野口茂樹
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
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| 出身地 | 愛媛県東予市北条[1](現:西条市北条) |
| 生年月日 | 1974年5月13日(51歳) |
| 身長 体重 |
179 cm 88 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1992年 ドラフト3位 |
| 初出場 | NPB / 1994年8月25日 |
| 最終出場 | NPB / 2007年8月14日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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コーチ・監督歴 | |
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この表について
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野口 茂樹(のぐち しげき、1974年5月13日 - )は、愛媛県東予市北条(現:西条市)北条出身[1]の元プロ野球選手(投手、左投左打)、野球指導者。
現役時代はNPBの中日ドラゴンズでエースとして活躍し、1999年には19勝を挙げてチームのセントラル・リーグ優勝に貢献、リーグ最優秀選手賞 (MVP) を受賞した。また1998年にはセ・リーグ最優秀防御率のタイトルを獲得、2001年にも最優秀防御率と最多奪三振の投手二冠を獲得した。現役引退後は球界を離れ、愛知県西尾市の一般企業に勤務している。
プロ入り前
東予市立多賀小学校、東予市立東予東中学校出身[2][3]。東予東中学校3年生だった1989年、愛媛県中学総体で優勝。準々決勝から決勝まで3試合連続で完封した。四国総体では高知県の伊野町立伊野中学校と香川県の高松市立香東中学校に敗れ、4位に終わる[4]。
1990年、地元の愛媛県立丹原高等学校に入学。甲子園常連高から入学の誘いがあったものの、競争をするのは嫌だという理由で全て断っていた[5]。2年次の1991年夏、愛媛大会では3回戦で前年の覇者・松山商業高校を破りベスト8に進出。初戦の弓削高校戦から準々決勝の新居浜西戦までの4試合32イニングスで40奪三振の大会新記録を樹立した[6]。3年次の1992年春の県大会で東予地区予選の新居浜南高校戦で8回参考記録ながらノーヒットノーランを達成。準決勝の八幡浜高校戦では、5回から7回までの9人連続を含む19奪三振を記録した。決勝でも、新居浜東高校から先発全員の14三振を奪い、チームを初優勝に導いた。しかし、センバツ帰りの松山商業とのチャレンジマッチでは、2回途中に肘の痛みを訴えて降板。3-9で敗れた。この春の愛媛大会では38投球回で73奪三振を記録した[2]。甲子園出場の期待がかかった夏の県大会では3回戦で、今井圭吾擁する伊予高校と対戦。延長10回の熱戦の末投げ勝ちベスト4に進んだが、またしても松山商業に敗れ甲子園出場はならなかった。
1992年度のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けて入団した。同年のドラフト会議で中日が指名して交渉権を獲得した選手では唯一の高校生だった[2]。担当スカウトは早川実[7]。入団当時の背番号は57[2]。
中日時代
高木守道が監督を務めていた1年目の1993年は一軍登板はなかった。入団当初は制球力に難があった[8]。
1994年にはコロラド・ロッキーズ傘下のマイナーリーグA級セントラルバレー・ロッキーズに野球留学した。8月25日の対広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)で一軍(セントラル・リーグ)公式戦初登板を果たす[3]。
