ニコライ・エジョフ

ソビエト連邦の政治家 From Wikipedia, the free encyclopedia

ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフロシア語: Никола́й Ива́нович Ежо́в; IPA: [nʲɪkɐˈɫaj ɪˈvanəvʲɪt͡ɕ (j)ɪˈʐof], ニカラーイ・イヴァーナヴィチ・エジョーフ1895年5月1日 - 1940年2月4日)は、ソ連政治家ヨシフ・スターリンによる指導のもと、内務人民委員部(NKVD)長官として、1936年から1938年にかけて実行された大規模な抑圧である大粛清(大テロル)を指揮した。1937年は大粛清を象徴する年となり、これは「エジョーフシチナ」(ロシア語: Ежовщина, 「エジョフの時代」)と呼ばれた。1937年から1938年にかけて150万人が逮捕され[5]、68万1692人が処刑された[6]。エジョフはスターリンの命令で前NKVD長官で上司だったゲンリフ・ヤゴーダのほか、多くの古参ボリシェヴィキなど党や軍の幹部を粛清した。

概要 ニコライ・エジョフ, 人民委員会議議長 ...
ニコライ・エジョフ
Николай Ежов
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦内務人民委員[1]
任期
1936年9月26日  1938年11月24日
人民委員会議議長ヴャチェスラーフ・モロトフ
前任者ゲンリフ・ヤゴーダ
後任者ラヴリェンチー・ベリヤ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦水運人民委員
任期
1938年4月8日  1939年4月9日
人民委員会議議長ヴャチェスラーフ・モロトフ
前任者ニコライ・パホモフ
ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会党統制委員会委員長ロシア語版
任期
1935年  1939年
前任者ラーザリ・カガノーヴィチ
後任者アンドレイ・アンドレーエフ
第17回ボリシェヴィキ全連邦共産党大会中央委員会正委員
任期
1934年2月10日  1939年3月10日
第17回ボリシェヴィキ全連邦共産党大会中央委員会政治局委員候補[2]
任期
1937年10月12日  1939年3月10日
ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会組織局委員[3]
任期
1934年2月10日  1939年3月10日
ソ連共産党中央委員会書記
任期
1935年2月1日  1939年3月10日
個人情報
生誕Никола́й Ива́нович Ежо́в
(1895-05-01) 1895年5月1日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死没1940年2月4日(1940-02-04)(44歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ
死因銃殺刑
墓地ドンスコーイ共同墓地
市民権ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
政党ソ連共産党
配偶者アントニーナ・チトヴァ(1921 - 1930)
エヴゲーニヤロシア語版(1930 - 1938)
宗教無神論
受賞
署名
兵役経験
渾名Ежевика[4][a]
所属国ロシア帝国の旗 ロシア帝国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
所属組織ロシア帝国の旗 ロシア帝国陸軍
赤軍
軍歴1915年 - 1917年(ロシア帝国陸軍)
1919年 - 1921年(赤軍)
1936年 - 1938年(赤軍)
最終階級
戦闘第一次世界大戦
ロシア内戦
a. ^ エジェヴィーカ、「黒イチゴ」の意味
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しかし、部下の高官が亡命したことなどをきっかけにスターリンの寵を失い、1939年に後任のNKVD長官ラヴレンチー・ベリヤによって「反ソ連のクーデターとテロリズムを準備し、外国と共謀して諜報活動に従事していた」容疑で告発され、1940年2月にエジョフは銃殺刑に処せられた[7][8]

1998年ロシア連邦最高裁判所はエジョフの名誉回復を否定した[9]

生い立ち

ニコライ・エジョフの生まれは、公式の略歴や質問事項では「サンクトペテルブルクにて鋳物の製造所で働く労働者の家庭に生まれた」と記述されている。しかしのちに行われることになる尋問では、彼は「父親はパブ売春宿を経営していた」と語っている[10][11]。ニコライはプロレタリアートであるかのように見せかけるために出自を偽っていたと尋問で述べており、エジョフによれば、父親のイヴァンは軍楽隊員としてマリアンポレに赴いたことがあり、除隊後は鉄道の転轍手や森林監視員、売春宿の経営者を経て、その後は塗装業を営んでいた[12]。母親から聞いたとことによればスヴァウキ県(現在のリトアニア)のマリヤンポレで生まれ、父親のイヴァン・エジョフはトゥーラ州クラピヴナのヴォルホンシノ村の裕福な農民であったと明かした[13][14]。母親のアンナ・アントノヴナ・エジョワはリトアニア人だった[15]。ただし、彼の自白は強要された可能性もある。

1922年1924年に行われた質問では、彼は「私はポーランド語リトアニア語を使うことができる、自己紹介ができる」と答えた[16][17]。のちに受けることになる尋問の際に「リトアニア語とポーランド語が解ると書いているが、これは母親から教わったのか?」と尋ねられたニコライは、「父も母もリトアニア語が解るが、家ではリトアニア語で会話したことは無かった。私はヴィーツェプスクにてツァーリ軍に所属していたが、そこにはポーランド人やリトアニア人が沢山いた。リトアニア語、ポーランド語、イディッシュ語などの単語や文章についてはいくつか学んだ。しかし会話については無理だ」と語っている[11][14]。また、ニコライは自身の国籍について「ロシア人である」と答えた[11]

2012年までにリトアニア国立歴史公文書館で、1895年4月19日ユリウス暦)にトゥーラ州クラピーヴェンスキー管区クラースネンスキー郷にてニコライ・エジョフが生まれた記録が発見されている[18]。歴史家のアレクセイ・エヴゲーニエヴィチ・パヴリューコフは「彼の父、イヴァン・エジョフはトゥーラ州ヴァルホンシナ村の出身であり、カウナスに駐屯していたドンスコーイ第111歩兵連隊軍楽隊に従軍していた」と書いている。任務を終えたイヴァンはリトアニアに長く滞在したのち、地元のリトアニア人女性と結婚した[19]。除隊後イヴァンはスヴァルスキー州に移住し、ジエムストワ警備隊ロシア語版(ロシア帝国時代の法執行機関)での職を得た。

1895年にニコライが生まれた時、一家はスヴァルスキー州マリヤンポレ郡リトアニア語版のヴェイヴェレ村に住んでいた。3年後、父・イヴァンが昇進し、警備隊員としてマリヤンポレ郡に配属されると、一家はマリヤンポレに移住した。

ニコライはここの小学校に3年間通い、1906年にはサンクトペテルブルクに住む親戚の元に預けられ、仕立て屋の技術を学んだ[20]1921年、ニコライは一度だけ「金属鋳造の家に生まれた」と記述し、それ以降は父親について文書で言及することは無かった[17]。1906年まで、故郷の鍵屋工房で錠前師の見習い、その後は仕立て屋の見習いとして働く。その後、職探しでリトアニアポーランドを放浪したのち、プチロフ工場(現在のキーロフ工場ロシア語版)で働いた、と記述している[21]。公式略歴では1911年以来、プチロフ工場にて錠前師の見習いとして働いた」とされるが、エジョフが実際にプチロフ工場で働いていた証拠は無い[22][23]

1913年、サンクトペテルブルクを離れたエジョフは、両親とともにスヴァルスキー州で過ごしたのち、職探しの一環として国外へ向かい、東プロイセンティルジットに住んだ[20]

軍歴

1915年から1917年までは、ロシア帝国軍に勤務した。1915年6月、エジョフはロシア帝国陸軍に入隊した。第76予備歩兵大隊にて訓練を受けたのち、リーダ第172歩兵連隊ロシア語版に配属され、北西部戦線に派遣された。1915年8月14日、エジョフは病気を患い、軽傷を負ったことで、後方部隊に回された。1916年6月初旬、エジョフは砲兵工房に送られた。彼の身長は「151 cm」と小柄であり、兵役には「不適格」と判断されたためであった[24][25]。ここでのエジョフは警備隊として働いた。1916年末、「兵士の中で最も読み書きができる」と判断されたエジョフは、書記官に任命された[20]第一次世界大戦が勃発すると、エジョフは戦闘には参加せず、1917年3月のロシア革命で帝国軍が崩壊したのち、「自己復員」した。

政治活動

ロシア社会民主労働党入党

エジョフは軍に所属したまま、1917年5月にロシア社会民主労働党に入党した[20]

1920年代初頭にエジョフが書き残した記述によれば、1921年5月5日にロシア社会民主労働党の党員として認められたという。1927年以降になると、エジョフはこの党への入党について、「1917年3月」と日付を変えるようになった。歴史家のアレクセイ・パヴリューコフの指摘では、ヴィーツェプスクでの党委員会の文書によればエジョフが党に加わったのは1917年8月3日である[20]

1917年の秋、エジョフは病気で入院し、1918年1月6日に部隊に復帰するも、半年間の病気休暇を理由に免職となった。トヴェリ州ロシア語版ヴィシュネヴォロツキー管区ロシア語版に移住していた両親のもとへ向かった[20]。1917年9月、エジョフはヴィーツェプスクの鉄道連結の作業場にて錠前屋として働き[24]、1918年8月からは、ヴイシニー・ヴォロチョークのガラス工場で働いた[25]

