アラバマ (戦艦)

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アラバマ (USS Alabama, BB-60) は、アメリカ海軍戦艦で、ノーフォーク海軍造船所で建造された[5]サウスダコタ級戦艦の4番艦[6]。艦名はアラバマ州に因む。この名を持つ艦としては3隻目[注釈 1]第二次世界大戦終結後記念艦として保存されている[10]戦艦記念公園[11]

愛称 ビッグ・A(Big A)
ビッグ・バマ(Big Bama)
ザ・マイティ・A (The Mighty A)[1]
概要 アラバマ, 基本情報 ...
アラバマ
基本情報
建造所 バージニア州ノーフォーク海軍工廠
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
愛称 ビッグ・A(Big A)
ビッグ・バマ(Big Bama)
ザ・マイティ・A (The Mighty A)[1]
艦歴
発注 1939年4月1日
起工 1940年2月1日
進水 1942年2月16日[2]
就役 1942年8月16日[3]
退役 1947年1月9日[4]
除籍 1962年6月1日
その後 1964年6月11日より博物館船として公開
要目
基準排水量 35,000 トン
満載排水量 44,374 トン
全長 680フィート (210 m)
最大幅 108フィート2インチ (32.97 m)
吃水 35フィート1インチ (10.69 m)
機関 ゼネラル・エレクトリック蒸気タービン×4基
出力 130,000馬力 (97,000 kW)
推進 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 27.8ノット (51.5 km/h; 32.0 mph)
航続距離 15,000海里 (28,000 km; 17,000 mi)
乗員 平時:士官、兵員1793名
戦時:士官、兵員2500名
兵装
装甲
  • 舷側:12.2インチ (310 mm)
  • 甲板:6インチ (150 mm)
  • 舷側:12.2インチ (310 mm)
  • 砲塔:18インチ (460 mm)
  • バーベット:17.3インチ (440 mm)
  • 司令塔:16インチ (410 mm)
搭載機 OS2U水上機×3機
発艦用カタパルト×2基
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概要

戦艦アラバマ (USS Alabama, BB-60) は、アメリカ合衆国第二次世界大戦で運用した軍艦サウスダコタ級戦艦の4番艦[6]。1940年2月に起工、1942年8月16日に就役した[12]。乗組員にはプロ野球選手ボブ・フェラーがいる[13]。 1943年4月、大西洋の戦いに投入され、ヨーロッパにむかう[14]イギリス海軍本国艦隊を強化するため姉妹艦英語版サウス・ダコタと共にスカパ・フローに到着[15]キング・ジョージ5世級戦艦イラストリアス級航空母艦と共に、ソ連にむかう輸送船団の護衛任務や、ドイツ海軍戦艦部隊に対する牽制・陽動作戦に就いた[16][17]

同年8月、アラバマとサウスダコタは対日作戦のため太平洋艦隊に転籍した[10]。同年11月に始まったギルバート・マーシャル諸島の戦いを筆頭に、中部太平洋諸島の反攻作戦に参加[12]高速空母機動部隊英語版の護衛として、空母日本海軍の水上艦および航空攻撃から守る任務に就いた[注釈 2]。また水陸両用作戦を支援するため、地上目標への艦砲射撃も頻繁に行った。1944年6月から9月にかけてのマリアナ・パラオ諸島の戦い、10月から12月にかけてのフィリピン攻防戦にも参加した。1945年初頭の改修後、5月にアラバマは機動部隊に復帰し、沖縄戦や、7月から8月にかけて空母機動部隊による日本本土への一連の空襲砲撃作戦に参加した[12]

太平洋戦争終結後、マジックカーペット作戦英語版に参加した。1947年に退役し、太平洋予備艦隊英語版に配属された後、1962年に海軍艦艇登録簿から抹消されるまでそこに留まった。現在、アラバマ州モービル英語版バトルシップ・メモリアル・パーク英語版[18]博物館船として保存されている[19]

