エリック・アンソニー

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生年月日 (1967-11-08) 1967年11月8日(57歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
エリック・アンソニー
Eric Anthony
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サンディエゴ[1][2]
生年月日 (1967-11-08) 1967年11月8日(57歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1986年 MLBドラフト34巡目
初出場 MLB / 1989年7月28日
NPB / 1998年7月14日
最終出場 MLB / 1997年9月27日
NPB / 1998年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

エリック・トッド・アンソニーEric Todd Anthony , 1967年11月8日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ出身の元プロ野球選手外野手一塁手[2]。左投左打[2]

マイナー時代

テキサス州ヒューストンシャースタウン高等学校英語版に在学していた1986年6月、MLBドラフト34巡目でヒューストン・アストロズから指名され、入団した[2]

1987年から1989年まで3年連続でマイナーリーグ本塁打王を獲得した[2]

1987年はルーキーリーグのガルフ・コーストリーグ (GC) アストロズ英語版で10本塁打に加え、46打点を記録して本塁打王と打点王の二冠王を獲得[2]1988年はA級アシュビルで29本塁打、1989年はAA級コロンブス英語版で28本塁打を記録した[2]

MLB時代

1989年7月28日にアストロズでメジャーデビューした[1]。それ以来、1997年までの9年間にわたりMLBでプレーし、通算682試合出場、打率.231、78本塁打、269打点の成績を残した[3]

アストロズ時代の1992年からクリーンアップに定着し、同年は本塁打の出にくいアストロドームを本拠地としながら19本塁打を記録した[2]。この19本塁打はナショナルリーグ14位、80打点もリーグ15位だった一方、98三振もリーグ16位だった[1]

1993年にも145試合に出場して15本塁打を記録したが、一塁手としてジェフ・バグウェル外野手としてもデレク・ベルらが台頭したことによって出場機会が減少した[2]。同年オフにはシアトル・マリナーズに移籍し、1994年は79試合に出場して打率.237、10本塁打、30打点を記録したが、オフに解雇された[4]1995年1996年デーブ・ジョンソン監督を務めていたシンシナティ・レッズに所属した[2]

1996年の前半戦はレッズで47試合に出場、打率.244、8本塁打、13打点を記録[4]。後半戦はコロラド・ロッキーズで32試合に出場し、打率.242、4本塁打、9打点を記録した[4]、閉幕時点ではロッキーズに所属しており[5]、同年の年俸は100万ドル(当時の為替レートで約1億1200万)だった[6]。一方で同年シーズン途中にはダイビングキャッチの際に左肩を負傷していた[4]。同年オフにフリーエージェント (FA) の権利を行使したが、同年までにMLB通算76本塁打を記録していた[7]。同年オフにはNPB阪神タイガースマーク・スウィーニーセントルイス・カージナルス)、マーク・ウィッテン英語版、(シアトル・マリナーズ)、ケビン・ロバーソンシカゴ・カブス傘下AAA級)、ロベルト・ペタジーニニューヨーク・メッツ)らとともにアンソニーを新外国人選手候補として調査していた[5]。後に候補はアンソニーとロバーソンの2人に絞られ、アンソニーを獲得する場合は年俸約2億円を含めた約3億円近い資金を用意する必要があると報じられたが、アンソニーには左肩の故障歴があることが懸念事項となっていた[6]。最終的に阪神はアンソニーについて、故障歴の多さなどから獲得を断念、リストアップされていなかったマイク・グリーンウェルの獲得に方針転換した[8]

1997年ロサンゼルス・ドジャースで47試合に出場し[2]、打率.243、2本塁打、5打点を記録した[9]。同年は5月7日、ブレッド・バトラーの故障者リスト入りに伴って傘下のAAA級アルバカーキからドジャースへ昇格した[10]。また9月1日からMLBの出場選手登録枠が25人から40人に拡大されたことに伴ってエディ・マレーデニス・レイズポール・コナーコヘンリー・ブランコアダム・リッグスウェイン・カービー英語版マイク・ハーキーらとともにAAA級アルバカーキからメジャーに再昇格したが[11]、打率.243の成績で、10月3日にはカービー、ネルソン・リリアーノとともにアルバカーキへの降格を通告され、自由契約選手扱いを希望し、自由契約となった[12]。同年オフには福岡ダイエーホークスが、プロ野球脱税事件に関与したとして翌1998年シーズン開幕から出場停止処分を受けることになった小久保裕紀の代役として、アンソニーの獲得を検討したが[13]、実際に獲得することはなかった。