のちにソ連内務人民委員に就任すると、十月革命におけるエジョフの活動は誇張され、神格化された。「ボリシェヴィキ全連邦共産党史略ロシア語版」の初版では、「1917年10月、ベラルーシの西部戦線にて、大衆の蜂起に向けて、同志エジョフは兵士たちを大量に動員した」と記述された[21]。これは1938年に出版され、編纂の中心的な人物となったのはヨシフ・スターリンであった。エジョフが銃殺された後にこの文言は「共産党史略」から削除された[22]

赤軍、技師

1919年4月、エジョフは赤軍に召集され、サラトフの無線電信編隊の基地(のちの第二カザン基地)に送られた。最初は二等兵として、その後は基地統制人民委員会議の書記として働いた[25]。1919年10月、エジョフは無線の専門家を養成する将校に就任した。

ロシア内戦が始まると、エジョフは基地の委員を務め、ここで無線技師や電気技師の訓練を受けた。1921年4月に基地の人民委員およびタタール地域委員会の扇動宣伝部門の副官[25]、のちにタタール地域委員会の書記長代理に選出された[22]

1921年7月、エジョフはアントニーナ・アレクセーエヴナ・チトヴァと結婚し、その後まもなくモスクワへ向かった。同年9月、アントニーナもモスクワへ転勤となり[25]、化学者労働組合の文化部長として働いた[22]

マリ自治州

1922年2月、共産党中央委員会組織局は、地方委員会書記としてエジョフをマリ自治州に派遣した。この決定には、中央委員会書記のヴャチェスラフ・モロトフが署名した[22]。当時は書記官の仕事を遂行できる初級の読み書き能力を持つ人材が不足しており、エジョフは「知性のある労働者」と判断された[22]

1922年2月10日、共産党中央委員会組織局の決定に基づき[26]、エジョフはマリ地方委員会の書記長として派遣された[27]。しかし、勤務最初の日から、エジョフはマリ自治州の一部の首長と対立した。1922年10月、エジョフは休暇に出かけ、二度とここには戻らなかった[26]

カザフスタン

1923年3月から1924年にかけて、エジョフはセミパラチンスク州党委員会の書記長を務めた。ヴァレリヤン・クイビシェフが、カザフスタンにエジョフを派遣した[28]

1924年から1925年にかけて、ボリシェヴィキ全連邦共産党キルギス地方委員会の組織部長を、1925年から1926年にかけてボリシェヴィキ全連邦共産党カザフスタン地域委員会の書記長代理として、フィリップ・イサーエヴィチ・ゴロシチョキンロシア語版の下で働いた[29]。1925年にカザフスタン党支部の第三位書記長に就任すると、エジョフはカザフ人の共産主義者の「極左的」または「右傾的」に逸脱したとみなした者を容赦無く排斥し、攻撃した[30]。エジョフがタタール人やカザフ人の民族主義者を無力化した手腕はスターリンに評価された[31]

1925年12月に開催された第14回党大会では代表を務めた。この党大会にて、エジョフはイワン・モスクヴィンと会談した[32]。モスクヴィンは党中央委員会の組織・配分委員会会長で、スターリンはこの組織・配分委員会を介して取り巻きを党機関に潜入させていた[31]

1926年2月、エジョフはボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会組織部門の部長に就任し、1927年には講師として招かれた[33][22]

1928年1月、農業集団化の準備のためにシベリアを視察したスターリンに、エジョフは自分はカザフスタンの農業に詳しいと自己紹介し、1929年11月に農業人民委員代理に任命された[31]。エジョフは、農業集団化、グラーグ送り、クラーク(富農)絶滅作戦を実行するために、全権委員を選抜し、地方へ派遣する役割を担った[31]。スターリンは農民への措置を地方当局が容赦無く適用しているかについて疑い深く、全権委員は地方の共産党内の不審者をスターリンに密告することが義務づけられていた[31]

エジョフは1929年まで組織局で働き、農業人民委員部副委員長を一年間務めた。エジョフの元上司が最高経済評議会の副議長に就任すると、エジョフは組織局の局長として復帰した。

1930年には、党中央委員会配給部門の部長に就任した[3][22]

スターリンの側近

1930年11月、エジョフはスターリンと出会い[33]、スターリンの側近になった[34]。スターリンは骨身を惜しまぬ働き者を評価し、側近の劣等感や心理を掌中にすることも得意だったが、エジョフはこの頃すでにアルコール依存症になっていた[34]。エジョフはスターリンの人事政策を推し進め、1934年まで組織部門を担当した。

1933年から1934年にかけて、エジョフはボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会の委員として、党の「浄化」にあたった。1934年1月から2月にかけて開催された第17回党大会において、エジョフは資格証明委員会の委員長を務めた。1934年2月、スターリンはエジョフをボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会組織局委員[3]、党中央委員会委員、ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会付属統制委員会ロシア語版副議長[35]に任命した[24]。統制委員会はスターリンが粛清のために創設した機関であった[35]

1935年2月には、党中央委員会委員長および党中央委員会書記に就任した。1934年3月から1935年3月にかけて、党中央委員会産業部門の部長を、1934年12月から1936年2月にかけては、党中央委員会党指導部を統率した。1934年3月から1936年1月にかけて、党中央委員会の計画・貿易・財務部門、1935年2月から8月にかけては、党中央委員会の政治・行政部門の部長を務めた[36]

1934年12月1日セルゲイ・キーロフレオニード・ニコラーエフロシア語版の手で殺されると、エジョフはスターリンからの指令を受けて、暗殺事件の捜査を指揮した[21]。キーロフの殺害には、「レフ・カーメネフグリゴリー・ジノヴィエフレフ・トロツキーが関与している」と結論付けたが、この告発は虚偽であった。エジョフは、内務人民委員部国家安全保障総局ロシア語版の局長でエジョフの第一副官、ヤーコフ・アグラーノフと共に、前任者のゲンリフ・ヤゴーダとその支持者に対する陰謀を企んだ[37]。ヤゴーダは古参ボリシェヴィキの糾弾をためらっていた[35]。党内抵抗を犯罪とするスターリンの意向を汲み、エジョフは捜査を陣頭指揮し、ボリシェヴィキ老兵の陰謀というでっちあげを補強していった[35]。エジョフはスターリンの意をいちはやく汲み取り、1935年からソ連の恐怖政治パラノイア的錯乱を拡大させた[35]

1937年の第17回ボリシェヴィキ全連邦共産党大会において、エジョフは党中央委員会政治局委員候補に選出された[2]

第一回モスクワ裁判

1936年8月、エジョフは、第一回モスクワ裁判を監督し、休暇もとらず働いた[38]。エジョフは、粛清対象に対して手加減したり、見て見ぬふりをする者をも激しく非難し、監視を怠ることは犯罪とした[38]

またエジョフは、被告を屈服させ、自白に追い込む手段にこだわった[38]。被告は追い詰められると他のものに罪をかぶせることをエジョフは理解しており、一人が転ぶと次々と新たな告発がうまれた[38]

エジョフは逮捕者を尋問する際に、彼らを拷問にかけた[39]。エジョフはヤゴーダとトゥハチェフスキーを自ら拷問し、自白を引き出したとも指摘されている[40]

内務人民委員(NKVD)

1936年9月27日付の強制収容所新聞『ペレコーフカ』(『再鍛錬』)の一面にて、ニコライ・エジョフがゲンリフ・ヤゴーダの後任となった趣旨が発表された。

1936年9月26日ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、エジョフは内務人民委員部(NKVD)委員に任命された[21][41][22]1936年10月1日、エジョフは職務に就くにあたり、NKVDの最初の命令書に署名した。エジョフは国家の治安機関、警察、消防署、幹線道路の管轄にも従事することになった。エジョフは、幹部会議の場で以下のように発言した。「私の小柄な身体に注目している場合ではない。私のこの両手は丈夫にできている。スターリンの手なのだからな」「諸君らに通告する。人民の敵との闘いを妨害する者は、地位や階級に関係なく投獄し、射殺する」[22][24][6]

第二回モスクワ裁判とヤゴーダの粛清

NKVD国家安全保障総局長に就任したエジョフは、「反ソ連活動」「諜報活動」、党内の「粛清」、社会的、組織的、国家的理由に基づく大量の逮捕、国外追放の疑いのある人物に対する弾圧を実行に移した。エジョフの任務は、1937年の夏ごろから系統立った性質を帯びるようになり、それに先立つ形で、内務人民委員部にいたヤゴーダの関係者たちは「浄化」された。

続けて第二回モスクワ裁判(併行本部陰謀事件)が開かれることとなった。スターリンは、エジョフに「右翼」を摘発する資料作成を命じた[38]。1936年12月の本会議の場で、エジョフはニコライ・ブハーリンアレクセイ・ルイコフを裁判にかける趣旨を述べ、1937年2月に彼らの逮捕状に署名した[24]

ヤゴーダとは異なってエジョフは『機関』(治安・警察機構)の出身ではなかったため、当初は粛清の激化につながるとは見なされていなかった[42]。しかし、党指導部からの追放や処刑は、エジョフにとって業務だった。スターリンを崇拝し、かつ国家保安機関の出身者でもなかったエジョフは、政府内から潜在的な反対派を一掃するという任務を遂行する上でスターリンが求めていた適任者だった[43]