艦歴

サウスダコタ級戦艦4隻のうち3隻は民間の造船所に発注され、本艦(BB-60)のみアメリカ海軍の造船所で建造された[注釈 3]。 「アラバマ」は1940年(昭和15年)2月1日に起工。太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)2月16日、リスター・ヒル夫人(アラバマ州選出上院議員J・リスター・ヒルの妻)によって命名・進水した[21]。進水式にはフランク・ノックス海軍長官も臨席した[注釈 4]。同年8月16日、初代艦長ジョージ・B・ウィルソン大佐の指揮下就役した。

第二次世界大戦

英戦艦「アンソン」から撮影された砲撃訓練中の米戦艦「アラバマ」。

艤装完了後の1942年(昭和17年)11月より、チェサピーク湾メイン州カスコ湾で訓練や調整をおこなった[14]ノーフォークでの検査後、第22.2任務群に割り当てられ、同年2月13日に訓練のためカスコ湾に戻った[14]。姉妹艦「サウスダコタ」と共に訓練をおこなう[14]

イギリス海軍シチリア侵攻のため主力艦地中海戦域に振り向け、ブリテン諸島海域(北海)、北大西洋ノルウェー海)~北極海の警護に必要な艦艇が不足していた。ノルウェーフィヨルドにはドイツ海軍戦艦2隻(超弩級戦艦ティルピッツ」、高速戦艦シャルンホルスト」)が居座っており、ソビエト連邦向け輸送船団脅威を与えていた[23]。イギリスの支援要請に応じて、サウスダコタ級戦艦2隻(サウスダコタ、アラバマ)がイギリスに派遣される[注釈 5]

「アラバマ」は第22任務部隊の一部として、オラフ・M・ハストヴェット提督が率いる姉妹艦「サウスダコタ」および5隻の駆逐艦と共にオークニー諸島へ出航した[注釈 6]ニューファンドランド島アージェンティアプラセンティア湾を経由し、5月19日にスカパ・フローへ到着した[14]。 イギリス海軍の本国艦隊(司令長官ブルース・フレーザー提督)に所属するキング・ジョージ5世級戦艦[16][17]、戦艦「マレーヤ[注釈 7]、空母「フューリアス[28]イラストリアス級航空母艦などと合流した[29][注釈 8][注釈 9]。第61任務部隊に配属され、本国艦隊の指揮下に入り、共同作戦を調整するための集中的な訓練演習を行った。「デューク・オブ・ヨーク」や「アンソン」と演習をおこなう「アラバマ」の写真や動画が残されている[29]

6月、スヴァールバル諸島スピッツベルゲン島への救援作戦に参加した[15]ギアボックス作戦[17][28]アイスランドにも足を延ばした[37]。6月25日、アメリカ欧州海軍司令官ハロルド・スターク提督が公式査察をおこなう[15][注釈 10]。7月、イギリス本国艦隊とサウスダコタ級戦艦は、ハスキー作戦の陽動とドイツ戦艦対策を兼ねた「キャメラ作戦 (Camera) 」と[16][35]、「ガバナー作戦 (Governor) 」を実施した[17][26][28][36]。本艦は「ティルピッツ」を誘い出そうと様々な手を打ったが、ついにドイツ戦艦と対戦する機会は訪れなかった[15][37]。8月中旬、「アラバマ」と「サウスダコタ」はイギリスを離れる[15]大西洋艦隊所属の空母「レンジャー」や重巡「タスカルーサ[39]、重巡「オーガスタ[25]などがスカパ・フローに再進出し、引き続きイギリス本国艦隊と行動を共にした。

太平洋戦争

中部太平洋の戦い

ノーフォーク海軍工廠で整備を終えた「アラバマ」と「サウスダコタ」は、8月下旬にパナマ運河を通過し、南太平洋に移動した[37]。この措置により、同級4隻が全て太平洋に揃った[10]。9月中旬、エファテ島に到着した「アラバマ」は、高速空母機動部隊に配備される[15]。同地で待機と訓練の日々を送った[注釈 11]真珠湾攻撃と共にアメリカ海軍に志願したMLBプロ野球選手ボブ・フェラー[41]、アラバマ乗組員として勤務しており、アラバマチームは艦隊野球選手権で優勝した[13][37]

