アルフレート・フーゲンベルク
ドイツの実業家、政治家
From Wikipedia, the free encyclopedia
アルフレート・ヴィルヘルム・フランツ・マリア・フーゲンベルク(ドイツ語: Alfred Wilhelm Franz Maria Hugenberg, 1865年6月19日 - 1951年3月12日)は、ドイツの実業家、政治家。ドイツ国家人民党(DNVP)党首。1933年に成立したヒトラー内閣で経済相と食糧農業相を兼務した。
| アルフレート・フーゲンベルク Alfred Hugenberg | |
|---|---|
|
フーゲンベルクの肖像写真(1933年) | |
| 生年月日 | 1865年6月19日 |
| 出生地 |
|
| 没年月日 | 1951年3月12日(85歳没) |
| 死没地 |
キューケンブルッフ |
| 出身校 |
ゲッティンゲン大学、ハイデルベルク大学 ベルリン大学、シュトラースブルク大学 |
| 所属政党 |
(? - 1918年) (1917年 - 1918年) (1918年 - 1933年)[* 1] |
| 称号 | ドイツ国鷲記章 |
| 内閣 | ゲーリング内閣 |
| 在任期間 | 1933年2月4日 - 1933年6月29日 |
| 大統領 | パウル・フォン・ヒンデンブルク |
| 内閣 | ヒトラー内閣 |
| 在任期間 | 1933年1月30日 - 1933年6月29日 |
| 大統領 | パウル・フォン・ヒンデンブルク |
| 内閣 | ヒトラー内閣 |
| 在任期間 | 1933年1月30日 - 1933年6月29日 |
| 大統領 | パウル・フォン・ヒンデンブルク |
| 内閣 | ゲーリング内閣 |
| 在任期間 | 1933年1月30日 - 1933年6月29日 |
| 大統領 | パウル・フォン・ヒンデンブルク |
| 当選回数 | 12回 |
| 在任期間 | 1919年1月19日 - 1945年5月8日 |
その他の職歴 | |
|
第4代 議長(党首) (1928年10月20日 - 1933年6月27日) | |
経歴
前半生
1865年6月19日ハノーファーに生まれた[1]。父カール・フーゲンベルクは、プロイセン王国の国会議員を務めたハノーファーの財務官である[2]。
フーゲンベルクは、ゲッティンゲン大学、ハイデルベルク大学およびベルリン大学で法律学を、シュトラースブルク大学で経済学を学んだ[2]。1888年にストラスブールでゲオルク・フリードリヒ・クナップの指導のもと、ドイツ北西部における植民地化をテーマにした論文で経済学の学位を取得した。この論文の中でフーゲンブルクは人種差別的な内容を展開させ、経済的困窮からドイツ人を救うための海外植民地の獲得を支持した[3]。
我々の経済的自立は、政治的に我々に依存する市場、そして熱帯の植民地を確保し、資本主義的に開拓することによってのみ維持することができる[4]。
1891年超国家主義団体全ドイツ連盟(Alldeutscher Verband)を共同設立した[2][1]。1900年またいとこに当たるゲルトルート・アディッケスと結婚した[2]。フーゲンベルクは当初、官界に入り、プロイセンの官僚となった[2]。
国家試験合格後、フーゲンベルクはヴェセルで副郡長に就き、翌年ポズナンで定住委員会の上級職に就いた。この委員会は彼の博士論文の趣旨に沿って、ポズナンのドイツ化を促進することを目的としていた。1899年から1900年にかけて、カッセルにあるヘッセン・ナッサウ州政府で短期間勤務したが、すぐにポズナンに戻り農村協同組合連合の理事を務めた[5]。
大実業家
1907年実業界に転じた[2]。フランクフルト・アム・マイン鉱業銀行支配人に就任し、次いで1909年クルップに重役として招聘され、銀行業務や鉄鋼関係を担当し、1918年まで財務・経理取締役会議議長を務めた[2][1]。1915年には自由ウクライナ協会の創設メンバーとなった。1912年から1925年まで、炭鉱連盟や鉱山協会で委員長を務め、1919年からはドイツ産業連盟の執行委員会メンバー、ドイツ雇用者連盟の理事会および委員会メンバーも務め、重工業界にも隠然たる影響力を持ち続けた[6]。
第一次世界大戦
第一次世界大戦勃発後の1914年11月に、フーゲンベルクは全ドイツ連盟のハインリヒ・クラース、実業家のヒューゴ・シュティネス、エミール・キルドルフ、実業家連盟と農民連盟の代表者たちとともに、非常に広範囲にわたる戦争目標を策定した。