スターリンは、かつてチェーカー時代に自身の上官であったヤゴーダの訴追をエジョフに命じた。エジョフはこれを容赦ない熱意で遂行した。

1937年3月2日、ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会総会に出席したエジョフは、諜報活動や捜査の失敗を指摘し、部下を厳しく批判した[22][7]。総会は、エジョフによるこの報告を承認し、内務人民委員部の内部を「一掃するように」との指令をエジョフに与え、エジョフはこの指令を直ちに実行に移した[7][24]。1937年3月、エジョフはNKVD内部の「右翼による陰謀」をあばくことに腐心し、元上司のNKVD長官ヤゴーダを早く告発するよう官吏をけしかけた[44]。エジョフは、NKVD内部の右翼がエジョフの猛烈ぶりにおそれをなし、エジョフの執務室に水銀をまいて毒殺をはかったと主張し、一人の職員を尋問で殴打してこの陰謀の実行者であることを「自白」させた[44]。実際は、エジョフはNKVD職員に自身の執務室のカーテンに水銀を散布するよう命じており、これは「ドイツのスパイであるヤゴーダが毒物を用いてエジョフとスターリンを暗殺しようとした物的証拠」としての捏造であった[45]。エジョフは後の1939年5月の尋問において、国の指導層としての自分の権威を高めるために水銀中毒をでっち上げたと認めた[46]

ヤゴーダ時代にカーメネフ、ジノヴィエフ、イワン・スミルノフ1936年8月25日に銃殺されたが、その際に使われた銃弾はヤゴーダが自宅に保管していた。これはヤゴーダが逮捕された際に押収され、エジョフの手に渡り、自宅に保管した[32][47][24]

NKVD内部・地方NKVDでの粛清

ヤゴーダは、エジョフの命令で処刑された多くの人々の最初の一人に過ぎなかった。エジョフの下で、大粛清は1937年から1938年にかけてピークに達した。ソビエト連邦最高会議のメンバーとソビエト軍の将校の50~75%が職を剥奪され、投獄、強制収容所への流刑、または処刑された。さらに、はるかに多くのソビエト市民が、地方のNKVDトロイカ(チェキスト・トロイカ)によって、通常は根拠の薄いあるいは存在しない証拠に基づいて国家破壊罪で告発され、スターリンとエジョフの命令する処刑ノルマを満たすために同様に処罰された。エジョフは地方指導者に割り当てられる死刑数や、8-10年懲役の求刑数を決定した[48]。これにより地方指導者は、手をゆるめれば疑いをかけられるので、自分の熱意を示すため、割り当て数(ノルマ)の増加を申し出た[48]

NKVD幹部、検察官、党指導者からなるトロイカ体制で、裁判なしに死刑を宣告できる機関が設立され、被告人不在のまま審議し、数分で執行猶予なしの判決を言い渡すことが可能だっため、2時間で800件の審理が可能だった[48]

さらにスピードアップするため、エジョフは逮捕された党の最高幹部のリストをスターリンに提出した。スターリンは粛清リストの名前に、銃殺を意味する「1」、強制収容所10年を意味する「2」というように印をつけていった[48]。1937-38年で383件のリストが提出された[48]

エジョフは、NKVDとGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)の両方の治安機関を徹底的に粛清し、前任者のヤゴーダとメンジンスキーによって任命された多くの高官だけでなく、彼自身が任命した者さえも解任し処刑した。1936年10月1日から1938年8月15日にかけて、職員2273人が逮捕された。このうちの1862人は「反革命容疑」で逮捕された。1939年にはNKVD職員が937人解雇された[49]

エジョフ報告

1937年6月、エジョフはスターリンへの報告書で、トロツキー派、ジョノビエフ派、メンシェヴィキなど様々な派閥が大掛かりな陰謀をくわだて、かつ、まだ共謀者がソ連国内に網の目のように潜入していると報告し、「裏切り者を無情な鋼鉄の箒で一掃する」とスターリンに誓った[44]。エジョフ報告書は、1937年7月-38年10月の大粛清の動機づけとなった。これにより、党内の抵抗勢力や異分子だけでなく。「元富農やその他反ソビエト的分子」やポーランド人やドイツ人の民族主義者までが粛清対象となった[44]。エジョフは部下に「細かく調べなくていいから打ちのめせ」と命じた[44]

1937年7月17日、エジョフは「内務人民委員部を統率し、政府の任務の遂行に際して傑出した成功を収めた」ことにより、レーニン勲章を授与された[50][33][6][24]。地元のNKVD機関に対し、逮捕、収容所や刑務所への投獄、国外追放、銃殺となった者たちの人数を公開するよう指令が出されたのはエジョフが就任してからのことであった[7]

NKVD作戦第00447号「元富農、犯罪者、反ソ連分子の抑圧」

ソ連内務人民委員令第00447号

1937年7月30日ソ連内務人民委員令第00447号ロシア語版『元富農、犯罪者、反ソ連分子の抑圧作戦について』が発令され、エジョフはこれに署名した[24][51]1937年1月から1938年8月にかけて、エジョフはスターリンに対し、約1万5000通もの特別伝達を送った。それらは、逮捕、懲罰作戦、特定の抑圧行為の承認要請および尋問の手続きについての報告を記したものであった。スターリンの執務室への訪問記録誌によれば、エジョフは1937年から1938年にかけてスターリンの元を290回訪れ、850時間以上の時をスターリンとともに過ごした。スターリンの元を訪れた回数がエジョフよりも多い人物はヴャチェスラーフ・モロトフである[52]

逮捕された者たちの処遇を決めるにあたり、「内務人民委員部およびソ連検察委員会」や、超法規的な抑圧機関である「内務人民委員部トロイカロシア語版」の存在があった。特別な権限を持つ三人組で構成されたこの委員会は、逮捕者を刑務所や強制収容所に投獄する権利や、銃殺刑を宣告する権利を与えられた。「レーニン親衛隊ロシア語版」の一掃において、エジョフは重要な役割を果たした。

ヤン・ルズタークスタニスラフ・コシオールヴラス・チュバーリパーヴェル・ポスティシェフロベルト・エイヒェロシア語版も犠牲になった[7]。逮捕された者たちはいずれも殴る蹴るの拷問を受けたのち、銃殺刑に処せられた。

1937年6月の「トロツキスト反ソ連軍事組織事件ロシア語版」では、ミハイル・トゥハチェフスキーが有罪判決を受け、銃殺された。

1937年9月22日、ソ連の将軍エフゲニー・ミレルは、パリにいたところを拉致され、モスクワまで連行された。敬虔なキリスト教徒であったミレルはエジョフに手紙を綴り、「教会へ行かせて欲しい」と要請したが、エジョフは返事を寄越さなかった。1939年5月11日、ミレルは銃殺された。

ウクライナ民族主義者組織の指導者イェヴヘーン・ミハイロヴィチ・コノヴァレツは、1938年5月23日オランダにて、パーヴェル・スドプラトフから手渡された「チョコレートが入った箱に偽装した爆破装置」で殺された[53][54]

歴史学者フランソワーズ・トンは合計154万8000人が逮捕され、68万2000人が銃殺されたとする[44]。歴史家のニキータ・ペトロフロシア語版は、1937年から1938年にかけて150万人が逮捕されたとする[5]1921年から1953年にかけて、政治的理由で処刑された79万9455人のうち、1937年から1938年にかけては68万1692人が処刑された[6]。20人に1人が死刑判決を受け、残りは強制収容所に送られた。大粛清のころは、2人に1人が死刑判決を受けていた[6]。18か月間で154万8366人が政治的理由で逮捕され、1日につき平均1万5000人が銃殺された。1937年には、9万3000人が「スパイである」とみなされて処刑された[6]。大粛清はスターリンが推進した集中的作戦であり、エジョフは実行者だった[44]

エジョフ崇拝

「敵」を情け容赦なく討ち滅ぼす人物として、エジョフに対する一種の崇拝が起こった。1937年から1938年にかけて、エジョフはソ連において、スターリン、モロトフ、クリメント・ヴォロシーロフに次ぐ、強力な指導者となった[5]。エジョフの肖像画は新聞に掲載され、党大会の会場や、強制収容所の壁にも掲げられた。挿絵画家のボリス・エフィーモフロシア語版が描いた、装甲手袋の上から、人民委員がトロツキストとブハーリン派を象徴する蛇を掴んでいる絵がある。また、エジョフは文章を書くのが得意であった。ソ連最高裁判所軍事諮問委員会ロシア語版の副委員長、アナトーリイ・ウコロフロシア語版は、「ニコライ・イヴァーノヴィチが高等教育を受けたことが無い人物であることを知らなければ、『教養のある人は、これほど綺麗な文章を書くのか。言葉を巧みに使うのか』と思うかもしれない」と評している[55]。エジョフ自身、質問事項には「初等教育は終えていない」と率直に記述している[32]

スターリンの時代には「エジョーフシチナ」(エジョフの時代)なる用語は登場しなかった[5]1937年12月、チェーカー創立20周年を記念する厳粛な集会の場で、アナスタス・ミコヤンは以下のように述べた。「同志エジョフから学びましょう。彼が同志スターリンから学んでいるように」[6]

1935年の初頭の時点で、ソ連における囚人の数は100万人を超えており、そのうちの72万5500人が収容所で「雇用」されていた。1936年から1938年にかけて「恐怖」が解き放たれた。党と行政機関の中枢人物のみならず、ソ連社会のあらゆる層の人々、-共産党員以外の一般労働者、農民、従業員- も、収容所に送られるか銃殺された。1937年から1938年にかけての「エジョーフシナ」は、大粛清の最高潮に達した[9]

