イッズッディーン・カイカーウス2世

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イッズッディーン・カイカーウス2世ペルシア語: عزّالدین کیکاووس دوم、ʿIzz al-Dīn Kaykāvūs-e Dovvom、生没年:? - 1279年[2])は、ルーム・セルジューク朝の第13代スルターン(在位:1246年 - 1262年[1])。カイホスロー2世の長男[3]

概要 イッズッディーン・カイカーウス2世・イブン・カイホスロー عزّالدین کیکاووس بن کیخسرو, 在位 ...
イッズッディーン・カイカーウス2世・イブン・カイホスロー
عزّالدین کیکاووس بن کیخسرو
第13代スルターン
在位 1246年 - 1262年[1]

死去 1279年[2]
王朝 ルーム・セルジューク朝
父親 カイホスロー2世
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生涯

生まれ

カイホスロー2世の長男として生まれる[3]

即位

1245年、カイホスロー2世が死去すると、国の大官たちは彼の長子イッズッディーン・カイカーウスをスルターン(カイカーウス2世)に即位させ、その弟ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンアラーウッディーン・カイクバードに補佐させた[3]。しかし、領主たちはルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンをスルターン位につけようと欲していたため、イスファハーン市出身の大宰相シャムスッディーンはルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンの党派を殺し、イッズッディーン・カイカーウス2世の母と結婚した[3]。またルクヌッディーンを遠ざけようと、彼をモンゴル帝国との降伏条約に定められた貢納品と贈物をもたせて第3代モンゴル皇帝グユク・カンの宮廷へ向けて出発させた[4]。ルクヌッディーンがグユクの宮殿に到着した時、随行者の一人バハー・ウッディーン・タルジュマーンはシャムスッディーンがルクヌッディーンの党派を殺し、イッズッディーンの母と結婚したことを告発した[4]。この告発により、グユク・カンはイッズッディーン・カイカーウス2世を廃位し、ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンを次のスルターン(キリジ・アルスラーン4世)として即位させ、シャムスッディーンの代わりにバハー・ウッディーン・タルジュマーンを大宰相にすることを布告した[4]。これを知ったシャムスッディーンはこの命令の取り消しをしようと、マラティヤ市の長官ラシードゥッディーンに莫大な額の黄金と多額の宝石を持たせてグユク・カンの宮殿へ派遣した[4]。しかし、彼はエルズィンジャーン市付近に来た時、ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンが到着したこと聞いてアレッポ市へ逃げていった[4]

1249年、新宰相のバハー・ウッディーンは2千人のモンゴル軍に護衛されてルクヌッディーン・キリジ・アルスラーン4世をスルターンとして宣言した[4]。シャムスッディーンはカイカーウス2世をコニア市から連れ出し、彼を海岸地方へ連れて行こうとしたが領主たちに逮捕された[4]。バハー・ウッディーンはシャムスッディーンを拷問にかけて財宝のありかを白状させ、死刑に処した[5]。その間、ルーム・セルジューク朝を2つに分割し、スィヴァース川の西をカイカーウス2世が、残りの地方をキリジ・アルスラーン4世が統治することとなった[5]。しかし、キリジ・アルスラーン4世の役人は単独でキリジ・アルスラーン4世を統治させたいと欲した[5]。カイカーウス2世の党派は謀略を用い、キリジ・アルスラーン4世の一味に対してカイカーウス2世はモンゴル皇帝の命令を甘受していると知らせ、両スルターンの会見をカイサリア市でおこなうことを提案した[5]。この会見においてカイカーウス2世はキリジ・アルスラーン4世が与えようとする所領地を受け取ろうと伝え、キリジ・アルスラーン4世が約束の場所に赴くと彼とその宰相を抑留し、コニア市へ送った[5]。しかし、カイカーウス2世はキリジ・アルスラーン4世に危害は加えず、むしろその弟アラーウッディーン・カイクバード(カイクバード2世)とともに国政に参与させた[5]

モンケ・カアンにより分割命令が下る

1254年、カイカーウス2世はモンゴル帝国の第4代皇帝モンケ・カアンの宮廷に呼ばれたが、キリジ・アルスラーン4世が国を奪うのではないかと不安になったため、カイクバード2世をモンゴリアへ派遣した[6]。カイクバード2世は老将サイフッディーン・タレンタイと海岸地方長官シュジャー・ウッディーンらと共に黒海とキプチャク草原を経由して向かった[6]。カイカーウス2世はモンケ・カアンに宛てた書簡の中で自身が行けない理由を東ローマ帝国キリキア・アルメニア王国からの防衛のためと弁明した[6]。キリジ・アルスラーン4世の徒党はカイカーウス2世を陥れようと考え、彼の書簡を偽装し、サイフッディーン・タレンタイとジュジャー・ウッディーンを帰らせ、書記シャムスッディーンとアミール・サイフッディーン・ジャリシュと入れ替わらせるよう命じた[7]。2人の使者はジョチ・ウルス当主のバトゥのオルドに到着したところでカイクバード2世の一行に追いつき、バトゥに謁見した際にサイフッディーン・タレンタイとジュジャー・ウッディーンが毒薬をもっているなどと訴えたが、バトゥの侍医が二人の持っていた薬が毒ではないと証明したため、バトゥはカイクバード2世と4人の使者ともどもモンケ・カアンのもとへ見送った[7]。途中、カイクバード2世が死去したため、敵対する2派の使者はそのままモンケの宮廷へ赴き、両者の言い分を訴えた[8]。そこで、モンケ・カアンはルーム・セルジューク朝を2人のスルターンで分割統治することを命令し、カイカーウス2世はスィヴァース川以西を、キリジ・アルスラーン4世はスィヴァース川以東からエルゼルム地方までを領有することが決まり、貢納も定められた[8]。そのころキリジ・アルスラーン4世の徒党はコニア市で厳重監視されていたキリジ・アルスラーン4世を脱走させてカイサリア市へ逃がし、軍隊を集めてカイカーウス2世に立ち向かったが敗れたため、デヴェリュ堡に監禁された[8]

