アレクサンドル・ザバロフ
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| 名前 | ||||||
| カタカナ | アレクサンドル・ザバロフ | |||||
| ラテン文字 | Oleksandr Zavarov | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1961年4月26日(64歳) | |||||
| 出身地 | ルハーンシク | |||||
| 身長 | 170cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| ユース | ||||||
| 1968–1977 |
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1977–1979 |
| 23 | (7) | |||
| 1980–1981 |
| 64 | (13) | |||
| 1982–1983 |
| 30 | (10) | |||
| 1983–1988 |
| 136 | (36) | |||
| 1988–1990 |
| 60 | (7) | |||
| 1990–1995 |
| 133 | (23) | |||
| 1995–1998 |
| ? | (17) | |||
| 1977-1998 | 通算 | 446 | (113) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 1985–1990 |
| 41 | (6) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 1995–2003 |
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| 2003–2004 |
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| 2004 |
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| 2005 |
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| 2006–2010 |
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| 2012 |
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| 2013–2016 |
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| 2018–2021 |
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| 2025– |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
アレクサンドル・ザバロフ(Oleksandr Zavarov, 1961年4月26日 - )は、ウクライナ・ルハーンシク出身の元サッカー選手でサッカー指導者。現役時代のポジションは攻撃的MF[1]。(ウクライナ語表記: Олександр Анатолійович Заваров:オレクサンドル・アナトリーヨヴィチ・ザバロフ)
1986年にはソ連およびウクライナ最優秀選手に選出され、フランス・フットボール誌による欧州最優秀選手ランキングで6位に選ばれた。1988年、ミシェル・プラティニの後任としてユヴェントスが白羽の矢を立て、ソビエト連邦のサッカー選手として初めて西ヨーロッパのビッグクラブに移籍した選手である[2]。
ザバロフはソ連およびウクライナ史上最高の選手の一人と広く認められており、2000年には週刊誌「ウクラインスキー・フートボル」の投票により「ウクライナ世紀のチーム」に選出されている。
選手経歴
ゾリャ・ルハーンシク(1977-1979)
ザバロフは1979年4月27日、ソビエト王者FCディナモ・トビリシとのアウェー戦でプロデビューを果たした。前半終了後にイゴール・ガムラと交代でピッチに立った(0-3でゾリャは敗戦)。
初得点は、1979年5月9日の「戦勝記念日」に行われたSKAロストフ・ナ・ドヌとのアウェー戦(2-2の引き分け)で記録された。ザバロフの2得点によりルハーンシクはドローに持ち込んだ。ゾリャのトップチームでの初シーズン、23試合出場、7得点を挙げた。しかしチームはそのシーズン最下位から2番目の順位で降格した。
1979年夏、ソ連諸民族スパルタキアード終了後、ヴァレリー・ロバノフスキーが初めてディナモ・キーウへの移籍を打診したが、ザバロフは「母と相談する必要がある」としてこれを拒否した[3]。
1979年、ザバロフはヴォロシロフグラード教育大学に在籍していたにもかかわらずソ連軍入隊処理事務所から徴兵通知を受け取った[3]。陸軍か内務省(MVD)のいずれかで兵役につく選択肢があったが、1972年の優勝メンバーである年上のチームメイトたちはディナモ(内務省傘下)への入隊を勧めなかった。当時ディナモでプレーしていたオレグ・ブロヒンやヴォロディミル・オニシェンコ(英語版)を凌ぐのは難しいと告げられたのである[3]。
SKAロストフ・ナ・ドヌ(1980-1981)
結局ザバロフはSKAロストフ・ナ・ドヌ(武装部隊社会傘下)へ入団したが、この選択が正しかったか否かについて今も複雑な思いを抱いている[3]。特にザバロフが嫌悪したのは、2シーズン後の除隊時にSKA残留を強要され、軍曹への昇進や中央軍クラブであるPFC CSKAモスクワへの移籍の可能性を提示されたこと、そして拒否した際に10日間の「ガウプトヴァフタ」(軍事刑務所の一種)に収容されたことである[3]。偶然にも当時、SKAの監督を務めていたのはゲルマン・ゾニン(英語版)であり、彼は1972年にゾリャをソ連チャンピオンに導いた人物である。ザバロフをフォワードからミッドフィルダーに転向させたのも彼だった。