1937年12月に実施された、ソ連最高評議会議員選挙ロシア語版の様子。写真右端にいるのがエジョフ
エジョフが解任される17日前、強制収容所の建物の壁に貼られたエジョフとスターリンの肖像画。
下部:「ソ連10月社会主義革命21周年万歳!」
左:「あらゆる裏切り者を摘発しよう!我が党をボリシェヴィズムの難攻不落の要塞に変えようではありませんか!」
右:「人民の敵、害虫、外国の諜報機関に雇われた工作員を根絶やしにしよう!祖国を裏切った者には死を!」と書かれている。

凋落

リュシコフとオルロフの亡命

エジョフは1938年4月8日水上交通(水運)人民委員に任命された[56]。これは左遷のような意味を持っていた。予期しない辞令だったがNKVD長官は継続された[56]。すでにスターリンはエジョフを遠ざけはじめていた[56]。しばらくはエジョフも気づかなかったが、1938年5月には寵を失いつつあることを感じた[56]

彼は大粛清の際、スターリンの命令を受けて、ドイツとの戦争が始まる前に、ソ連軍と政府内の古参ボリシェヴィキやその他の潜在的に「不忠分子」または「第五列」の粛清を成し遂げてきた。しかし、大粛清のなか、NKVD内にも離脱者が増えた[56]

1938年6月13日、極東NKVD長官ゲンリフ・リュシコフが日本に亡命し[57]、日本に極秘資料を渡した[56]。これは、リュシコフを粛清から守ってきたエジョフにとって大失態となり、エジョフは不忠罪で非難されることを恐れた[57]。リュシコフは一人で7万人の「敵」を殺しており、エジョフのお気に入りだった[48]

エジョフはスペインに派遣されていたNKVDマドリード支局長アレクサンドル・オルロフを片付けるために7月8日帰国を命じたが、オルコフは6万ドルを持ち出して1938年7月21日カナダに亡命し、スターリンはこれに激怒した[56]

ベリヤの台頭

エジョフは自分の側近でNKVDトロイカの委員の一人であったミハイル・リトヴィンロシア語版を第一副官および国家安全保障総局長に任命するつもりであったが、1938年8月22日、スターリンはラヴレンチー・ベリヤを第一副官に任命した[6][24][56](のち1939年9月29日ベリヤは国家安全保障総局長に任命)。ベリアは、1936年から1938年にかけての大粛清と「エジョフシチナ」の犠牲者になりかけたにもかかわらず、なんとか生き延びてきた。 1938年の初めには、エジョフはグルジアの党首だったベリヤの逮捕を命じていた。しかし、グルジアのNKVD長官セルゴ・ゴグリッゼの提案でベリアは直ちにモスクワに飛び、自分がジョージアとトランスコーカサスでいかに効率的に党の命令を遂行したかをスターリンに説得し、これによりエジョフは権力闘争で失脚することになった[58]。その後数ヶ月、ベリヤはスターリンの承認を得てエジョフの統治権を奪っていった。

スターリンが定期的に主要な部下を処刑し、交代させる傾向があることはエジョフもよく知っていた。なぜなら、彼自身が以前、そうした人事を最も直接的に指揮していた人物だったからである。ベリヤが第一副官に就任したことでエジョフは覚り、「我々はもう必要とされなくなった。面倒な証人として消されるだろう」と周囲にこぼし、酒におぼれ、執務室にも午後3時か4時に出勤するようになった[56]。スターリンによる解雇や逮捕の前兆をよく知っていたエジョフは、スターリンに対するベリヤの影響力の増大を前に、アルコール依存症と絶望に陥った。彼は、任期最後の数週間は意気消沈し、だらしなくなり、起きている時間のほとんどを酔っぱらって過ごすようになった。予想通り、スターリンとモロトフは、エジョフが長官を務めていた期間のNKVDの活動と手法を厳しく批判し、彼を権力の座から引きずり下ろすために必要な官僚的な口実を作り出した。NKVDの実質的な権力はエジョフからベリヤの手に移った。

1938年8月22日から9月4日までエジョフは幹部を手当たり次第銃殺させた[59]。彼らがベリヤに強要され、エジョフに不利な自白をすることを恐れたためであった[59]。エジョフに忠実な部下は、政治局メンバー、ベリヤ、スターリンに不都合な資料を作成した[59]。これは後に反逆の証拠となった。エジョフはますます酒をのみ、スターリンへの恨みや敵への殺意をほのめかしたが、こうした発言は調査官に記録され、起訴状にもりこまれることとなった[59]

ベリヤの副官任命によって、ウスペンスキーやリトヴィンも不安を覚えるようになった。エジョフの第一副官ミハイル・フリノフスキーは「手綱をしっかりと握っていて下さい」「ベリヤの部下を我々の機関に立ち入らせてはなりません」と助言したが[24]、9月8日にフリノフスキーは海軍へ異動させられ、翌年エジョフとともに処刑された。

1938年10月、内務人民委員部イヴァノヴォ地方局長、ヴィークトル・ジュラヴリョフロシア語版は、党中央委員会に書簡を送り、その中でエジョフの重大な行動について報告している。彼は、内務人民委員部の一部の将校が取った疑わしい行動について、エジョフに繰り返し報告した。彼らは無実の人々を数多く逮捕したが、「人民の敵」に対しては何もしなかった、と書いた。エジョフはこの糾弾に対して無視を決め込んだ[7]。エジョフの新たな副官となったベリヤは、ジュラヴリョフによるこの書簡に興味を抱き、1938年11月14日、これについてまとめた覚書をスターリンに送った。

NKVD長官解任と妻の自殺

第一副官ベリヤは、エジョフの仲間を逮捕するよう指令を出した。1938年8月の初旬、エジョフは部下を自身のダーチャに呼び、「全ての捜査を速やかに終わらせ、真相解明が不可能となるようにする必要がある」と述べた[60]

エジョフの後釜としてスターリンの寵臣になることを目指したベリヤ、アンドレイ・ジダーノフゲオルギー・マレンコフが、エジョフ背信行為調査委員会を設立し、エジョフがNKVDに敵とスパイをはびこらせ、その弾圧政策はソ連の国際的信用を失墜させ、大衆の不満を煽ることが目的だったと結論づけた[61]。あちこちで党幹部がNKVDへの不満を口にし、手紙がスターリンに殺到し、そのうちの一つは、ナチスドイツがエジョフの粛清を指揮しており、ドイツは戦争することなしにソ連を占領するつもりだったと伝えた[61]。作家ミハイル・ショーロホフはエジョフがスターリンの寵を失ったことを知り、NKVDから嫌がらせを受けていると手紙をスターリンに送った[61]。1938年8月にショーロホフがエジョフの妻とホテルで会っていた時の盗聴器の録音を聴いたエジョフは妻を激しく殴打していた[61]

1938年11月14日、エジョフの部下であるウクライナのNKVD長官ででNKVDトロイカの委員の一人アレクサンドル・ウスペンスキーが失踪した。スターリンはエジョフが関与していると疑い、ベリヤに命じて、ウスペンスキー逮捕を命じた[62]。エジョフはモスクワからウスペンスキーに電話をかけ、「君はモスクワに召喚され、取り調べを受けることになる」「自分がこれからどうすべきか、君には分かっているはずだ」と告げた[60]

1938年11月17日、逮捕・検察統制・捜査指揮に関する布告で、大衆の逮捕と収容所送りが禁止され、大粛清も終結した[63](ただし、粛清そのものは以後も続いた)。

11月19日の中央委員会政治局の会議でウスペンスキーの件が議題に上がり、スターリンは、エジョフを役職から解任するための正式な口実に利用した。同じ11月19日、エジョフの妻エヴゲーニヤが自殺している(#二番目の妻エヴゲーニヤ)。

エジョフの側近で内務人民委員部トロイカの委員の一人であったミハイル・リトヴィンロシア語版は、逮捕される前に銃で自殺した[64]。1938年8月にエジョフのダーチャに集まった際、リトヴィンは「事態の悪化を感知した場合、私は自殺します」と発言していた[60]。ウスペンスキーがモスクワを訪れた際、エジョフは現実逃避するかの如く酒を飲んでいた[60]。ウスペンスキーは入水自殺を装い、「ドニエプル川で私の死体を探して下さい」との覚書を残して逃亡した[60]。翌日、ベリヤの命令で、ウスペンスキーは指名手配となった[65]。ベリヤはウスペンスキーの残した覚書を信じず、直ちに国境警備の強化と逃亡者の捜索を命じた[60]。ウスペンスキーの逃亡を知ったスターリンは激怒し、「ならず者を捕らえよ」とベリヤに命じた。

1938年11月22日、スターリンがベリヤに宛てた覚書には、以下のようにエジョフへの憤りが記述されていた。「チェキストに任務を課す。何としてでもウスペンスキーを捕らえよ。地下に潜伏し、同志たちを見くびったウスペンスキーを捕らえることすらできない一人のならず者がいる。チェキストの名誉は傷付けられ、辱めを受けた。これは到底容認できない」[60][65]。スターリンがこれを書いた時点では、エジョフはまだ内務人民委員であったが、スターリンからの信頼は無くなっていた[60][66]。エジョフはウスペンスキーをスターリンの命令に忠実に行動した死刑執行人として高く評価しており、ウスペンスキーを逮捕させたくはなかった[60]。しかし、逃亡したウスペンスキーの捜索活動に従事した者たちは、名誉勲章を授与された[66]

