カイホスロー2世の子として生まれる。
1245年、カイホスロー2世が死去すると、国の大官たちは彼の長子イッズッディーン・カイカーウスをスルターン(カイカーウス2世)に即位させ、その弟ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンとアラーウッディーン・カイクバードに補佐させた。しかし、領主たちはルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンをスルターン位につけようと欲していたため、イスファハーン市出身の大宰相シャムスッディーンはルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンの党派を殺し、イッズッディーン・カイカーウス2世の母と結婚した。またルクヌッディーンを遠ざけようと、彼をモンゴル帝国との降伏条約に定められた貢納品と贈物をもたせて第3代モンゴル皇帝グユク・カンの宮廷へ向けて出発させた。ルクヌッディーンがグユクの宮殿に到着した時、随行者の一人バハー・ウッディーン・タルジュマーンはシャムスッディーンがルクヌッディーンの党派を殺し、イッズッディーンの母と結婚したことを告発した。この告発により、グユク・カンはイッズッディーン・カイカーウス2世を廃位し、ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンを次のスルターン(キリジ・アルスラーン4世)として即位させ、シャムスッディーンの代わりにバハー・ウッディーン・タルジュマーンを大宰相にすることを布告した。これを知ったシャムスッディーンはこの命令の取り消しをしようと、マラティヤ市の長官ラシードゥッディーンに莫大な額の黄金と多額の宝石を持たせてグユク・カンの宮殿へ派遣した。しかし、彼はエルズィンジャーン市付近に来た時、ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンが到着したこと聞いてアレッポ市へ逃げていった。
1249年、新宰相のバハー・ウッディーンは2千人のモンゴル軍に護衛されてルクヌッディーン・キリジ・アルスラーン4世をスルターンとして宣言した。シャムスッディーンはカイカーウス2世をコニア市から連れ出し、彼を海岸地方へ連れて行こうとしたが領主たちに逮捕された。バハー・ウッディーンはシャムスッディーンを拷問にかけて財宝のありかを白状させ、死刑に処した。その間、ルーム・セルジューク朝を2つに分割し、スィヴァース川の西をカイカーウス2世が、残りの地方をキリジ・アルスラーン4世が統治することとなった。しかし、キリジ・アルスラーン4世の役人は単独でキリジ・アルスラーン4世を統治させたいと欲した。カイカーウス2世の党派は謀略を用い、キリジ・アルスラーン4世の一味に対してカイカーウス2世はモンゴル皇帝の命令を甘受していると知らせ、両スルターンの会見をカイサリア市でおこなうことを提案した。この会見においてカイカーウス2世はキリジ・アルスラーン4世が与えようとする所領地を受け取ろうと伝え、キリジ・アルスラーン4世が約束の場所に赴くと彼とその宰相を抑留し、コニア市へ送った。しかし、カイカーウス2世はキリジ・アルスラーン4世に危害は加えず、むしろその弟アラーウッディーン・カイクバード(カイクバード2世)とともに国政に参与させた。
1254年、カイカーウス2世はモンゴル帝国の第4代皇帝モンケ・カアンの宮廷に呼ばれたが、キリジ・アルスラーン4世が国を奪うのではないかと不安になったため、カイクバード2世をモンゴリアへ派遣した。カイクバード2世は老将サイフッディーン・タレンタイと海岸地方長官シュジャー・ウッディーンらと共に黒海とキプチャク草原を経由して向かった。カイカーウス2世はモンケ・カアンに宛てた書簡の中で自身が行けない理由を東ローマ帝国とキリキア・アルメニア王国からの防衛のためと弁明した。キリジ・アルスラーン4世の徒党はカイカーウス2世を陥れようと考え、彼の書簡を偽装し、サイフッディーン・タレンタイとジュジャー・ウッディーンを帰らせ、書記シャムスッディーンとアミール・サイフッディーン・ジャリシュと入れ替わらせるよう命じた。2人の使者はジョチ・ウルス当主のバトゥのオルドに到着したところでカイクバード2世の一行に追いつき、バトゥに謁見した際にサイフッディーン・タレンタイとジュジャー・ウッディーンが毒薬をもっているなどと訴えたが、バトゥの侍医が二人の持っていた薬が毒ではないと証明したため、バトゥはカイクバード2世と4人の使者ともどもモンケ・カアンのもとへ見送った。
1257年、モンケの宮廷へ向かう途中、カイクバード2世が死去したため、敵対する2派の使者はそのままモンケの宮廷へ赴き、両者の言い分を訴えた。そこで、モンケ・カアンはルーム・セルジューク朝を2人のスルターンで分割統治することを命令し、カイカーウス2世はスィヴァース川以西を、キリジ・アルスラーン4世はスィヴァース川以東からエルゼルム地方までを領有することが決まり、貢納も定められた。