1981年、別の監督の下でSKAはソ連カップを制した。決勝のスパルタク・モスクワ戦では、ザバロフのアシストからセルゲイ・アンドレーエフ(英語版)(同郷出身)が決勝点を挙げた。カップ決勝から2週間後、リーグ戦でのスパルタク戦でザバロフはキャリア初のハットトリックを達成したが、ホームで戦ったSKAはスパルタク・モスクワに3-4で敗れた。SKAでは親友イゴール・ガムラ(英語版)ともプレーし、一部報道によればソビエト産アブラウ・ドゥルソ(英語版、ロシアワイン)を飲み過ぎたとも噂されたが、後のインタビューでザバロフは「ソビエトカップ優勝の純粋な祝賀だった」と主張している[3]。
1981年9月16日、ザバロフは欧州クラブ大会にも初出場を果たした。SKAがトルコのMKEアンカラギュチュをホームに迎えた1981-82シーズン欧州UEFAカップウィナーズカップ1回戦でのことである。SKAは3-0で勝利し、ザバロフは2得点を挙げた。次のラウンドではドイツのアイントラハト・フランクフルトと対戦し、再びホームで第1戦を戦った。このホーム戦勝利も、ザバロフの貢献なくして成し得なかった。
2年間の兵役追加問題
1981年10月、ザバロフはソ連U-21代表として予選グループ戦で数試合に出場した。その翌月、所属クラブとの間で問題が生じた。SKAロストフ・ナ・ドヌの指導部はザバロフを「無断欠勤」で告発し、懲戒大隊での2年間の追加服役を強いた[3][4]。軍事拘留中にザバロフは除隊を決意していた[3][4]。妻は事態を知ると、ドミトリー・ウスティノフ国防相に抗議文を送った[4]。9日目、ザバロフはついに折れ、軍に残留する合意書に署名した[4]。しかし解放されると、彼は即時除隊を要求した。国防省から派遣された委員会は、彼が離脱すれば競技参加を禁止すると通告した[4]。ザバロフは「構わない」と返答し、無期限の資格停止処分を受けた[4]。その後約6か月間、ルハーンシクのルハンシクテプロヴォーズ(十月革命工場)で鉄道車輪製造に従事していたが、社会主義労働英雄を2度受賞しているである鍛冶職人クリロがサッカー連盟に訴え出た結果、資格停止処分は解除された[4]。
ゾリャ・ルハーンシク(1982-1983)
資格剥奪処分後に復帰したザバロフは、ペルヴァヤ・リーガ(2部)に所属するFCゾリャ・ルハーンシクに加入した。資格剥奪後の初出場は1982年5月11日、アウェーでのコロス・ニコポル戦(0-2で敗戦)であった。
ディナモ・キーウ(1983-1988):欧州カップ制覇
1983年から1988年にかけて、彼はソビエト・ウクライナの強豪ディナモ・キーウでプレーし、1985-86シーズンにはUEFAカップウィナーズカップを制覇。決勝戦では自ら得点を挙げた。ディナモ在籍中、ザバロフには警察官の階級が授与される提案があったが、彼はこれを拒否した[3]。
ユヴェントス(1988-1990):ソ連初のセリエAプレーヤー
UEFAカップウィナーズカップ優勝により注目を集め、1988年にセリエAの名門ユヴェントスFCに移籍。ソ連のサッカー選手として初めてセリエAでプレーした選手となった。
ユヴェントスは彼の移籍にソ連サッカー史上最高額となる500万ドルを支払った。これは1980年代で最も高額な移籍の一つであった。移籍はソ連仲介機関「ソヴィンタースポルト」を通じて行われ、移籍金300万ドルはソ連政府に、200万ドルはディナモ・キーウに支払われた。ソ連政府はうち200万ドルを1988年ソウルオリンピックに向けたソ連オリンピック代表チームに充てた[4]。
ザバロフはプラティニが着けていた背番号10を背負ったが[5]、デビュー戦でいきなりオウンゴールを記録し更に負傷。その後もイタリアサッカーに適応できず、真価を発揮出来ないままベンチスタートになる試合もあった[6] 。
翌シーズン、ザバロフは背番号を9番に変更(10番はジャンカルロ・マロッキに引き継がれた[7])。1990年にはコッパ・イタリアとUEFAカップを制覇する。2年目は同胞セルゲイ・アレイニコフが加入したにもかかわらず、ザバロフはクラブの監督ディノ・ゾフとの緊張した関係や、イタリア語習得の困難さからクラブに馴染むのに苦労し、ユヴェントスでのキャリアは成功とは言えなかった[8]。
フランス・リーグアン時代(1990-1998)
1990年にASナンシーへ移籍し、5シーズン在籍した後、1995年にサン=ディジエへ移籍。3シーズンプレーした1998年に現役を引退した。
ソビエト連邦代表として
1979年夏、ザバロフはU-21ソビエト連邦代表として1979年、日本で開催されたFIFAワールドユース選手権(現・FIFA U-20ワールドカップ)に出場。決勝でディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチンに敗れ準優勝だった。グループステージのハンガリー戦において、ザバロフはコーナーキックからのヘディングで唯一の得点を挙げている。決勝のアルゼンチン戦はザバロフがベンチ入りできなかった2試合のうちの1つである。
ザバロフはソ連代表として41試合に出場し、6得点を記録。うち2得点は1986年のメキシコワールドカップ、1990年のイタリアワールドカップ本大会で挙げたものである。また1988年UEFA欧州選手権にも出場し、ソ連代表は準優勝を果たしている[9][10]。
プレースタイル
創造性豊かで機敏かつ技術に優れたミッドフィルダー[11][12]であるザバロフは、卓越した技術力、左右両利き、スタミナ、戦術的知性で知られ、主に攻撃的ミッドフィルダーまたはシャドーストライカーとして起用された。一方、万能性、視野の広さ、ロングパスの正確さから、深い位置でのプレイメーカーとしてもプレー可能であった[13][14][15]。ザバロフはヴァレリー・ロバノフスキー監督率いるディナモ・キーウの成功に重要な役割を果たし、そのドリブル技術とプレーメイキング能力から、同監督は彼をディエゴ・マラドーナに例えた[13][14]。
ディナモ・キーウとソビエト連邦代表(1988年UEFA欧州選手権)で示した才能と成功により、ソビエト連邦出身では史上最高の選手の一人との評価を得た[12]にもかかわらず、イタリアのユヴェントスでのキャリアは成功せず、セリエAでの当初の大きな期待に応えることはできなかった[11][16][17]。不安定なプレーと決定力不足[17][18]が原因で、マスコミから批判を浴びた。特に彼の驚くほど低い運動量とボールのない状態での動きが指摘された[15]。また自信不足[17]や、チームへの効果的なアシストができない点も非難された[19]。シャイな性格ゆえチームを牽引するリーダーシップ能力が不足しているとも指摘された[17]。トラパットーニ監督退任後の混乱期において、ミシェル・プラティニが築いた攻撃的ミッドフィルダーのプレーメイカー役を担う存在感に欠いていた。