エジョフは、NKVDに所属していた多くの諜報員や職員たちがロシア国外に逃亡したことの責任を取ることにした。11月23日、エジョフは政治局とスターリンに宛てて辞表を書き、一部の幹部の逮捕が遅れたのは彼らの代わりが見つかるまで待っていたためだと言い訳した[63]。その中で、内務人民委員部とソ連検察庁にはさまざまな「人民の敵」が潜入していたが、彼らの存在について見落としていた責任を綴った。辞表の中でエジョフは「人員の配置については、無駄のないやり方で、適材適所に取り組んだ」と主張した。自身の逮捕が差し迫っていることを予感したエジョフは「私の70歳の母には手を出さないで欲しい」「私の任務には、斯様な欠陥や失態こそあれ、中央委員会の日々の指導のもと、私は敵を見事なまでに粉砕した、と言っておかねばなりません」と綴った[32][6]

翌日の11月24日、エジョフはNKVD(内務人民委員)の役職を解任された。ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会書記および党統制委員会委員長の役職には留まった[67]。妻エヴゲーニヤが自殺してから5日後のことだった。後任にベリヤが就任した。ベリヤは9月8日にフリノフスキーが退任して以来、NKVDを完全に掌握していた[68]

11月28日の手紙でエジョフは、1938年春からの粛清がうまくいかなったのは補佐のフリノフスキーが優柔不断だったからだと部下に罪をなすりつけた[63]。届けられなかったスターリンへの手紙の原稿には、「一部の人間の悪意の根深さに気づけなかった」と書かれていた[69]

12月9日プラヴダは「同志ニコライ・イヴァナヴィチ・エジョフは本人の希望に基づき、内務人民委員の任務を解かれ、水運人民委員の役職に就いた」と報道した[24]

ウスペンスキーは1939年4月14日に逮捕された。

1939年、無気力なエジョフ

スターリンは数ヶ月間エジョフを無視したが、最終的にベリヤに最高ソビエト幹部会で彼を非難するよう命じた。

1939年1月10日、ヴャチェスラフ・モロトフは、職場に遅刻してきたエジョフを正式に叱責した。自身の破滅を予感していたエジョフは、酒を飲むようになった[6]1月21日、エジョフはレーニンの没後15周年を記念する厳粛な追悼集会に出席した。

3月3日、エジョフは中央委員会のすべての役職を解任されたが、水運人民委員の職は保持した。

3月10日に始まったソ連共産党第18回党大会の代表には選出されなかった。中央委員会の委員として、エジョフには党大会に出席する権利があった。エジョフは複数の会議に出席し、発言しようとしたが、許可されなかった。また、エジョフは中央委員会の新たな委員にも選出されることは無かった。3月19日の党大会で酩酊状態のエジョフは、スターリンに「どうか少しでもお時間ください。お話できれば幸いです」という紙片を渡したが無視された[69]

1939年4月9日、エジョフはソ連水運人民委員の役職も解任された[6]。その日、水運人民委員部は、河川人民委員部と海上人民委員部の2つに分割され[注 1]、廃止された[70]

ウスペンスキーの逮捕

1939年4月、ウスペンスキーは捕らえられ、1940年2月26日に銃殺された[65]。ウスペンスキーの妻・アンナは、夫が失踪した一週間後に逮捕され、1940年3月に銃殺された[66]1989年、アンナは名誉回復となった[65]が、ウスペンスキーは名誉回復されていない[60]。スターリンの秘密諜報機関は、「誰が有罪で、誰が無罪なのか」については一切気にしなかった。党が「必要だ」と言えば、コムソモールは「はい」と答え、実行に移すだけである。ソ連における権力は常にそうなっていた[66]

最後

逮捕

水運人民委員の役職を解任された翌日の1939年4月10日、エジョフはゲオルギー・マレンコフの事務所にて、ラヴリェンチー・ベリヤに逮捕された[24][6][注 2]。エジョフの逮捕にはベリヤの側近、ボグダン・コブロフも関わっていた[注 3]。エジョフの逮捕は一般大衆だけでなくほとんどのNKVD職員にも極秘で行われた[72]。スターリンは自分が寵愛してきた人物の逮捕を大々的に報道するのは得策ではないことを理解しており、NKVDの活動や大粛清の実施状況について国民の関心を喚起することも望んでいなかった[73]

逮捕されたエジョフは、スハーノフカ特別体制刑務所ロシア語版に収監された。逮捕の数日後、エジョフは発作の症状を起こした。彼は突然叫び始め、拳で扉を叩き、意識を喪失した。管制官から呼び出された医師は、「アルコール依存症患者によく起こる、飲酒後の神経発作だ」と指摘した。鎮静剤の注射を受けている間、エジョフは数日間、寝台に横たわることを許された[24]。エジョフはアナトーリイ・エサウロフロシア語版ボリス・ロドスロシア語版から殴られたり、あらゆる拷問を受けながら、尋問を受けた[注 4]

すでに1939年1月29日付のスターリン宛の手紙でベリヤ、アンドレイ・アンドレーエフゲオルギー・マレンコフらは、NKVDが無罪の人々を大量に根拠もなく逮捕しているが、エジョフは「このような恣意性と過激主義を止めようとせず、時には自らそれを助長した」と告発していた。これにより、エジョフは、代理軍事検事長ニコライ・アファナシエフの尋問を受けた。

エジョフは拷問には耐えきれず、泣きながらすべてを自白していった[69]。ベリヤの側近の取調官ボグダン・コブロフはエジョフに、1934年にウィーンで療養中に看護婦と関係しているところをみつかって脅されてドイツのスパイになったこと、さらにポーランド、イギリス、日本のスパイだったこと、党幹部に潜入するために経歴詐称したこと、1938年11月7日の革命式典で党指導者を暗殺しクーデタを起こすつもりだったこと、15歳のときから同性愛者で、男性愛人2人を使ってスターリンを暗殺しようとしていたことなどを「自白」していった[69]。自白の中で、エジョフは、処刑前に「人民の敵」とみなされるために必要な、国家犯罪の標準的な列挙を認めた。これには、「破壊行為」、職務怠慢、政府資金の横領、ドイツのスパイや破壊工作員との反逆的な協力などが含まれる。これらの政治犯罪の他に、彼は同性愛、性的乱交についても自白した[74][75]。さらに、ドイツに亡命しようとしたが断られたので、1926年からイギリスのスパイだった妻を通じてイギリスに頼ろうとしたこと、またアル中で、壁やテーブルに悪魔が見えるという幻覚症状があることも自白した[76]

起訴

ニコライ・エジョフに対する起訴状には、「クーデターを準備するにあたり、エジョフは志を同じくする共謀者を通してテロリストを鍛え上げ、機会が到来し次第、実行に移す手筈であった。エジョフとその共犯者、ミハイル・フリノフスキー、エフィーム・エヴドキモフロシア語版イズラエル・ダギンロシア語版は、1938年11月7日に反乱を準備し、エジョフを鼓舞した者たちの計画によれば、赤の広場での示威運動の最中に、党と国家の指導者に対するテロ行為を起こすことになっていた」「ソ連人民からの共感や支持は無く、エジョフはエフドキモフやフリノフスキーらとともに、裏切りの計画を実行に移すため、党、ソ連国内、軍隊、その他の組織内において、諜報と陰謀の網を張り巡らせた。中央と地方の双方で、党、ソ連、内務人民委員部の任務における最も重要な分野で破壊工作活動に幅広く従事し、党に忠実な幹部を一掃し、ソ連の軍事力を弱体化させ、ソ連の労働者の不満を刺激した」と書かれた[20]

さらにエジョフは、同性愛(男色)の罪でも告発された。1934年3月7日ソ連中央執行委員会幹部会が発令した「男色に対する刑事責任について」が公布され、ソ連においては男色は「犯罪」となっていた。エジョフはスハノヴォ刑務所で尋問の中で[77]、1925年後半にカザフ自治ソビエト社会主義共和国の党幹部(カザフスタン地域委員会第二書記)であったフィリップ・ゴロシチョキンを含む多くの愛人がいたこと、そして彼らとクズロルダでアパートを共有していたことを供述した[78][79]。エジョフの同性愛行為の相手としてゴロシチョキンのほか、モスクワ芸術劇場の演出家ヤーコフ・ボヤルスキーロシア語版師団政治委員ロシア語版ヴラジーミル・コンスタンチーノフロシア語版、イヴァン・ジェミェンチエフらの名前が挙がった[29]。精神病院に送られたイヴァン・ジェミェンチエフを除き、彼らはいずれも全員銃殺された[80]。エジョフが15歳のころに、同性愛の傾向が見られたという[21]。起訴状には、「エジョフは男色行為に耽溺し、『反ソ連および利己的な目的のために行動していた』と記述された。

1940年2月1日、エジョフは以下の5つの容疑で告発された[11][24]

  1. 軍隊と内務人民委員部の組織における、反ソ連を企む陰謀組織の指導者であった
  2. ポーランド、ドイツ、日本、イギリスの諜報機関と協力し、諜報活動に従事し、祖国を裏切った
  3. ソ連において政権を奪取するため、武装蜂起を準備し、党と政府の指導者に対するテロリズムを準備した
  4. ソ連および党の組織機構において、破壊工作に従事した
  5. 冒険主義的、出世主義的な目的のために、自分自身の架空の「水銀」中毒に関する事件を起こし、自分に不都合な人物や、自身の反逆行為を暴露する可能性のある人物の一連の殺害を組織し、男性と性的関係を持った(同性愛)