1995年はチームが低迷しペナントレースから早々に脱落。高木がシーズン途中で監督を解任されたチーム事情もあり、若手の先発候補として積極起用される。四球で自滅する不安定な投球も多かったが、5月4日の対横浜ベイスターズ戦では延長11回無失点の力投を見せた。同月17日の対広島戦(ナゴヤ球場)でプロ初勝利を挙げたが、同年は3勝10敗、防御率4.80の成績に終わった[3]。
星野仙一が新監督に就任した1996年、オープン戦で2試合連続で大量失点したことから星野に「おまえはずっと立っとけ!」と一喝され、ベンチのバットケースのそばで、試合終了まで直立不動をしていた。しまいには、そんな様子がテレビ中継に映り込んでいたなど下手をすれば炎上にもなることがあった[9]。さらには開幕から一軍の先発ローテーションに入るが勝ち星を挙げられず、4月末には先発ローテーションを外され二軍(ウエスタン・リーグ)へ降格した。7月には再び先発復帰し、同月11日にはプロ初完投勝利を記録。8月11日、東京ドームで開催された対読売ジャイアンツ(巨人)戦では矢野輝弘とバッテリーを組み、四死球を6個与えながらもノーヒットノーランを達成。プロ初完封勝利をノーヒットノーランで飾り、5勝全てを完投で挙げた。8月31日の対巨人戦(ナゴヤ球場)で、落合博満に死球を与え骨折させた。
1997年の春季キャンプ時点では門倉健と共に、投手コーチの小松辰雄から「10から15勝(は計算できる)」と期待を掛けられていたが[10]、肩の怪我によりシーズンの大半を二軍で過ごし、8月から一軍の先発ローテーションに復帰したが未勝利に終わった。
1998年、同年より投手コーチに就任した宮田征典の指導によって、課題であった制球力が飛躍的に改善。山本昌、門倉、そして新人の川上憲伸と共に先発ローテーションを担い[11]、14勝9敗を挙げ、規定投球回に到達して防御率は2.34を記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。14勝は川上と並ぶチーム最多タイであった。また同年にはオールスターゲーム初出場を果たし、ナゴヤドームで開催された第1戦で中継ぎ登板し、イチローを二塁ゴロ、城島健司を遊撃ゴロに打ち取った[12]。8月30日の対ヤクルトスワローズ戦では、延長12回・203球を投げた。なお、この日の野口を最後に現在まで1試合200球以上投げた投手はいない(野口以降の最多投球数は、2006年8月25日、千葉ロッテマリーンズ戦での有銘兼久(東北楽天ゴールデンイーグルス)が記録した188球)。同年、セ・リーグ優勝を達成した横浜相手には5勝3敗と好成績を記録した[13]。同年オフには沢村賞選考委員会で、セ・リーグ最多勝利のタイトルを獲得した川崎憲次郎とともに最終選考まで残り、最終選考では同年にセ・リーグ優勝を果たした横浜との優勝争いの軸として活躍したことを理由に、選考委員5人のうち平松政次(当日は所用で欠席)と稲尾和久の2人から推薦を受けたが、それ以前から川崎を推薦していた土橋正幸と別所毅彦の2人に加え、最終選考前に落選した石井一久を推薦していた藤田元司も川崎を支持したため、野口は2対3で受賞を逃した[14]。
1999年は前年に自身と同じく14勝を挙げた右投手の川上と共に左右のエースとして期待され[15][16]、開幕後はシーズンを通して川上や山本昌、同年に福岡ダイエーホークスから加入した武田一浩と共に先発4本柱を担った[17]。12試合目の登板となった6月20日の対広島戦(岩手県営野球場)では5回まで相手打線を無失点に抑えながら、6回途中で5失点を喫してノックアウトされ、4敗目(5勝)を喫したが[18]、それ以降は練習でアメリカンノックやランニングの量を増やして下半身から鍛え直し[19]、13試合目の登板となった同月26日の対横浜14回戦(ナゴヤドーム)では相手のマシンガン打線を散発5安打に抑え、5月30日に挙げた5勝目以来となる6勝目を、前年8月4日以来となる完封勝利で挙げた[13]。それまでの試合では6回途中降板が続いていたが、前日の同カードで武田が完封勝利を記録したのに続いて2試合連続完封を達成、チームとしては前年9月27日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で川上が、続く29日の対広島戦(広島市民球場)で門倉が連続完封して以来であり、対横浜戦では1993年5月7日と8日にナゴヤ球場で山本昌と鶴田泰が記録して以来6年ぶりでもあった[13]。