11月上旬より、ギルバート・マーシャル諸島の戦いに参加する[13]。第50.1任務群(指揮官チャールズ・A・パウナル少将)正規空母ヨークタウンⅡレキシントンⅡ、軽空母カウペンス、戦艦3隻(アラバマ、ワシントン、サウスダコタ)、駆逐艦6隻でタラワ攻防戦に従事した[42]。タラワ環礁ベティオ島英語版への上陸作戦を支援し、続いてマキン島への上陸作戦を支援した。アラバマは11月26日の夜、空母機動部隊に接近してきた日本軍機と交戦した[注釈 12]

12月8日、第50.8任務部隊のうち[注釈 13]、アラバマと他の5隻の高速戦艦はナウルを砲撃した[42]。この日、撃墜された味方艦上機の捜索中に[44]、ナウルの地上砲台から砲撃を受けた駆逐艦「ボイド英語版」が損傷した[45]。「ボイド」は「アラバマ」と並走しながら、負傷者3名を戦艦に移送した[46]。その後、空母機動部隊はエスピリトゥサント島を経由し、エファテ島に後退した[13]。1944年1月5日、「アラバマ」は真珠湾に向けて出航した[13]。日本人の捕虜8名が乗艦した[13]。真珠湾での短い整備と休息のあと出撃し、1月21日にエリス諸島フナフティ島に到着した[47]。アラバマは第58任務部隊に配属され、フリントロック作戦に従軍する[注釈 14]。1月25日にクェゼリンの戦いを開始するために出撃した。アラバマは1月29日と30日にかけてロイ=ナムル島の防御陣地や飛行場にむけて艦砲射撃を実施した[13]

高速空母機動部隊は、中部太平洋の日本占領下の島々への一連の襲撃を開始した[42]。第58.2任務群もヘイルストーン作戦に参加、2月16日から17日にかけてトラック泊地を空襲し、大戦果をあげた[47]。つづいてエニウェトクの戦いの支援をおこなう。2月21日、日本軍の空襲の際、「アラバマ」の5インチ砲塔が誤って自艦の5インチ砲塔にむけて発砲し、5人が死亡、11人が負傷した。その後、艦隊は燃料と弾薬を補給するためにマーシャル諸島マジュロに向かった[48]。そこでアラバマは、臨時にマーク・ミッチャー中将の旗艦を務めた[48]

3月22日、「アラバマ」を含めた空母機動部隊はマジュロを出港した[48]。このディセクレイト・ワン作戦は、ダグラス・マッカーサー陸軍大将が実行しているニューギニア島ホーランジアの戦い飛び石作戦)を支援するために敢行された[48]。3月30日以降のパラオ大空襲で空母機動部隊は勝利をおさめた。アラバマは対空砲火で日本軍機を撃退した。補給のためにマジュロに戻ったあと、ニューギニア西部沿岸で一連の攻撃を行った。カロリン諸島に戻る際、アラバマと他の5隻の戦艦は5月1日にポンペイ島を砲撃した。その後、空母機動部隊はマリアナ諸島侵攻の準備を開始した。

マリアナ諸島およびパラオ諸島の戦い

スプルーアンス提督が指揮する第5艦隊は、マリアナ諸島の攻略作戦を開始した[注釈 15]。6月12日以降、アメリカ海軍は空襲と並行し、戦艦や巡洋艦の艦砲でサイパン島の沿岸部を砲撃した[49]