内務人民委員部捜査局上級捜査官、ヴァスィール・ティモフィーヨヴィチ・セルヒーイェンコロシア語版は、エジョフの起訴状に署名した[24]

裁判の前夜、ベリヤはエジョフと対面し、「全てを正直に話せば、命は助ける」と述べた[6][47]。スハーノフカ特別体制刑務所からベリヤに宛てた手紙で、「党の義務として当然のこととして受け入れた過酷な結論にもかかわらず、私は党と同志スターリンに対し、最後まで忠実であることを良心に誓って保証する」と綴った[6]

秘密裁判

1940年2月3日[76](2月2日[81])、裁判官ヴァシリー・ウルリヒが議長を務めるソ連最高裁判所軍事諮問委員会による非公開の裁判が開かれた[81]。エジョフは、自身が工作員、テロリスト、共謀者であることを否定し[32]、自白については「激しい殴打と拷問を受けたためだ」と述べた[47][82]。この日の前日、ベリヤから「全てを正直に話せば、命は助ける」と約束されたと言及し[76]、「嘘を吐くぐらいなら死を選ぶ」と述べた[47]

翌日の2月4日(2月3日)、ソ連最高裁判所軍事法廷の秘密司法会議でエジョフは次のように陳述した。

私は道徳と私生活に関する汚職の罪で告発されています。しかし、事実はどこにあるのでしょうか?私は25年間、党で活動してきました。この25年間、誰もが私を見て、私の謙虚さと誠実さを愛してくれました。私は酒を大量に飲んだことは否定しませんが、馬のように働きました。私の汚職はどこにあるのでしょうか?私は、自分の命が助かる唯一の理由は、告発された罪を認め、党の前で悔い改め、命乞いをすることだと理解し、正直に宣言します。党は私の功績を考慮すれば、私の命を助けるかもしれません。しかし、党は嘘を必要としたことは一度もありません。私はポーランドのスパイではなかったと改めて宣言します。
軍事委員会に以下を認めていただきたい。

1. 私の運命は明白です。予備調査で私自身が加担したきた以上、当然ながら私の命は助からないでしょう。ただ一つだけお願いします。苦痛を与えずに静かに銃殺してください。
2. 裁判所も中央委員会も私の無罪を信じないでしょう。母が生きているなら、老後の生活を保障し、娘の面倒を見てください。
3. 甥たちは何も罪を犯していないので、懲罰を受けないようにしてください。
4. ジュルベンコの事件を徹底的に調査してください。私は彼をレーニン主義・スターリン主義の大義に献身した正直な人物だと考えており、今もそう考えています。

5. スターリンに、私が政治生活で一度も党から献金を受けたことがないことを伝えてください。これは私の正直さと謙虚さを知っている何千人もの人が知っている事実です。私はスターリンに、私はただ状況の犠牲者であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、私が見過ごしてきた敵もこの件に関わっているかもしれない。スターリンに私は死ぬまで彼の名を口にし続けると伝えてほしい[83]

エジョフは、ヤゴーダと同様、最後までスターリンへの愛を貫いた。最後の弁明でエジョフは、諜報行為やその他の犯罪について、「自白させられた」「起訴状にある犯罪は犯していないし、無実である」と主張した[84]。エジョフは、「ベリヤとの会話のあと、私は死んだ方がいいと思ったが、法廷では真実だけを話すことに決めた。予備調査の間、私はスパイではない、テロリストではない、と述べたが、彼らは私を信じず、酷い暴行を受けた。25年に亘る党生活の中で、私は真剣に敵と戦い、討ち滅ぼしてきた。私にも銃殺に値するだけの罪はある。それについてはあとで話すが、起訴状にあるような罪は犯してはいない」[24]、「(ヤゴーダ解任後)私は1万4000人のチェーカー委員(チェキスト)を粛清したが、粛清は不十分であった。それが私の落ち度だ...私は周囲を「人民の敵」に囲まれていた」と述べた[32][82][76]。彼は自分の運命について受け入れていたが、「私の甥たちには何の責任も無い。抑圧しないで欲しい」「私の母の老後と娘の世話を保障して欲しい」[17]、「酒を飲んだのは確かだが、私は骨身を惜しまず働いた...予備調査の際に、私がテロ行為の疑いについて書いた時、私の心は酷く痛んだ。私はテロリストではない、と主張したい。仮に私が政府の誰かに対してテロ行為に及ぶとすれば、その目的のために誰かを採用するような真似はしない。機械装置を使えばいつでもできただろう」と述べた。

エジョフは最後に、「スターリンに伝えて欲しい。私の身に起こったことは全て偶然の産物である。人民の敵がこれに関与した可能性は否定できないが、私はその可能性を見落としていた(わたしの知らないところで敵が裏から手をまわしていた可能性もある[76])」「スターリンに伝えて欲しい。私はあなたの名を呼びながら死ぬだろう、と」と述べた[32][47][76]。また、男色行為については起訴されることは無かった[47]

エジョフのように無実を主張し続けた者は、粛清の犠牲者の中でもごく少数しかいなかった。裁判での最後の陳述で、彼は自らの経歴を弁護したが、それは彼の命を救うことはできなかった。

秘密裁判の後、エジョフは独房に戻ることを許された。30分後、彼は再び呼び戻され、死刑判決を告げられた。判決を聞いたイェジョフは倒れそうになったが、看守たちが彼を支え、部屋から連れ出し、警備員に抱えられて独房にうつされ、その夜処刑された[76]

検察官のアファナシエフが彼の独房に来て、最高ソビエトに恩赦と減刑を申請する権利があることを彼に告げた[85]。エジョフは「はい、はい、検事同志、私は恩赦を嘆願します。スターリン同志が恩赦してくれるかもしれません」と答えた[85]。しかし、彼の恩赦嘆願は即座に却下されたと聞いたエジョフはヒステリーを起こして泣き出した。彼は警備員に必死で抵抗し、叫びながら部屋から引きずり出された[86]

エジョフのほかにも、ミハイル・フリノフスキー、ニコライ・フョードロフロシア語版サムイル・ジェノトゥキンロシア語版ニコライ・ニコラーエフ=ジューリットロシア語版も死刑判決を受けた。エジョフの弁明にあるジュルベンコとは、エジョフの部下のA・S・ジュルベンコのことで、1938年11月に逮捕された当時はモスクワ州NKVD長官だったが、エジョフの声明から10日後に銃殺された[83]

処刑

1940年2月4日、ニコライ・エジョフはモスクワの小さなNKVD支局の地下室(スハーノフカ特別体制刑務所)に連行された。パーヴェル・スドプラートフによれば、「処刑場に連れて行かれる際、エジョフは共産革命の歌・インターナショナルを口ずさんでいた」という[87][71]

NKVD支局地下室の壁は丸太で、床は傾斜しており、処刑後にホースで血を洗い流せるようになっていた。この地下室はイェジョフ自身が決定した仕様に基づいて、ルビャンカ(KGB)の近くに建てられたものだった。ルビャンカの地下にあるNKVD処刑室は、完全な秘密保持を確保するために避けられた[88][89]。エジョフはNKVD職員ヴァシーリー・ブロヒンロシア語版手で銃殺され、アファナセフ、NKVD第一特別部副部長レオニード・バシュタコフ(Leonid Bashtakov)らが見届けた[90]。バシュタコフはベリヤの側近で、のちのカティンの森事でもフセヴォロド・メルクーロフ、バフチャ・コブロフ(Bakhcha Kobulov)とともにトロイカとして処刑に関わった[91]

エジョフの遺体は火葬され、その灰はドンスコーイ墓地ロシア語版の「引き取り手がいない、無銘の遺骨の墓」に埋葬された[20][92]

記憶の消去

エジョフがスターリンとともに写った写真 処刑されたのち、エジョフの姿は写真からも抹消された
エジョフがスターリンとともに写った写真
処刑されたのち、エジョフの姿は写真からも抹消された

エジョフの裁判と処刑については、報道機関でも無線放送でも一切報道されず、エジョフは誰にも気付かれないまま、地上から姿を消した[47]。だれも噂しなかった[93]。1948年になってもアメリカの雑誌『タイム』が「エジョフが精神病院に収容されている」という噂を報じた[94]

エジョフは「消えた人民委員」とも呼ばれる。処刑後、彼の肖像は公式報道写真から削除されたためで、彼はソ連の報道機関が失脚した人物を「消去する」というソ連における画像検閲の最もよく知られた例の一つである[95]。ソ連における一部の地名の名前がエジョフの名に敬意を表して変更されたこともあるが、1939年にエジョフが逮捕されてからは、それらの名前は再び変更された。「ボリシェヴィキ全連邦共産党史略」の初版では「1917年10月、ベラルーシの西部戦線にて、大衆の蜂起に向けて、同志エジョフは兵士たちを大量に動員した」と記述されていたが[21]、エジョフ粛清後、エジョフにまつわる文言は同書から削除された[22]。こうしてソ連の公式歴史と社会からエジョフの記憶や痕跡はほぼ完全に消されていった。

