ヴァルター・フンク

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ナチス時代

ドイツ帝国東プロイセンのトラケーネン(現在のロシアカリーニングラード州ヤースナヤ・ポリャーナ英語版)に実業家の子として生まれる。彼の叔父はピアニストのアルフレート・ライゼナウアードイツ語版である[1]

1908年ベルリン大学ライプツィヒ大学で法律、経済、哲学を学び、1912年に法学の博士号を取得し卒業した。その後はジャーナリストして研修を受け、第一次世界大戦勃発後の1915年に徴兵されたが、膀胱の病気のため、翌年には除隊させられた。1916年に保守系経済紙「ベルリン株式新聞」(Berlin Börsenzeitung)に入社した。ビジネス部門の編集局長となった。数多くの専門誌に記事を掲載し、経済問題の専門家として、国際会議や経済会議で講演も行なった。

1919年に企業家の娘ルイーズと結婚した。なおフンクは同性愛者であったという[2]

1920年に発表された論文で、フンクは金融界で初めて注目を集め、通貨改革に関する小冊子を出版した。フンクは1923年ドイツ産業連盟ドイツ語版の招待を受け、財務大臣ハンス・ルタードイツ帝国銀行(ライヒスバンク)ヒャルマル・シャハトの前で自身の研究を発表したが、同年発生したハイパーインフレーションの際は、議会制民主主義による失敗を非難し、独裁体制の移行を訴えた。フンクは民主主義からを距離を置いたが、ヴァイマル共和政に反対する運動に参加したわけではなかった。しかし、1924年ドーズ案1929年ヤング案には反対し、保守的な右派運動に近づくようになった[3]

1927年、フンクはベルリン証券取引所理事会およびベルリン商工会議所の「報道問題専門家委員会」の委員長に就任。1928年から1930年まで「ドイツ経済社会政策協会」の常務理事を務めた。

1930年頃、フンクは急進右派政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党) と接触し始め、1931年春に党首アドルフ・ヒトラーと知り合い、彼の人柄に深く感銘を受けたという。1931年にナチ党に入党し、シャハトの推薦によりヒトラーの経済顧問となった。資本家や大企業にも顔が利き、ナチ党と大企業の橋渡し役を務めた[4]。同年5月からはナチ党通信経済政策サービスの編集者を務めた。1932年7月のドイツ国会選挙で国会議員に当選したが、1933年3月の帝国議会選挙ドイツ語版には立候補しなかった[5]1932年、フンクはナチ党の全国指導部における経済評議会副議長に就任し、1933年までナチ党政治中央委員会経済政策委員会委員長を務めた。ファシズム研究協会ドイツ語版の会員でもあるフンクは、大企業家のナチズムに対する懸念を払拭することに努め、経済界との交流を深めた。グレゴール・シュトラッサーヘルマン・ゲーリングと同様に、フンクも大企業から献金を受けていたが、その大部分は党に回すことなく、私的に回した[6]。ナチズムの社会主義的な要素に不信感を抱く実業家に対しては、あくまで選挙運動に必要なプロパガンダ要素であると弁明した[7]。しかし1932年にゴットフリート・フェーダーとともに作成した党経済綱領には社会主義的要素が見られた。高所得者への増税、投資と価格統制の代わりに減税と金利引き下げを掲げていたが、民間私企業の自由権は保障された。

1933年1月30日にヒトラーが 首相となると、政府首席報道官に任じられた。更に同年3月2日付けで国民啓蒙・宣伝省次官に任じられた。大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの支持もあり、省内の第4部門(報道)および第1部門(行政)を担当した。フンクは報道の統一化を担当したが、その役割は限定的であり、実際の職務は老齢のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の報告官であった。ヒンデンブルクはフンクの市民的印象の強いを信頼を置いていたが、8月にヒンデンブルクが死去すると、フンクは事実上解任された。また、ヒトラーは経済政策に関する助言もフンクから後任のオットー・ディートリッヒに求めるようになり[8]11月15日帝国文化院副院長に任じられた。なおこの時期にフンクが同性愛者である噂が流れたが、ゲッベルスもヒトラーも噂を信じず、ヒトラーはフンクに対する調査や告発を禁止した。