1998年はドジャース傘下のAAA級アルバカーキでプレーし、6月16日時点で打率.305、10本塁打、26打点、長打率.548、得点圏打率.418の好成績を残していた[14]

ヤクルト時代

1998年6月、野村克也監督を務めていたNPBのヤクルトスワローズがアンソニーの獲得に動き[14]、同月19日にアンソニーの身分照会を行った[2]。ヤクルトは同月29日にアンソニーの獲得を発表[15]、アンソニーは同日に支配下選手登録された[16]背番号は9で[17]、契約金は移籍金込みで70万ドル(当時の為替レートで約9500万円)[2]、年俸は40万ドル(約5680万円)[3]。同年のヤクルトは6月20日時点で、前年の1997年本塁打王を獲得したドゥエイン・ホージーが膝痛によって低迷し[18]、打率.264、6本塁打と不振にあえぎ、大砲候補として期待されていた新外国人のライル・ムートンも打率.241、3本塁打と低迷していたことから、当初の新外国人投手獲得の方針から一転して野手獲得を目指していた[2]。なお、アンソニー獲得によって支配下選手の人数が規定の70人を超えることになったため[9]、ムートンはアンソニー獲得発表前の同月23日に解雇が決まり、セ・リーグからウェイバー公示され[19]、同月29日にNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示された[16]

アンソニーは同年7月11日に来日し[20]、同月14日の対阪神タイガース13回戦(明治神宮野球場)で五番打者一塁手として初出場を果たすが、3回表の守備で宮本慎也からの送球を右脚を伸ばして捕球したところ、右脚に全体重がかかったことで脚を痛め、その裏の打席では三塁ゴロを打った際に野村から禁止されていたダッシュをしたことで太腿を痛めて途中交代[21]、右大腿二頭筋挫傷と診断された[22][23]。翌15日の対阪神14回戦も欠場し[24]、同月19日には出場選手登録を抹消されるが[25]オールスターゲーム後の同月29日に再び出場選手登録され、同日に明治神宮野球場で開催された対読売ジャイアンツ(巨人)22回戦には代打で出場する[26]。初安打は18打席目の8月9日と遅く[27]、その間に6三振を記録、同月11日までに27打席3安打と苦戦していたが[28]、来日9試合目となる同月12日の対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)で、9回表に小林幹英の外角直球を打ち、来日初本塁打となる勝ち越し・決勝の左越え本塁打を放った[29]。本人はこの試合の前日、野村から「力まず軽く打て」とアドバイスを受けたことが結果を出すきっかけになったと語っている[29]。同年8月18日の対中日ドラゴンズ18回戦(明治神宮野球場)では同点で迎えた延長10回裏、日笠雅人から来日初のサヨナラ本塁打となる3号2点本塁打を放った[30]。この試合までに13試合に出場していたが、3本塁打を記録した一方、打率は.211と低かった[31]。同月20日の対中日20回戦でも正津英志から4号1点本塁打を放った[32]。同月29日の対中日21回戦(ナゴヤドーム)では同点の9回表、正津から決勝打となる来日初の満塁本塁打(シーズン6号)を放った[33]。流し打ちで広いナゴヤドームの左中間まで届く打球を放ったことから、野村からは「あれがメジャー。右の清原が打った感じ。日本人にはマネできない」と絶賛していた[34]。翌30日の対中日22回戦(ナゴヤドーム)でも、3対3の同点で迎えた延長12回表に二死満塁で打席に立ち、最終的に12回を203球で完投した野口茂樹から決勝2点打を放った[35]。このような活躍から「中日キラー」とも称されていた[36]。最終的に8月中に6本塁打を記録する[27]。8月25日から9月7日にはセ・リーグのIBM・BIS週間ベストプレーヤー賞を受賞した[37]