囚人の一時釈放

1939年まで収容所や刑務所でなんとか生き延びた人々は、「不当な抑圧を受けた」として釈放された。スターリンはエジョフに対して「社会主義の法律に違反している」と非難した[9]。さまざまな推定によれば、11万人から30万人の囚人が釈放されたという。しかし、その多くは厳格な条件付きであり、釈放されても短命に終わった。収容所や刑務所の数は、エジョフの後任者であるラヴリェンチー・ベリヤによる指揮のもとで補充された。1939年に再開されたソ連の覇権拡大の過程で、「政治的に信頼できない人々」、すなわち「社会的に有害な要素」や「ソ連の敵対者」の存在は増え続けていった。さらに、チェーカーからの攻撃に晒されていた場合、「当局は間違いを犯さない」との不文律も手伝って、「人民の敵」の汚名を拭い去るのは不可能であった[9]

家族

最初の妻

エジョフは1917年に共産党の補助書記であったアントニーナ・アレクセーエフナ・チトヴァ(Антонина Алексеевна Титова)と結婚した[96]。アントニーナとは、1930年に離婚している。アントニーナは抑圧を受けることなく生き延び、1988年9月14日に亡くなった。

二番目の妻エヴゲーニヤ

エジョフの二番目の妻・エヴゲーニヤと、養子のナターリヤ

1931年、エジョフは雑誌の編集長をしていたエヴゲーニヤ・ソロモノヴナ・ハユティナ(フェイゲンベルク)ロシア語版と結婚した[97]。彼女には、夫以外にも関係を持っている男性が複数人いた。エヴゲーニヤは奔放な性格で知られており[98]、お気に入りのダンスはフォックストロットだった[99]。彼女は作家イサーク・バーベリや北極探検家のオットー・シュミットと親密な関係にあり、エジョフ自身も結婚以前に関係を持っていた[100]。バーベリとエヴゲーニヤは1920年代後半にベルリンのソ連大使館の通訳で働いていた時に出会った。バーベリのファンであった彼女からのアプローチにより、不倫関係が始まった[101]

1929年9月、25歳のエヴゲーニヤはソチのサナトリウムでエジョフと出会った。当時、エジョフは国民経済最高会議人事部長および全連邦共産党中央委員会配給部長の職にあった[102]。浮名を流したエフゲーニヤは元夫に「エジョフは出世頭だし、得するから」と結婚の理由を語った[34]

結婚後、エジョフのモスクワの自宅やダーチャで、エヴゲーニヤは文学や音楽のサロンを主催し、バーベリ(1940年銃殺)、ショーロホフミハイル・コリツォフ(1940年銃殺)、映画監督エイゼンシュテイン、歌手レオニード・ウチョーソフ、『クレスチヤンスカヤ・ガゼータ』編集長セミョーン・ボリソヴィチ・ウリツキー(1938年に逮捕され銃殺)といった文化人が集まり[103]、特権階級の共産党幹部ノーメンクラトゥーラも頻繁に顔を見せていた[104][105]。エヴゲーニヤは新聞「グドク」などで働き、1938年5月まで雑誌「ソ連邦建設」編集者に就任した。 ミハイル・ショーロホフとの関係はこの時期に深まる[100]

エヴゲーニヤの交友関係や浮名はスターリンの目に留まり、彼はエジョフに対し、妻と離婚すべきだと二度にわたって命じた[100]. スターリンは、ソ連国立銀行副総裁グリゴリー・アルクスと彼女とのつながりを警戒していた[106]。 アルクスは 「トロツキスト」として逮捕され、1936年9月に処刑された[100]

1938年5月頃、エヴゲーニヤの精神状態は悪化し、雑誌「ソ連邦建設」編集長を辞した。エヴゲーニヤは友人のジナイーダ・グリキナと共にクリミア旅行へ出かけたが、エジョフから直ちにモスクワへ戻るよう命じられたため、休暇は途中で切り上げた。エジョフは妻とグリキナをダーチャ(別荘)に滞在させた。

同年9月18日、エジョフはエヴゲーニヤに「離婚したい」と切り出した。エヴゲーニヤは途方に暮れ、スターリンに「助けと保護」を求める手紙を綴ったが、スターリンは返事を寄越さなかった[47][105][107]10月29日、彼女は「重度の鬱病」と診断され[105]、モスクワ郊外のヴォロフスキー・サナトリウムに入所した[108]

エジョフの妹エヴドキヤの後の証言によれば、エヴゲーニヤは彼女をスパイ行為で告発する匿名の書簡を受け取った[109]。彼女は夫に手紙を書き、同年11月8日、エジョフから睡眠薬と「安っぽい装身具」[110]または「小さな立像」[59]を受け取った。これは「死」の合図であり[105]、エヴゲーニヤの逮捕も近い、命を絶つがいいという意味だった[59]

さらにエヴゲーニヤの周囲の友人が次々と逮捕された。同年11月15日、ソ連作家同盟対外委員会職員ジナイーダ・グリキーナ(Зинаида Гликина)[111]と雑誌「ソ連邦建設」編集部のジナイーダ・コリマンも逮捕された[112]。エヴゲーニヤはスターリンに二通目の手紙を書いたが、この時も返事はなかった。

11月17日、エヴゲーニヤは向精神薬ルミナールを大量に服用して意識不明となり、1938年11月19日に死去した[113][98][47][114][115](11月21日死亡とする研究もある[59])。

エジョフはエヴゲーニヤの葬儀には出席しなかった[116][110]。エジョフは妻の葬儀の夜、自分の男性の愛人に「エフゲーニヤは死んでよかった。でなければもっとひどいことになっていた」と語った[59]

妻の死について尋問を受けた際に、エジョフは「普通の毒物を入手しようと思えば入手できたが、そんな毒物を飲ませた場合、私が自らの手で、あるいは共犯者を通して妻を殺したのではないか、あるいは自殺幇助のために毒物を飲ませたのではないか、と疑われてしまうかもしれない。鎮静剤を大量に服用した場合、死に至る可能性があることは分かっていた。私は妻に対し、毒は持っていないが、鎮静剤を沢山持っている事実を告げた」と語っている[11]

エジョフは「自白」によって、妻の関係者も「粛清」していった。まずはバーベリが標的となった。エジョフは妻とバーベリが交わしていたラブレターを発見すると、即刻、1939年5月にバーベリを逮捕し、取り調べさせた[117]。1940年1月27日にバーベリは射殺された[117]

エジョフは逮捕後の1939年5月に、自分の妻エヴゲーニヤはイギリスのスパイとして雇われていたと自白し、情報を得るためにジャーナリストミハイル・コリツォフ不倫していたと供述した[118][119]。すでにコリツォフは1938年12月14日に逮捕され、拷問を受けてスパイであると自白させられており、1940年2月2日に銃殺された[120]

1940年1月25日、逮捕され収監されていたエヴゲーニヤの友人のジナイーダ・グリキーナ[121][122]とジナイーダ・コリマンもスパイとして処刑された[112][104]

養子

1933年、エジョフは孤児院から生後5か月の女児を一人、養子として引き取った。その女児の名前は「ナターリヤ」といった。エフゲニアが自殺し、エジョフが逮捕されたあとの1939年、ナターリヤは再び孤児院に預けられた。スターリンは死刑囚の家族全員を処刑するのが常であることを知っていたエジョフは、間近に迫った自身の処刑に際して、娘の命だけは助けてほしいと懇願した。そして、ナタリアは生き延びた[123]。エジョフ姓を名乗ることを強いられていたが、その後の彼女はナターリヤ・ニコラーエヴナ・ハユーチナと名乗るようになった[124]

ナターリヤは「養父に対する告発にはいずれも根拠が無い」とし[84]、養父の名誉回復を目指したが、失敗に終わっている[6]2016年1月10日、ナターリヤは亡くなった[116]

エジョフには三人の甥がいた。セルゲイ・ニカラーエヴィチ・バブリンは、1939年10月23日の内務人民委員部特別会議の決定により、「危険分子」として、労働収容所にて8年の刑を言い渡された。1946年5月22日、刑期満了で釈放されるも、1952年1月26日、ソ連内務省特別委員会が出した決議により、以前と同じ理由で国外追放処分とされた。1953年5月末、恩赦となった[20]。残りの甥、アナトーリイとヴィークトルは、いずれも1940年に銃殺され、のちに名誉回復がなされた。

栄誉

1941年1月24日、エジョフの勲章称号は全て剥奪された[87]

評価

同時代

革命後、赤軍の上司は、エジョフは病欠が多く、「頑固で短気」であると記録した[31]

1920年代のエジョフについて、党中央委員会の組織・配分委員会会長イワン・モスクヴィンは「私はエジョフ以上に理想的な労働者を知らない。労働者というよりは、『仕事人』と呼ぶべきだろうか。彼に何かを任せれば、確認せずとも、確実に遂行してくれる。しかしながら、彼には重大な欠点が1つだけある。『止め時を知らない」という点だ。実行が不可能であったり、止めるべき状況であったとしても、彼は止めないのだ。止めさせるために、傍に付いていなければならない時もあるほどだ」と語り[20][3]、「狙い通りに仕事をしてくれるが、限度を知らないというのが玉に瑕だ」とエジョフを評した[31]

当時、カザフスタンにいた作家のユーリイ・ダンブロフスキーロシア語版は、エジョフについて、「エジョフのことを悪く言う知人はいなかった。エジョフは思い遣りがあり、穏やかで、頭の回転が速い人だった」と語っている[32][21][22]。エジョフは控えめに振る舞い、親しみやすく、快活な人物に見え、とても民主的に振る舞い、飲酒と散歩を好み、歌が上手で、詩を作っていたという[22]