経済大臣就任

1937年11月に既存の鉄鋼資本と結託して四カ年計画全権責任者ヘルマン・ゲーリングと対立を深めていた経済相ドイツ語版ヒャルマル・シャハトが辞任する事となり、その後、ゲーリングが経済相となったが、1938年2月にはフンクが経済相(Reichswirtschaftsminister)となった[9][10]。フンクの従順ぶりがヒトラーに評価されのだが、大臣としての立場は不安定であり、実際にはゲーリングの指示を受けていた。1939年1月にはライヒスバンク総裁に就任[4][10]1939年8月には国防閣僚会議の委員に任じられた[10]1943年9月にはアルベルト・シュペーア軍需相の中央計画会議の委員となる[4][10]。しかし、戦時経済の責任の大半はシュペーアにあり、フンクにはほとんど実権がなかった[4]

ゲーリングとフンクに対する経済界の贈答品は、極めて高価なものばかりであり、オットー・クリスティアン・フィッシャードイツ語版の主導により、帝国銀行はフンクに30万ライヒスマルク相当の土地を贈った[11]

フンクはナチ党体制の最高幹部層にいながら反ユダヤ主義には必ずしも賛同していなかったが、特に異議も同情もなず[12] 、1938年11月の「水晶の夜」については「ドイツ国民に対するユダヤ人の犯罪的な攻撃に対する国民の怒りが暴力的に表れた」として正当化した。また、経済大臣としてフンクは「アーリア化」を推進し、ユダヤ人の財産の没収と経済活動の禁止を実行した[13]

1939年8月25日ポーランド侵攻前に、フンクはヒトラーに手紙を送り、個人的な忠誠心に加えて、差し迫った戦争に直面したドイツ経済と金融システムの安定性を保証した[14]

第二次世界大戦が勃発し、1940年ドイツによるフランス占領後、フンクはゲーリングから、ドイツの覇権下にある将来のヨーロッパ経済を設計するよう依頼を受けた。戦争経済による規制を嫌っていたフンクは、1920年代の自由主義経済体制とナチス型の指令経済を融合させたものを構想し、ヴァルター・オイケンフランツ・ベームレオンハルト・ミクシュドイツ語版などの理論家たちの考えを参考にした[15]。同年7月25日、ヨーロッパの経済再編に関する構想であるフンク計画を発表。経済省次官グスタフ・シュロッテラードイツ語版とともに、ドイツ主導のヨーロッパ経済圏の原則を策定[16]

1940年8月9日、フンクはユダヤ人が銀行やその他の機関に預けていた資産を凍結し、アクセスを拒否した。また1942年には親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーと秘密協定を結び、絶滅収容所で殺害されたユダヤ人の(金歯も含む)貴重品をライヒスバンクに引き渡すことに合意した。ライヒスバンクはその一部を親衛隊の特別口座「マックス・ハイリガー」に計上した[17]

1943年2月4日、フンクは戦時体制下の経済統制を行い、戦争に重要でない工芸、商業、飲食業のすべての事業を閉鎖させた。同年9月にはシュペーアが率いる軍需省中央計画委員となった。しかしこれ以降、影響力を失いアルコール依存症に陥った。

戦後

ドイツの敗戦英語版後、ニュルンベルク裁判にかけられた。起訴第一事項「共同謀議」、起訴第二事項「平和に対する罪」、起訴第三事項「戦争犯罪」、起訴第四事項「人道に対する罪」と全ての起訴事項で起訴された。フンクは、自分がゲーリングの立てた四カ年計画を実施したに過ぎない事を主張した。しかし、シュペーアに次ぐ戦時経済計画の責任者と見なされ、起訴第二事項「平和に対する罪」で有罪となった。また、ライヒスバンク総裁として、虐殺したユダヤ人の貴金属や通貨を絶滅収容所から自分の銀行口座へ運ばせていたとされ、起訴第三事項「戦争犯罪」と起訴第四事項「人道に対する罪」でも有罪となった。第一起訴事項「共同謀議」については、無罪となった。量刑は終身禁錮刑だった[4]シュパンダウ刑務所へ送られたが、1957年5月16日に健康上の理由から釈放された。

1960年5月31日デュッセルドルフで死去した[4]

人物

参考文献

出典

外部リンク

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