フーゲンベルクら全ドイツ連盟に策定された戦争目標は、先の彼の博士論文が基となっており、戦争勝利後にドイツが占領した東ヨーロッパ地域にドイツ兵と労働者を入植させることが掲げられた。この領土拡大は、ドイツ国民や労働者の不満の矛先を変えさせる目的もはらんでいた[7]。1915年春、彼は合計6つの団体による請願書を皇帝ヴィルヘルム2世に提出し、ドイツが経済的に安定するために戦争の継続、植民地、賠償金の獲得を訴えた。ベルギー、フランス、ポーランド、バルト三国の一部は併合され、容赦なくドイツ化されるべきであると主張した[8]。
世界大戦中の1916年には、民族主義的な傾向のあるフーゲンベルク・コンツェルンを創設した[2]。これはクルップの資金をバックにした出版コンツェルンであり、後に設立される右派政治団体ドイツ祖国党の活動を支援していた[6]。ベルリン最大の新聞を発行するシャール(Scherl)、14紙の地方紙を発行するフェラ・フェアラーク(Vera verlag)など有力ジャーナリズムを傘下に収めてメディアを支配した[1][9]。1927年には映画会社ウーファ社長となる[2][9]。
1917年7月19日に帝国議会で民主政党が過半数の賛成で可決した平和決議に不満を持ち、フーゲンベルクは領土拡張主義的な雑誌『ドイツの再生』に資金援助を行った。フーゲンベルクはアルフレート・フォン・ティルピッツやヴォルフガング・カップらとともに、ドイツ祖国党の共同創設者となった。ドイツ祖国党は、南フランスと西フランスの領土の征服と住民の強制移送、ユダヤ人の排除など、後のナチズムを先取りした超国家主義的な政治団体であった[10]。フーゲンベルクは個人的にユダヤ人の友人がおり、自社でユダヤ人を雇用していたことから、必ずしも反ユダヤ主義を支持していなかったが[11]、政治的敵対者として、反ユダヤ主義を宣伝的に利用した。
ヴァイマル共和国時代

帝政時代には、ブルジョワ自由主義政党である国民自由党に所属していたが、第一次世界大戦後の1918年に保守政党の国家人民党(DNVP)に入党した。同党は、ユンカーと重工業資本家の利益を代表する右翼的、保守反動的な政党であり、フーゲンベルクは実業界、産業界代表としてこの政党に参加した。同党の目標であるヴァイマル共和政の打倒と君主制の復活を支持した。
1919年1月1日、フーゲンベルクはクルップ社を退社し、同年1月19日に国家人民党所属の国会議員となる。国会議員の地位は1945年の敗戦に伴う国会の解体まで保持した[2]。翌年行われたプロイセン州憲法制定議会選挙にも立候補したが、落選した[12]。彼は自身の演説力やカリスマ性の欠如を自覚しており、議会ではほとんど発言せず、1929年まで議会で一度も演説をしなかった[13]。
国家人民党党首
フーゲンベルクは国家人民党の政府への参加は「議会主義の擁護につながる」として反対し、1927年初頭以降には政府との協力路線をとる党指導部と激しく対立するようになった[6]。フーゲンベルクはメディアの力を使って1928年秋にはヴェスタープ執行部を辞職に追い込んだ[9]。代わって1928年10月20日の党大会で国家人民党党首に選出された[14][15]。党首フーゲンベルクは、党の政治方針として民主主義からの脱却を求め、党首就任演説で議会制民主主義に対して戦いを宣言した。
フーゲンベルクが党首に就任する前の国家人民党は、いくつかの内閣に閣僚を排出し、民主政府に参加していたが、彼は党の新方針に基づき、国民人民党を徹底的な反対勢力へと導いた。その過程で、彼は国家人民党とイデオロギーをいくつか共有する国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)との協力関係を模索した。1929年6月7日にドイツの新しい賠償方式を定めたヤング案が成立。フーゲンベルクはこれに猛反発し、7月9日にはフーゲンベルクを委員長とする「ドイツ国民請願全国委員会」が創設された。国家人民党の他、右派退役軍人組織鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党なども参加して反ヤング案闘争を行った[16][17][18]。

パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領はフーゲンベルクの非妥協的な態度に激怒した。またフーゲンベルクとヒトラーの協力がヒンデンブルクの脅威と映るようになり、ヒンデンブルクとその側近クルト・フォン・シュライヒャーはフーゲンベルクを国家人民党内で孤立させようと努めたが、フーゲンベルクの党内影響力は絶大であった[19]。しかし前党首ヴェスタープやシュライヒャーと親交のあるゴットフリート・トレヴィラヌスらはフーゲンベルクの対政府強硬路線に反発し、1930年7月の国会解散後に国家人民党を離党して保守人民党(Konservative Volkspartei、略称KVP)を結成した[20][21]。保守人民党は保守的な中央党の政治家ハインリヒ・ブリューニングを支持し、第一次、第二次と続くブリューニング内閣に入閣した。フーゲンベルクは依然としてナチ党との協力継続を維持したが、ナチ党は国家人民党を「反動的」として攻撃し、両党の協力関係は希薄化した。
1930年9月14日の選挙の結果、国家人民党は73議席から41議席に議席を落とすという惨敗を喫した。一方ナチ党は12議席から107議席に増やすという地滑り的勝利を収めた[22]。国家人民党の支持基盤である実業界や農村はフーゲンベルクの融通のきかない強硬路線に嫌気がさして徐々に離れていき、ナチ党支持に転じ始めていた[23][24]。しかしこの選挙後にもフーゲンベルクは政府からの協力要請に対しては賠償の破棄を求めて拒否する姿勢を崩さなかった[25]。
1931年10月には鉄兜団やナチ党と共にハルツブルク戦線を結成し、政府に対抗する「国民反対派」の再統一をはかったが、これは国家人民党の党勢を回復しようという意図が強く、ヒトラーは当初より好ましく思っていなかった[26][27]。そのためまもなくナチ党はハルツブルク戦線から離脱して独自路線に戻った[28]。
1932年の大統領選挙にはフーゲンベルクとヒトラーは共同候補について合意に達することができなかった。フーゲンベルクは重工業家アルベルト・フェーグラー(ドイツ人民党)とプロイセン王子オスカー・フォン・プロイセンを候補者として提案した。しかし当選の見込みがなかったため出馬を避け、第一次大統領選挙では鉄兜団のテオドール・デュスターベルクを支持した[29]。しかしデュスターベルクは惨敗して第二次大統領選挙への出馬は見合わせることとなった。第二次大統領選挙ではフーゲンベルクはヒトラー支持でもヒンデンブルク支持でもよいとして党員の自由投票とした[30]。
1932年7月ドイツ国会選挙ではフーゲンベルク率いる国家人民党は、右翼支持有権者の票を巡って、ナチ党と争った。フーゲンベルクはラインホルト・クアッツとパウル・バングに、新しい党綱領の起草を依頼し、彼らはナチ党の票を奪うため、スタイルや口調をナチ党に近づけ、フーゲンベルクは、ドイツ民族の「指導者 (フューラー)」とされ、社会主義は国家、経済、国民生活のあらゆるつながりを破壊するものとして表現された。しかしこの社会主義はドイツ社会民主党やドイツ共産党を指すものではなく、ヴァイマル共和政の民主的秩序を指していた。また、元来の反動的傾向も影を薄め、ビスマルク憲法を復活させるのではなく、独裁政治を展開させるべきとされた[31]。しかし、フーゲンベルクらの「改革」は実らず、選挙で国家人民党は5.9%という党史上最悪の結果に終わった。
フーゲンベルクは「4人委員会」を設立し、ゲーア(Gäa)のメンバーとして、ルール地方の実業家団体に影響力を持った。当時はフーゲンベルクが大企業の利益のために、ナチ党に資金援助をしていると非難されていたが、実際は証拠はなく、両党は1932年の国会選挙で激しく争ったため、フーゲンベルクの目的は、国家人民党の選挙運動資金を補うことであることがわかった[32]。一方、大企業は国家人民党からフーゲンベルクを追い出し、党を再び中産階級との協力を模索する穏健保守政党に戻すことを計画したが、ヴェルナー・フォン・アルヴェンスレーベンらのフーゲンベルク孤立化政策は失敗に終わった。
1933年1月にはヒトラーやフランツ・フォン・パーペンとともにシュライヒャー内閣倒閣に動いた。パーペンとの交渉でフーゲンベルクはヒトラー内閣に経済・農業・食料相として入閣することが決まった。ナチ党からの閣僚はヒトラーを含めてわずか3人であり、他の閣僚はすべてパーペン派の貴族、および国家人民党や鉄兜団などの保守派だったので、フーゲンベルクはヒトラーを傀儡首相にする自信があったらしく、「我々の手でヒトラーを枠にはめてやる」と述べている[33]。
