アンリ菅野
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| アンリ菅野 | |
|---|---|
| 出生名 | 梅山 静子(うめやま しずこ) |
| 別名 |
アンリ大野 (※ソロデビュー前)[1][2] |
| 生誕 | 1949年[3][注 1][注 2] |
| 出身地 |
出生地: |
| 死没 |
2000年6月30日(51歳没) 川崎市立井田病院[13] |
| 学歴 | 武蔵野美術短期大学[14][注 4]美術科油絵専攻[5] |
| ジャンル | ジャズ |
| 職業 | ヴォーカリスト |
| 活動期間 | 1978年[注 5] - 2000年 |
| レーベル |
東芝EMI → 日本フォノグラム(1985年) → 独立(1990年)[注 6] |
| 著名な家族 |
父:梅山 勤 (ジャズヴォーカリスト)[注 7] |
アンリ菅野(アンリ・すがの、本名:梅山 静子(うめやま しずこ[16])、1949年〈昭和24年〉[3]※自著で記載[注 1][注 2] - 2000年〈平成12年〉6月30日[13])は、日本のジャズ・ヴォーカリストである。
日本のジャズ・ヴォーカルの草分け的グループのリーダーである父・梅山 勤(うめやま つとむ[17])[注 7]とピアニストであった母・萌子[注 8]の長女として、東京都練馬区に生まれる[12][注 3]。音楽家の家庭に育ち、5歳からピアノとバレエのレッスンを受ける[23][24]。また、豊島区立池袋第三小学校、豊島区立道和中学校(現・豊島区立西池袋中学校)に通う[11]。14歳のころ[注 9]から絵画に熱中し[23][注 10]、女子高校[25][注 11]を経て武蔵野美術短期大学[14][注 4]に進学して美術科油絵専攻[5]に学ぶ(卒業制作は優秀作品に列する[5])。短大ではモダン・ジャズ研究会のメンバーとしてジャズ喫茶巡りをする[27]。また当時、東京芸術大学の芸術祭でステージに飛び込みで参加してジャズ歌手志望に目覚める[29][注 12]。1969年3月に短大を卒業した後、本格的に歌の仕事を始め[30][注 13]、そのころ来日したサミー・デイヴィスJr.の公演を聴いたのをきっかけにジャズの本場ニューヨークでの勉強を志し[14]、両親の猛反対にもかかわらず、2年かけて資金を貯めて[33]1972年秋に[30]単身アメリカ合衆国に渡り、3年間滞在[14][注 14]。英語学校(英: American language & Culture Institute[23][30][34])に学びながら(※英語学校は入学後7か月ほどで自主退学状態[33][注 15])、モダン・バレエをマーサ・グラハムに、ジャズダンスをルイジに師事する[23][30]。帰国後、ヴォーカリストを探していたロック・グループに参加して[36]「アンリ&モーゼス」のリード・ヴォーカル(当時の活動名はアンリ大野[1][2])として活動[注 16]したのち、ソロ・ジャズ歌手として1978年11月にデビューする[14][23]。1990年3月、株式会社イシスを設立して独立[14][39]。
1978年に東芝EMIから発売したアルバム『Anli:いち』(アンリいち)でデビューして以降、ジャズのレコードを数多く発売するとともに、精力的にコンサート活動を行う(1979年6月11日に初コンサート〈東京・新宿厚生年金会館小ホール〉[40])。中本マリ、阿川泰子らとともに美女ヴォーカリストとしても人気を集める[14]。1987年にモントリオール・ジャズ・フェスティバルに初の日本人歌手として出演[39]。1995年から1998年にかけてブルーノートに4回出演し[14][39]、1999年には日本人初の5年連続出演を果たす[39]。渡米の際にニューヨークのシンガーのカーラ・ホワイトの指導も受けている[13]。テレビにも登場し、辰馬本家酒造の清酒「白鹿 街」のイメージキャラクター[41]のほか、NHK「ザッツミュージック」では司会(1987年4月 - 1989年3月)を本多俊夫(※本多俊之の父)とともに務める[42]など、広く知られた。趣味の陶芸は個展を開くくらいに本格的であった[16][注 17]。
1997年、第13回ツムラ・ジャズ・ヴォーカル賞(大賞)を受賞。
1998年7月[43]、末期に近いステージIV[44]の膣がん[4][45]にかかったことが分かり、その治療のためにしばらく休演・休業する。1999年2月いったん完治して[46]、同年6月に復帰コンサート(東京・青山スパイラルホール[13])に出演[16]。同月、闘病記『女ひとり がんと闘う』を出版。その後、再発したがんのために2000年6月30日に死去[13][注 18]。51歳没[13]。かつて、65歳まで第一線で活躍することが夢と語っていた[25]。
生前のアンリ菅野に師事していた歌手のいとう翔は、命日月の6月ごろに「アンリ菅野メモリアル」ライブを開くことを続けている[47][48]。
リリースアルバム
- 「Anli: いち(アンリいち)」(1978年11月、東芝EMI、ETP-80046[49])
- 「Shining Wave(シャイニング・ウェーヴ)」(1979年4月、東芝EMI、ETJ-85005[50])
- 「Just Groovin'(ジャスト・グルーヴィン)」(1980年4月、東芝EMI、EWS-81314[51])
- 「Showcase(ショウケース)」(1981年5月、東芝EMI、EWJ-90004[52])
- 「Love Sketch(ラヴ・スケッチ)」(1982年4月、東芝EMI、ICJ-90010[53])
- 「Sweet Memory(スイート・メモリー)」(1983年5月、東芝EMI、EWJ-90018[54])
- 「Sunshine Dream(サンシャイン・ドリーム)」(1986年9月、日本フォノグラム、28PL-126[55])
- 「My Funny Valentine(マイ・ファニー・バレンタイン)」(1987年2月、日本フォノグラム、28PL-134[56])
- 「In Manhattan(イン・マンハッタン)」(with ルビー・ブラフ、1987年11月、日本フォノグラム、28PL-136[57])
- 「Renewal(リニューアル)」(1993年6月、SONY、SRCL-2669[58])
- 「
木漏日 ()」(1998年5月、日本クラウン、CRCJ-9147[59]) - 「The light's rings of mind(ザ・ライツ・リングス・オブ・マインド)」(※日本語アルバム名「心の光輪」、1999年6月、イシス〈※自主制作[注 6]〉、ANLL-1001)
(参考)