バイジュの侵攻

1255年、モンゴルの将軍バイジュはカイカーウス2世が貢納の支払い期限に遅れたためルームのに侵攻し、コニア市とアクサライ市の間で戦闘が起きてカイカーウス2世を敗走させた[9]。カイカーウス2世はコニア市から脱走してその家族と共にアンタリアの城塞の中へ避難した[9]。その間にバイジュはキリジ・アルスラーン4世を牢獄から出してスルターン位に復帰させた[9]。カイカーウス2世はニカイア帝国の皇帝テオドロス1世ラスカリスのもとへ避難したが、巻き添えになることを恐れて帰国するよう言った[9]。しかたなくカイカーウス2世はルームに帰ったとき、ちょうどモンゴルの征西司令官フレグからの降伏勧告があったため、降伏を申し出た[9]。フレグは分割統治を継続させるとともに、カイカーウス2世をコニア王に封じた[10]

フレグがペルシアに到着

1256年1月、フレグがジャイフーン川を渡るやいなや、カイカーウス2世とキリジ・アルスラーン4世は使節を送って挨拶をし、莫大な贈物を捧げてフレグに朝貢した[11]

1258年8月9日には、カイカーウス2世とキリジ・アルスラーン4世はフレグのバグダード征服の祝賀とともに、フレグのもとを訪れた[12]。モンゴル帝国に臣従するための調停文に調印する際、カイカーウス2世は以前にバイジュに反抗したことがあったことを恐れたため、フレグに跪くことを許されると、一足の大きな靴を贈呈したが、その靴の裏にはカイカーウス2世の顔が描かれてあった[12]。これにカイカーウス2世は「殿下の足でこのしもべを踏んで下さい」と卑下した[12]。これにフレグは喜んで恩寵を施した[12]。この時もフレグからルームの分割統治を承認され、二人のスルターンはその後のシリア侵攻に同行し、莫大な賜い物を受け取って帰国した[12]

東ローマ帝国へ亡命

カイカーウス2世とキリジ・アルスラーン4世は共同で一人の宰相をもっていた[13]。シャムスッディーン・マフムードという聡明な妥協的な人物であり、この宰相が生きていた間は両スルターンは協力を続けた[13]。彼が死んだ後、両スルターンはそれぞれの宰相を置いた[13]。キリジ・アルスラーン4世の宰相はムイーヌッディーン・スライマーンといい、サーヒブ・パルワーナ(国璽尚書)という役職にあり、彼は自分の君主を全国の君主にすることを目標とし、モンゴルの代官ノヤン・アリンジャクの買収に成功した[13]。アリンジャクはフレグに連絡してカイカーウス2世はマムルーク朝と内通しており、ひそかに反旗を翻そうとしている、と伝えた[13]。実際にもカイカーウス2世は1262年6月にマムルーク朝のスルターン・バイバルスに使節団を派遣し、その書簡の中で自分の国の半分をバイバルスに譲りたいと言明していた[13]。バイバルスはダマスクスとアレッポ両市の軍隊にカイカーウス2世を救援に行かせる命令を発したが、フレグによってカイカーウス2世を殺害する命令が下されていた[1]。キリジ・アルスラーン4世は彼を捕らえるために軍隊を配置したが、すでにカイカーウス2世は事前に身の危険を感じて東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに亡命していた[1]。カイカーウス2世は東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスから厚く歓迎された[1]。カイカーウス2世が亡命したため、キリジ・アルスラーン4世が単独でスルターンとなった[2]

死去

カイカーウス2世はコンスタンティノープルにおいて長い間待ちくたびれ、自分が再びルームのスルターンに返り咲くことはないとあきらめていた[14]。ある時、ミカエル8世パレオロゴスはコンスタンティノープルを留守にするため、カイカーウス2世が逃亡しないように彼を小さな海岸都市エーノスに抑留した[14]1265年、たまたまジョチ・ウルスのベルケ・カンの軍隊がブルガル人を率いてヘムス山を越えて侵入し、東ローマ帝国の北方諸州を掠奪した際、カイカーウス2世を救出した[14]。カイカーウス2世はベルケの宮廷へ向けて出発したが、途中クリミア半島において自分の救い主とみなしていたベルケ・カンの死去を聞いた[14]。ベルケを継いだモンケ・テムルはカイカーウス2世にクリミアの封邑を与え、カイカーウス2世はこの地に留まり、1279年に死去した[2]

カイカーウス2世のコイン

脚注

参考資料

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