ナチス時代
経済・農業・食料大臣就任

パーペンと鉄兜団(シュタール・ヘルム)の指導者ゼルテの名もある
1933年1月30日に成立したヒトラー内閣にフーゲンベルクは経済・農業大臣として入閣した[24]。ヒトラーはナチ党が単独過半数を得るべく総選挙をしたがっていたが、フーゲンベルクは政権内でのナチ党の影響力拡大と自党の影響力低下を嫌がって総選挙に反対した。大統領官邸での任命式の前にフーゲンベルクは総選挙に反対する意思を伝えてヒトラーと揉めたが、オットー・マイスナーのヒンデンブルク大統領を待たせるのはまずいとの発言で、その場での対立は一時お預けとなった[34]。しかしフーゲンベルクは「私は昨日、人生で最大の愚行を犯した。世界史上最大のの扇動者と手を組んだのだ」と述べたとされる[35]。
ナチ党は第一党だったとはいえ、連立与党の国家人民党と足しても国会で過半数を得られているわけではなかった。したがってこれ以前の三代の大統領内閣と同様に国会から内閣不信任案を突き付けられる危険性があった。その対策は今まで通り国会無視の大統領緊急令による政治を行うか、総選挙で与党過半数を狙うか、中央党を与党に引き込むか、共産党議員の資格を停止するか(共産党議席を停止すればナチ党と国家人民党で過半数になる)のいずれかであった[36]。
ヒンデンブルクが中央党取り込みを希望したので内閣はまず中央党と連立交渉が行ったが、ヒトラーは保守派閣僚による囲い込み状態突破のためにも総選挙に打って出たがっており、一方フーゲンベルクもカトリック嫌いから中央党を与党に入れることに反対していた。このような状況のため内閣と中央党の連立交渉は申し訳程度のものとなり、2月1日に決裂した。ヒトラーは改めて総選挙を希望したが、フーゲンベルクは相変わらず総選挙を嫌がり、共産党を禁止してその議席を剥奪することでナチ党と国家人民党で過半数を得るべきと主張した。しかし結局ヒトラーが押し切って総選挙が行われることになった[36]。
国家人民党は鉄兜団とともに選挙連合「黒白赤」を結成して選挙に臨んだ。3月5日の投開票の結果、ナチ党は44%の得票を得る一方、「黒白赤」は8%の得票しか得られなかった。この段階ではナチ党と国家人民党を合わせて過半数に達するという状況だったが、3月9日に共産党の議席が再選挙を行わず抹消されたので総議席数が減ってナチ党が単独過半数を得た[37]。これにより国家人民党もキャスティング・ボートを握る立場を失って急速に政権内での影響力を弱めた[38]。3月23日に全権委任法(正式名称「国民と国家の危機を除去するための法律」)が可決されると、ナチ党にとって国家人民党はもはや用済みの連立パートナーに過ぎなくなっていった[39]。また農業・食料大臣の地位も、ナチ党の農政政策全国指導者リヒャルト・ヴァルター・ダレに狙われており、フーゲンベルクはダレから妨害工作を受けた。
フーゲンベルクは、1933年2月に「脂肪計画」なる計画を発表した。この計画では動物性脂肪を生産する農家に、マーガリン税を課し、失業者向けの「脂肪割引券」の発行など、マーガリンではなく、バター消費を促進することが計画された。しかし、ダレはフーゲンベルクの計画に不満を示し、特に農業・食料省次官のハンスヨアヒム・フォン・ローア(国家人民党員)を激しく非難した。フーゲンベルクは非難に反論するため、ローアにラジオ講演をさせようとしたところ、ヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省はこれを拒否している。ヒトラーはドイツの農民層の間に強い動揺が生じるとして、ローアを次官から解任し、ナチ党の農業専門家と交代させることで対立を和らげることを提案したが、フーゲンベルクは拒否した[40]。
フーゲンベルクは農民の購買力を高めることで、国内需要が刺激され、ドイツが経済危機から脱却できると期待していた[41]。そのため彼は農業政策に全力を注ぎ、農産物の輸入関税を2倍に引き上げ、多額の負債を抱える農業経営者を保護の対象とし、大幅な債務免除を行った。しかしフーゲンベルクの施策はほとんど支持されず、閣内の保守派からも距離をとられるようになった[42]。
経済相辞職後