6月19日、マリアナ沖海戦(連合軍呼称:フィリピン海海戦)が始まった[49]。「アラバマ」は、第58.7任務群(指揮官ウィリス・A・リー提督)の高速戦艦部隊に所属していた。アウトレンジ戦法により小沢機動部隊からの攻撃隊が接近したとき、「アラバマ」はレーダーで真っ先に探知して警告を発した艦であった[3]。つづいてグアム攻防戦テニアンの戦いペリリューの戦いなどで、空母機動部隊を護衛し続けた。なおスプルーアンス提督(第5艦隊司令長官)からハルゼー提督(第3艦隊司令長官)に交代したため、第58任務部隊は第38任務部隊に改称した。またエウトゥニクに補給のため帰投する際に日本人捕虜6名を乗せたが、1名が病死したので水葬に伏している[50]

 フィリピンの戦い

1944年9月、太平洋戦争序盤の比島作戦で日本軍に奪われたフィリピンを奪還するため、アメリカ軍は本格的に活動を開始した[51]。日本軍は混乱し、ダバオ誤報事件が起きている。9月15日、モロタイ島の戦いが始まる。高速空母機動部隊も比島奪回作戦に加わり、航空隊はレイテ島からルソン島に至るまで、フィリピン各地の日本軍基地を攻撃した[52]

空母機動部隊はウルシー環礁で補給をおこなったあと、フィリピン奪還作戦に乗り出す[52]。10月10日の琉球諸島空襲では、奇襲で大戦果をあげた(十・十空襲)。つづいて台湾に向かい、10月12日より空襲をおこなう。日本軍の基地航空部隊が夜間空襲を敢行したが、第38任務部隊は巡洋艦2隻が大破しただけで済んだ[53]。アラバマは10月15日にレイテ島上陸作戦を支援した後、空母の護衛任務に戻った。この時点で第38.4任務群に転属していた[注釈 16]

10月24日、基地航空隊の彗星が第38任務部隊を襲い、軽空母「プリンストン」を撃沈した[54]。第三艦隊司令長官ハルゼー提督は、戦艦武蔵を撃沈されるなど大損害を受けた栗田第二艦隊(米側呼称:中央部隊)は撤退したと考え、北方で発見した小沢機動部隊の撃滅に向かうことを決断した。10月25日のエンガノ岬沖海戦で第38任務部隊は小沢機動部隊を主戦力を葬ったが[50]、栗田艦隊を撃滅することには失敗した。

第38任務部隊はウルシー環礁に後退して燃料と弾薬を補給したあと、ふたたびフィリピン方面に出動した[54]。日本軍はレイテ島オルモックへの増援作戦を続けており(多号作戦)、第38任務部隊はそれらの艦艇や日本軍飛行場を襲撃した。11月下旬から12月初旬まで、ウルシー環礁で整備と補給をおこなう。「アラバマ」は第38.1任務群に所属替えとなった。12月中旬にはミンドロ島への上陸作戦を支援した[54]

12月17日、第38任務部隊はコブラ台風に遭遇、駆逐艦3隻が沈没した[54]。他の数隻の艦艇にも深刻な損傷を与えたが、「アラバマ」は上部構造に軽微な損傷を受けただけで済んだ。ただし、搭載していたキングフィッシャー2機は大破した。ウルシー環礁に戻ると、アメリカ本土でのオーバーホールのため分遣された[55]。本艦は、1943年8月にパナマ運河を通過したときから一年以上も長期修理や休養をとることなく、働き続けていたのである[56]。アラバマは1945年1月18日にピュージェット・サウンド海軍造船所の乾ドックに入り、修理と整備をおこなう。乗組員は久しぶりの長期休暇をとった[50]

日本本土近海での作戦

1945年5月、「アラバマ」はウルシー環礁に到着[55]。スプルーアンス提督(第5艦隊司令長官)隷下の第58任務部隊に合流した。5月11日、ミッチャー提督の旗艦「バンカー・ヒル」に神風特別攻撃隊の特攻機が突入、同艦は大破した。ミッチャーは旗艦を「エンタープライズ」に変更した。5月14日に特攻機の襲撃を受けた際、「アラバマ」は対空砲火で敵機を撃墜しようとした[55]。日本軍数機を撃墜したが、それでも特攻機が艦隊の対空防御を突破した。1機の零戦が、ミッチャー提督の臨時旗艦「エンタープライズ」に突入して甚大な被害を与えた[55]。6月4日から5日にかけて、空母機動部隊は別の台風に見舞われた。第38.1任務群に所属していた「アラバマ」は表面的な損傷を受けただけであったが、同部隊の他の多くの艦艇は大きな損傷を受けた[57]。6月10日[57]、「アラバマ」や姉妹艦たちは[58]南大東島の日本軍施設を砲撃した。その後、レイテ島の新基地で補給をおこなった[57]

