服を申し立てた。康熙4年はスクサハソニンオボイエビルンの四大臣が幼帝の摂政として国家を運営していた時代である。親政を始めて既に30年以上経った康熙帝は事情を一通りききおわると、諾尼に無罪を言い渡してドロイ・ベイレに復位させた一方、既に他界しているとはいえ、無実の人に冤罪を着せて名誉を害ったとしてヨロを郡王に降格させた。[53]

康熙帝は更にヨロの第17子・経希の僖郡王の爵位と、第19子・務爾占のグサイ・ベイセの爵位をそれぞれ剥奪し、共に鎮国公に降格させた。第15子・瑪爾琿が承襲した安郡王の爵位と、第16子・塞布礼の輔国将軍の爵位および副都統の職位、八子・塞楞額の子・色痕図の奉国将軍の爵位は剥奪を免れた。[54]

逸話

  • 『湯若望傳』の記載に拠れば、世祖フリン (順治帝) が天然痘に感染した際、フリンは帝位を安親王ヨロに譲渡しようとしてお抱え独人宣教師湯若望 (アダム・シャール)の見解を求めたが、湯若望は傍系への譲位は政治の不安定を招く恐れがあるとして、考え直すよう諫言したという。[55]
  • 順治初頭、明朝末代崇禎帝岳父・周奎の邸宅に「明太子[56]を自称する者が現れた為、明朝の元使用人らを呼んで真偽を判じさせた (結果として自称皇太子はドルゴンに贋者と断定され斬首されたが、現代では本物説が有力)。その後、三藩の乱が勃発すると、今度は京師に「朱慈璊」が現れ「三太子」を自称した。この人物は「広徳」と自ら改元し、徒党を募って叛乱を起こしたが、蜂起に失敗し逃亡した。捕らえられた自称「三太子」は本名を楊起隆といい、やはり贋者であった。そしてヨロが楓木嶺に駐箚していた折、新化 (現湖南省婁底市新化県) の僧寺で「朱慈燦」を名告る者が捕縛された。素性をきくと崇禎帝の長子で、戦乱を掻い潜って南明の首都が置かれていた南京 (現江蘇省南京市) まで逃げおおせたが、南明の"皇帝"・弘光帝に入獄させられた後、釈放されて庶民となり、和尚に従って出家し、永州 (現湖南省永州市) と宝慶 (現湖南省邵陽市) の間を行き来していたという。ヨロは「朱慈燦」を京師に連行したが、康熙帝が「朱慈璊」(楊起隆)の一味に会わせたところ、互いに知らぬという為、結局「朱慈燦」は斬首された。[2]

妻妾子女

本章は基本的に『愛新覺羅宗譜』に拠り、補足情報にのみ脚註を附した。尚、以下の日附は( )の西暦を除きすべて旧暦。また年齢はすべて満年齢。

ヨロには都合20人の子が生まれたが、成人したのは六人だけで、且つその内の四人は赫舍里ヘシェリソンゴトゥの妹 (ソニンの娘) の胎、残り二人は張賽諸不詳の娘の胎である。

成人した六人のうち五人が封爵された。数々の武功を挙げたヨロの血脈にも拘らず傑出した軍事家は輩出されず、詩歌、書画、弾琴など文化芸術を愛する高雅の士を多く輩出した。第15子の瑪爾琿は「古香主人」を自称し、『敦和堂集』を著した。瑪爾琿の描いた鍾馗孫星衍のコレクションの中にみられる。同母弟で第19子の務爾占は号を雪斎といい、やはり詩歌、書画に優れていた。ヨロの娘・六郡主は遥か彼方モンゴルまで嫁いだが、30歳にして鬱病により草原の玉と散った。一説にはやはり詩画ともに秀で、その手になる梅の画は、生命力あふれる花と枯れかかった花とが対比的に描かれ、あたかも自身の運命を嘆くかのような悲哀さが同時代人の同情を誘ったという。女児が兄弟とともに詩を吟じ画を作るという、まさに文学芸術の息吹が漂う貴族家庭であったことがうかがえる。[57]

正室

  • 博爾済吉特ボルジギン:扎薩克ベイレ董戴淸の娘。子三、いづれも夭折。
    • 子・他塔海:長子。崇徳7年 (1642) 5月13日生。順治8年 (1651) 11月20日、九歲で夭折。
    • 子・徳素:次子。崇徳8年 (1643) 5月1日生。順治8年 (1651) 11月21日、八歲で夭折。
    • 娘:長女。順治元年11月20日生。順治6年3月、五歳で夭折。
    • 子・阿達海:三子。順治3年 (1646) 4月13日生。同年 (1647) 12月20日、一歳に満たず夭折。