1930年代初頭、スフミでエジョフと出会ったナジェージダ・マンデリシュタームは、彼は「控えめで、どちらかと言えば感じの良い人物」で、その物腰や風貌に不穏なものを何ら感じ取らなかった[125]

1936年、ブハーリンはパリでボリス・ニコラエフスキーに次のように語った[126]

私の生涯において、エジョフほど本質的に嫌悪感を催させる人物に出会うことは稀であった。彼を見ていると、私はよくラストリャエフ通りにいた悪童たちを思い出す。彼らのお気に入りの遊びといえば、猫の尻尾に灯油を浸した紙切れを結びつけて火を放ち、迫りくる炎を振り払おうともがいて狂乱の恐怖に駆られながら通りを駆け回る猫の姿を眺めて楽しむことだった。エジョフもまた、子供時代にこうした遊びに興じていたに違いなく、今も形を変えて同じようなことを続けている。

1936年3月、ニコラエフスキーはニコライ・ブハーリンと会った。ブハーリンは、ニコラエフスキーがドイツから密かに持ち出していたマルクスの自筆原稿の買い取り交渉を行うためスターリンに派遣されていた。ニコラエフスキーの提示した価格をスターリンは拒否し、交渉は決裂した。二人の対話は2ヶ月間に及び、ニコラエフスキーの著書『ある「古参ボリシェヴィキ」の手紙』としてまとめられ[127]、これは1930年代のソ連政治の重要資料と評されている[128]。ブハーリンのエジョフ評は同書に掲載されている。

ニコライ・ブハーリンの妻、アンナ・ミハイロヴナ・ラリーナロシア語版1937年に逮捕され収容所暮らしを送ったが、1988年に発表された回顧録では、自身が収容所にいたころエジョフは「『どんな些細な要求にも応え、可能な限り助けようとしてくれた』と述べた人々に出会った」と書き残している[129]

元GRU(ソ連軍参謀本部情報総局)将校のヴィクトル・スヴォロフは1984年に、後のKGB議長イワン・セーロフがイェジョフの死に個人的な役割を果たしたと主張したが、詳細は述べていない[130]

名誉回復請求裁判

1998年ロシア連邦最高裁判所は、スターリンの部下たちに対する名誉回復を求める請求を認可した。ゲンリフ・ヤゴーダ、ニコライ・エジョフ、ラヴリェンチー・ベリヤ、ヴィクトル・アバクーモフは、何の罪もない人々に対して行われたときと同じく、罪をでっちあげられて逮捕され、裁判にかけられ、処刑された。これらスターリンの配下たちに対して提起された公式の告発には、諜報活動、妨害行為、「右翼的傾向」、トロツキズム、テロリズム、反逆罪、その他の「反ソ連の犯罪」が含まれていた[9]。なお、サムイル・ジェノトゥキンは1994年5月に名誉回復となっている。

1998年、ロシア連邦最高裁判所軍事諮問委員会は、エジョフについて「名誉回復の対象ではない」と宣言した[24]。諮問委員会は、「エジョフは、本人にとって望ましくない人物の殺害を数多く組織した。本人の妻を含めて、彼にとって好ましくない人物を殺した。エジョフはソ連と友好国の関係を悪化させ、ソ連と日本の軍事衝突を促進した。エジョフの命令に従い、内務人民委員部の将校の作戦によって、1937年から1938年の間だけで150万人以上の市民が弾圧され、そのうちの約半数は銃殺されたのだ」との声明を発表した[55]。エジョフの名誉回復は拒否されたが、エジョフの行動の一部については「無罪である」と示唆された[9]。ロシア連邦最高裁判所は、エジョフについて「自ら組織したテロリズムの犠牲者となった、と見做すわけにはいかない」との結論を下した。

エジョフの後任となったラヴレンチー・ベリヤの名誉回復についても拒否する宣言が2000年に下された。ベリヤは「政府の高位」に就いており、「『弾圧、すなわち自国民に対する大量虐殺』を組織した。政治的弾圧の犠牲となった者たちの名誉回復に関する法律は、ベリヤには適用されない」との決定が下された[9]

こうしてエジョフは大粛清での役割のため、ソ連およびロシア当局によって公式に名誉回復されていない[131][132]

エジョフやベリヤらの名前はロシア語において普通名詞となり、「Бериевщина」(「ベリヤ体制」)、「Ежовщина」(「エジョフ体制」)と呼ばれるようになった。彼らはいずれも死刑執行人であるが、のちに告発されることになる。ただし、その告発内容については根拠が無い[9]

歴史学者のナンシー・アドラーは、「彼らの死後の名誉回復の可能性は、法治国家の構築を目指すロシアにとって、複雑な法的問題を惹き起こすことになる」「1980年代後半から1990年代にかけてのロシアの法律では、死刑執行人に対する寛大さを規定していない。これらの法律は、まさにスターリンの手先である死刑執行人たちの命令で殺された無実の犠牲者たちの名誉を回復するために制定された」「スターリンの手先たちが無罪となった場合、彼らの犠牲者に対する新たな嘲笑を意味することになるだろう。ロシアの人権活動家も、このような行為は民主主義の確立に苦労している国にとって悪しき前例となる、と考えている」と書いた[9]

大粛清について

エジョフは、冤罪で告発されている人々がいることを認めたが、粛清が成功する限り、彼らの命は重要ではないと一蹴した。

ファシスト工作員との戦いでは、無実の犠牲者が出るだろう。我々は敵に対して大規模な攻撃を開始している。誰かに肘でぶつかったとしても、恨みは抱かないでほしい。1人のスパイが逃げるよりは、10人の無実の人々が苦しむ方がましだ。木を切ると、木くずが飛び散るものだ。[133]

1937年と1938年だけでも、130万人が逮捕され、68万1692人が「国家に対する犯罪」で銃殺された。イェジョフの指揮下では、グラグの収容者数は68万5201人増加し、わずか2年間でほぼ3倍に膨れ上がった。これらの囚人のうち少なくとも14万人が、収容所内(または収容所への移送中に栄養失調、疲労、悪天候により死亡した[134]

ロシアでは、エジョフはスターリンの命令で行った大粛清の残虐行為の責任者として知られている[135]

しかし、歴史家のオレグ・フリエヴニュークロシア語版は「スターリンの立場こそが、大粛清の激化に決定的な役割を果たした。1938年1月17日、スターリンは内務人民委員エジョフに対し、新たな指令を与えた...この指令は、大粛清を主導する組織においてスターリンが果たした決定的な役割と、スターリンによる命令の執行者としてのエジョフの従属的な立場を示す証拠の一つにすぎない。粛清と大規模な実行に関するすべての重要な決定を開始したのはスターリンであることを示す文書は数多く残っているのだ」と書いた[136]

人物

身長

エジョフは身長が151cmであった[30]。これはロシア人としては非常に低かった。1930年当時のロシア人男性の平均身長は169.5cmであり、日本の162.7cm、最下位のラオスの157cmよりも低かった[137]。エジョフは背の低さをごまかすためにヒールの高い靴をはいていた[34]

スターリンも身長が平均より低く、2アルシンと4.5ヴェルショーク(vershok)で、162.5cm〜163cmだった[138][139] [140][141]。スターリンも特製の底上げのブーツを履いており、身長を170cmほどに見えるように意識していた。

アルコール依存症

1930年11月にエジョフはスターリンの側近になったが、すでにアルコール依存症だった[34]

大粛清の最盛期には昼夜問わず飲酒し、身なりもだらしなくなっていた[117]。1938年8月22日にラヴリェンチー・ベリヤが長官代理筆頭に任命されると、エジョフは「我々はもう必要とされなくなった。面倒な証人として消されるだろう」と周囲にこぼし、酒におぼれ、執務室にも午後3時か4時に出勤するようになった[56]

あだ名

その体格とサディスティックな性格から、「毒のドワーフ」「血塗れのドワーフ」「赤いドワーフ」というあだ名がついた[142]。ほか、ブラックベリーを意味するエジェヴィカ Yezhevika (Ежевика)[143]、「鉄のコミッサール」「鉄のハリネズミ」などもある[144]。「ボリシェヴィキのマラー」ともよばれた(次節参照)[48]

ボリシェヴィキのマラー

エジョフは、フランス革命時に反革命分子の処刑を執拗に要求したジャン=ポール・マラーに似ているとされ、「ボリシェヴィキのマラー」とよばれた[48]。エジョフは「無実のものが殺されるのは仕方がない」「むだに銃殺されたものが1000人いても騒ぐほどのことではない」「卵をわらなければオムレツは作れない。仕事して成果をだし、逮捕者数で抜きん出よ」と命じた[48]

エジョフ長官はみずからすすんで拷問の場に行き、血飛沫の飛んだシャツのまま執務室に戻り、「革命の敵の血だから、このシミを誇りに思う」と部下に語った[48]。また、エジョフは、かつての上司ヤゴーダを「我々全員になり代わってめった打ちにせよ」と激しく殴打してから銃殺せよと部下に命じた[48]

エジョフは「耳と鼻を切り取って、目をくりぬき、ばらばらにせよ」と命じたこともあり、ジノヴィエフとカーメネフを殺害した銃弾を封筒にいれて保管する趣味も持っていた[117]

出典

参考文献

関連項目

外部リンク

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