同年9月13日の対広島27回戦(最終戦、広島市民球場)では5回表に黒田博樹から11号逆転3点本塁打、9回表に玉木重雄から12号2点本塁打を放った[38]。前日の試合でも本塁打を放っていたため、2試合連続本塁打であり[39]、そしてその週では5本塁打目となった[40]。9月は同日までに6本塁打を記録しており、また6月と7月に各1本塁打にとどまっていたホージーも8月25日・26日に8号・9号を打ち、9月には4本塁打を打った[27]。またチームは9月、リーグ優勝を狙う横浜ベイスターズとの直接対決が12試合あったが、うち7試合に勝利した[27]。しかし9月15日の対中日23回戦(明治神宮野球場)で右脇腹を痛め、翌16日の対中日24回戦を欠場した[41]。さらに同月20日にも左太腿裏に軽い肉離れを起こし、同日の対横浜21回戦を欠場した[42]

最終的には44試合に出場して151打数、37安打、打率.245、12本塁打、31打点、53三振、長打率.523、出塁率.325を記録した[43]。打率こそ低いながら勝負強さを発揮したが[18]、故障がちで安定して力を発揮することはできず[44]、チームの低迷脱出には貢献できなかった[45]。ヤクルトは同年オフに新外国人としてペタジーニを獲得することを決めたため、アンソニーとホージーの解雇を決め[46]、2人は同年11月9日にNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示された[47]

ヤクルト退団後

ヤクルト退団後、1999年はAAA級アルバカーキ、2000年独立リーグであるアトランティックリーグに加盟するサマセット・パトリオッツ2001年メキシカンリーグモンテレイ・サルタンズでプレーし、2001年限りで現役を引退した。

選手としての特徴・人物

長打力があり、右投手を得意としていた[7]。アストロズ時代の1992年から1993年ごろは引っ張る打法で本塁打を量産していたが、マリナーズ・メッツ時代は一転して左打席からの流し打ちが多くなり、本塁打も減少したと評されていた[2]。来日時はフィールド全体を使って安打を打つ広角打法が持ち味と評されていたが[48]、『サンケイスポーツ』専属評論家の伊東一雄はヤクルト入団当時のアンソニーについて、狭い明治神宮野球場ならば左翼方向への本塁打もかなり見込めると評していた[2]

打撃だけでなく、外野の守備と俊足による広い守備範囲にも定評があった[4]。本来は外野手だったが、一塁手も守れる選手という触れ込みであり[2]、ヤクルト時代は外野手としての出場は1試合のみで[49]、42試合で一塁手として起用された[50]。唯一外野手として起用された試合は、四番打者・右翼手として先発出場した1998年9月19日の対横浜20回戦(明治神宮野球場)である[51]。この試合では川崎憲次郎偵察要員の一塁手として先発出場し、副島孔太に交代した[51]

ヤクルト時代は試合中、常に監督である野村克也の近くに座り、通訳を通じて野村の野球理論を聞きながら日本野球を研究していた[52]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 HOU 2570617112042570000920161.180.286.410.696
1990 8427723926468010842950162932784.192.279.351.630
1991 39132118111860127710021210412.153.227.229.456
1992 13748344045105151191798054043851987.239.298.407.705
1993 14553948670121194151936635024922889.249.319.397.716
1994 SEA 792882623162141101083062212340667.237.297.412.709
1995 CIN 471501341936605572321031320301.269.327.425.752
1996 471451232230608601301002220362.244.359.488.846
COL 327362101520429901011000201.242.342.468.810
'96計 79218185324580121112202013220563.243.353.481.834
1997 LAD 47867481832231520001210180.243.349.419.768
1998 ヤクルト 4416915120376012793101001800535.245.325.523.849
MLB:9年 6822243199924946281878793269241431921722549134.231.305.397.702
NPB:1年 4416915120376012793101001800535.245.325.523.849

記録

NPB

背番号

  • 23 (1989年 - 1991年)
  • 21 (1992年)
  • 24 (1993年)
  • 5 (1994年)
  • 9 (1995年、1998年)
  • 19 (1996年 - 同年途中)
  • 29 (1996年途中 - 1997年)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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