継室

  • 納喇ナラ:二番目の正室。軽車都尉・達爾呼他の娘。無子。
  • 赫舍里ヘシェリ氏:三番目の正室。[58]輔政大臣公・ソニンの娘。子六、内二人が夭折。
    • 子・瑪尼:第14子。康熙元年 (1662) 9月11日生。康熙3 (1664) 年10月4日、二歳で夭折。
    • 子・瑪爾琿:第15子。瑪爾渾とも。[35]康熙2年 (1663) 11月29日生。康熙16年、世子。康熙29年2月、ドロイ安郡王。康熙40年正月、宗人府事務。康熙48年11月11日薨去、享年47歲、諡慤。宗室王公詩を『宸萼集』として編纂。[57]子四。
      • 孫・華玘:康熙24年11月20日生。母は継福晋 (継室)・佟佳氏:内大臣・佟国綱の娘 (佟国維の姪) 。康熙49年2月、ドロイ安郡王。康熙58年9月8日薨去、享年35歲、諡節。子二。安郡王の爵位はその後、継承権が宙に浮いていたが、雍正12年に世襲停止。[57][59]
        • 曾孫:不詳。
          • 玄孫・奇昆:乾隆43年、アバタイ、ヨロの功績を評して輔国公に冊封。世襲復活。[59]
    • 娘:第11女。康熙3年2月12日生。康熙19年10月[45]、郡主に冊封。婿は散騎侍郎の納喇氏鼐格。
    • 子・経希:第17子。景煕、岳希とも。康熙7年3月21日生。康熙21年正月、ドロイ僖郡王。康熙39年8月、父ヨロ断罪の煽りを承けて鎮国公に降格され、爵位世襲権も剥奪。康熙54年10月、都統。康熙55年11月、宗人府右宗正。康熙56年8月5日歿、享年49歲。子六。[59]
    • 子・蘊瑞:第18子。袁端、岳端とも。康熙9年12月21日生。康熙23年正月、ドロイ勤郡王。康熙29年2月、グサイ・ベイセに降格。康熙37年4月、グサイ・ベイセを剥奪。康熙43年3月4日歿、享年35歲。字は兼山または正文、号は紅蘭室主人、玉池生、東風居士、長白十八郎 (第十八子に因む) など。[57]詩詞に長けていた。[57]子一。
    • 子・務爾占:第19子。呉爾占、伍爾占とも。康熙11年9月23日生。雍正元年3月、断罪され子孫諸共宗籍剥奪、盛京 (現遼寧省瀋陽市) に配流。雍正2年正月17日歿、享年53歲。乾隆元年3月、アイシンギョロの血脈であることを記録に貽す為、紅帯子を与え、玉牒の末尾に追加。子二。
    • 子・賛扎:第20子。康熙12年2月1日生。康熙14年4月4日、三歳で夭折。

側室 (側福晋)

  • 烏亮海済爾莫特氏[60]:萬且他布囊の娘。子一、夭折。
    • 子・布鼐:第12子。順治18年 (1661) 9月12日生。康熙元年 (1662) 4月24日、一歳に満たず夭折。
  • 伊爾根覚羅イルゲンギョロ氏:子宋郭図の娘。無子。
  • 博爾済吉特ボルジギン氏:頭等侍衛・錫喇の娘。無子。

側室 (庶福晋)

  • 劉氏:劉芳声の娘。子二、いづれも夭折。
    • 子・青盛:六子。順治15年2月24日生。順治17年 (1660) 11月26日、二歲で夭折。
    • 子・僧保:第13子。順治18年 (1661) 10月26日生。康熙7年12月24日、七歳で夭折。
  • 卞氏:卞化鳳の娘。子一、夭折。
    • 子・阿裕錫:四子。順治14年11月17日生。順治16年 (1659) 3月5日、一歲で夭折。
  • 周氏:周雅住の娘。子二、いづれも夭折。
    • 子・阿弼達:五子。順治14年11月24日生。順治15年正月11日、一歲に満たず夭折。
    • 子・雅図:九子。順治16年 (1659) 5月16日生。順治18年 (1661) 正月7日、一歲で夭折。
  • 博爾済吉特ボルジギン氏:達穆巴礼の娘。子二、いづれも夭折。
    • 子・図蘭塞:七子。順治15年3月3日生。順治17年 (1660) 10月26日、二歲で夭折。
    • 子・五十八:十子。順治17年 (1660) 7月6日生。順治18年 (1661) 8月29日、一歳で夭折。
  • 張氏:張賽諸の娘。子三、内一人が夭折。
    • 子・塞楞額:八子。塞冷額とも。[18]順治15年12月2日生。康熙11年正月、三等輔国将軍。康熙33年4月、護軍統領。康熙38年7月24日歿、享年42歲。子七。
      • 孫・色痕図:母・賈佳氏は巡撫・漢復の娘。
    • 子・艾滋:第11子。順治17年 (1660) 8月12日生。順治18年 (1661) 4月12日、一歳に満たず夭折。
    • 子・塞布礼:第16子。康熙3年 (1664) 5月25日生。康熙17年、三等輔国将軍。康熙40年10月、護軍統領。康熙44年9月、護軍統領を免黜。康熙47年4月、輔国将軍を剥奪。康熙60年3月7日歿、享年56歲。子八。
  • 納喇ナラ氏:恩特の娘。無子。

側室 (媵妾)

  • 詹氏:詹綬交の娘。無子。
  • 兪氏:兪大の娘。無子。
  • 張氏:張元聰の娘。無子。

脚註・参照先

参照文献

参考

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