7月1日、第3艦隊はレイテ湾から出撃して北上し、訓練を行いながら日本本土にむかった[59]。7月10日、第38任務部隊の各空母は、日本各地の様々な軍事目標や産業目標に対して広範囲にわたる攻撃を敢行した[59]7月17日、第38任務部隊から抽出された戦艦5隻(ウィスコンシンミズーリアイオワノースカロライナアラバマ)を基幹とする第34.8.2任務隊と、イギリス太平洋艦隊第37任務部隊英語版から抽出されたイギリス戦艦キング・ジョージ5世[60]Q級駆逐艦2隻で、茨城県日立市に艦砲射撃をおこなった[注釈 17][注釈 18]。 8月9日、二回目の釜石艦砲射撃をおこなっていた第38任務部隊を、日本軍の特攻隊が襲った。レーダーピケット艦の駆逐艦「ボリー英語版」が大破する[64]。アラバマの医療班は駆逐艦「アボット英語版」を経由して、「ボリー」に乗艦した[65]

大戦後

大戦の終盤、「アラバマ」は本州の南部海岸から行動した。1945年(昭和20年)8月15日に日本が降伏した時、「アラバマ」は本州南岸の洋上を航行していた[66]。8月27日、連合国軍艦隊は相模湾に到着した[67][68]。8月30日、横須賀東京での占領業務に従事するアメリカ海兵隊や水兵が先発し[69]、「アラバマ」の乗組員は艦隊乗組員中一番に上陸した[66][注釈 19]。 9月5日、「アラバマ」は東京湾に入った[72]。横須賀では、損傷した戦艦長門」が浮かんでいた[73][70]。乗組員たちは業務の傍ら、関東近郊を見物した[66]。「アラバマ」は占領業務から帰国する兵士を乗艦させると、9月20日に出航した[66][注釈 20]マジック・カーペット作戦英語版の一環として沖縄で海軍建設大隊の700名の水兵を乗艦させ帰国の途につく。10月15日にサンフランシスコに到着し、10月27日の海軍記念日には9,000名の訪問客が乗艦した。その後、10月29日にカリフォルニア州サンペドロ湾へ向かい、1946年(昭和21年)2月27日まで留まる。続いて不活性化オーバーホールのためピュージェット・サウンド海軍工廠へ向かった。「アラバマ」は1947年(昭和22年)1月9日にシアトル海軍基地で退役し、ブレマートンの太平洋予備役艦隊入りした。1962年6月1日に除籍されるまで「アラバマ」は同所に留まった。

アラバマ州民は「アラバマ」を記念艦として保存するため「USSアラバマ戦艦委員会」を組織し、その資金を調達した。「アラバマ」は1964年(昭和39年)6月16日に引き渡され、同年7月7日にシアトルで記念式典が開催された。同年9月14日にモービル湾英語版に牽引され、バトルシップ・メモリアル・パーク英語版で永久展示されている。見学者は左舷側から乗り込む[75]。1986年(昭和61年)にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された(アラバマ州の国定歴史建造物)。

展示艦ではあるが[76]、映画のロケも度々行われている。『沈黙の戦艦』では戦艦ミズーリ」の代役として利用された。『パシフィック・ウォー』(2016年、原題USS Indianapolis: Men of Courage)では、重巡インディアナポリス」のシーンが本艦で撮影された。

「アラバマ」は第二次世界大戦の戦功により9個の従軍星章を受章した。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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