1933年6月12日にロンドンで開催された世界経済会議の席でフーゲンベルクは旧ドイツ領アフリカ植民地の回復と、東ヨーロッパに新たな植民地を建設することを求める不用意な覚書を提出して各国の不興を買った[43]。イギリスとフランスのマスコミはこれをドイツの帝国主義の復活の証拠と解釈し、ソ連は公式に抗議した。外相コンスタンティン・フォン・ノイラートはこの覚書をドイツ代表団が承認していない、個人的な意見であると釈明し、フーゲンベルクを非難した。元々ノイラートは会議でドイツの国際デビューを期待していたため、ドイツの主権第一と考えるフーゲンベルクには不満があった。一方フーゲンベルクは憤慨してドイツに戻り、大統領ヒンデンブルクの支持を得るため国家人民党前党首であるオスカー・ヘルクトをノイデックに派遣した[44]。しかしヒンデンブルクの支持は得られず、ナチ党からの圧力で6月27日には経済・農業大臣を辞職した。後任こ食糧・農業相にはライバルであるダレが就任し、経済相にはクルト・シュミットが就任した[45]。その翌日には、ドイツ国民戦線に改称した国家人民党にも圧力がかかり、エドゥアルト・シュタットラーやマルティン・シュパーンなどの有力議員はナチ党に移籍し、6月28日に党は解党へ追い込まれた[24]。なお、党解党前にフーゲンベルクはヒトラーと「友好協定」 を締結し、党解党後もナチ党とイデオロギーを共有する国家人民党員が迫害を受けないようヒトラーに約束させた。ヒトラーは約束を守り、多くの党員はナチ党に移籍し、フーゲンベルクは無所属議員となり、1934年6月30日に起きた「長いナイフの夜」の際には粛清を免れた[46]。
フーゲンベルクは1945年まで「ナチ党のゲスト」として国会議員を務めた。1941年9月3日にヒトラーの長年の後援者で国会議員のヒューゴ・ブルックマンが死去した後、彼は議会内最年長議員になった。彼は1934年以降政治的影響力を持つことはなかったが、彼の所有する報道機関は重要な役割を果たした。しかし、フーゲンベルク・コンツェルン傘下のメディアも次々と強制的に売却されてナチスの支配下に入り、最後まで所有し続けていたメディア企業も、1943年にライン・ヴェストファーレン工場の株と引き換えに売却している[24]。1943年3月3日、フーゲンベルクはドイツ国鷲記章を授与されている。
戦後の経歴
戦後イギリス軍に拘束された[2]。1948年に「軽度の関与者」に分類されたが、1949年に「同調者」に分類され非ナチ化法廷にかけられたが、裁判所はフーゲンベルクの高齢を考慮し、今後フーゲンベルクが政治活動を行うことはないとの仮定に基づき[47]、1950年に無罪とした[24]。
フーゲンベルクは戦後も膨大な財産を保持することができ[24]、キューケンブルッフ [48]にある農場で暮らしたが、1951年3月12日に死去[2][24]。
2005年3月17日、連邦行政裁判所は、フーゲンベルクがナチス政権の先駆者としての役割を果たしたと認定し、1945年に在独ソ連軍政府によって没収されたザクセン州にある騎士領に関する裁判で、連邦行政裁判所はフーゲンベルクの子孫に対する補償を却下した[49][50]。
評価
1930年から1931年にかけて、『ディ・ヴェルトビューネ誌』や『ダス・ターゲブフ誌』を中心とした左派系知識人界では、ヒトラーはフーゲンベルクの傀儡であり、フーゲンベルクこそがファシズム運動の真の指導者であると見なされていた。カール・フォン・オッシエツキーは、フーゲンベルクの巨大な権力が後ろ盾になっていなければ、ヒトラーはほんの一部の成功も達成できなかっただろうと指摘した。
しかし、今日ではむしろフーゲンベルクはヒトラーの「踏み台」とみなされている[51]。しかし、アンネリーゼ・ティムメはこの評価に異議を唱え、ナチ党の権力掌握の日にフーゲンベルクがヒトラーに反抗的だったことや、すぐに閣僚を辞任したことなどを指摘している。しかし、ヘニング・ケーラーは、フーゲンベルクがヤング案反対闘争をナチ党と形成する前から、ナチ党はすでに選挙で勝利を収めており、フーゲンベルクが彼らを大衆政党化したわけではないため、ティムメの指摘は不適切であると指摘している[52]。
歴史家のヴァレスカ・ディートリッヒは、経済界の指導者グループが初めて多額の資金を投じて報道機関を買収し、計画的に世論に影響を与えたことをフーゲンベルクの「功績」と評価している[53]。カール・ディートリッヒ・ブラッハーはフーゲンベルクを「頑固な汎ドイツ主義者であり、偏狭な反動主義者」と評しており[54]、ヨアヒム・フェストはフーゲンベルクの性格は野心的で、偏狭で、冷酷的であると評した[55]。
受章歴
- ドイツ国鷲記章(1943年)