野口自身の完封は通算4回目だが、それまでの3試合(うち1試合はノーヒットノーラン)と比べると球数109、与四死球1はいずれも最少であり、一方で内野ゴロ17個を記録していた[13]。その後、野口はオールスター戦後となる8月2日の対阪神戦まで6連勝を記録した[19]。特に6月下旬の対横浜戦から7月のオールスターゲーム前にかけて、野口はそれぞれ右投手である川上や武田と共に先発3本柱として位置づけられ[20][21]、各カードの初戦は彼ら3人のうち誰かが先発する先発ローテーションが組まれ、この間にチームは7月20日の対巨人戦で川上が敗戦投手になるまで7カード連続で初戦を制し、8連勝を含む16勝5敗と好成績を残した[22]。野口自身も7月は登板した4試合すべてで勝利投手になり、また防御率もリーグトップの1.34を記録したことが評価され、同月のセ・リーグ月間MVP(投手)を初受賞した[19]。2年連続で出場を果たしたオールスターゲームでは、7月27日に開催された第3戦(倉敷マスカットスタジアム)で先発登板し、2イニングを投げて3奪三振、無失点と好投、イチローを遊撃ゴロ、城島を二塁ゴロ併殺打に打ち取り、優秀選手賞を受賞した[12]。最終的にシーズン19勝7敗という成績を残し、チームのセ・リーグ優勝に大きく貢献。シーズン最終戦となった10月10日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)では、チームとしては1989年の西本聖以来10年ぶりとなる20勝を狙い、9回裏2死まで無失点に抑えたが、打線の援護がなく、9回2死二、三塁の場面で馬場敏史に強襲安打を許してサヨナラ負けを喫し、上原浩治と1勝差で最多勝利のタイトルを逃した[23]。またセ・リーグ投手部門のベストナインも上原が受賞している。一方で最優秀選手 (MVP) の投票では、リーグトップとなる投球回203イニング2/3、また11年ぶりにリーグ優勝を達成したチームの主戦投手としてフル回転したことを評価され、上原を抑えて野口がMVPを受賞、セ・リーグの投手としては初めてドラフト2位以下の指名選手としてMVPを受賞した選手になった[24]。日本シリーズでは第1戦と第5戦に登板するが、いずれも敗戦投手となり1勝4敗で福岡ダイエーホークスに敗退。第1戦は0-0の6回に秋山幸二に先制ソロ本塁打、小久保裕紀と城島健司に連続四球で6回途中で降板し、後続の岩瀬仁紀が打たれ3失点(自責点も3)、第5戦は1点リードの3回に自身の失策で満塁とすると、福留孝介の失策に城島と松中信彦の適時打で一挙6点を失い4回で降板した(自責点は0)。同年オフには前年比5000万円増額の年俸1億1500万円に加え、MVPのタイトル料500万円を加えた総額1億2000万円で契約更改した[25]。一方で同年12月15日から7泊9日のラスベガスへの優勝旅行には参加せず。2年間で395イニング2/3を投げた体を休める考えも示していた[25]。
2000年、自身初の開幕投手を務めるも前年のような投球ができず、9勝11敗の成績で終わった。一時は先発から中継ぎに配置転換されていたが、8月26日に武田一浩が出場選手登録を抹消され、代わって山北茂利が出場選手登録された際、山北を中継ぎで起用するため、再び先発に配置転換された[26]。
2001年は防御率2.46、187奪三振を記録し、2度目の最優秀防御率のタイトル獲得に加え、初の最多奪三振も獲得、セ・リーグ投手二冠となった[27]。また投球回193イニング2/3はリーグ最多であった[28]。完投数も初めて2桁(11完投)に到達。5月24日の対阪神戦(石川県立野球場)でセ・リーグのタイ記録となる1試合16奪三振を記録、また8月26日の対巨人戦(東京ドーム)で4試合連続無四球完投勝利(NPBタイ記録)を達成した[27]。その次の登板となった9月1日の対横浜戦(ナゴヤドーム)ではNPB新記録となる5試合連続無四球完投を目指したが、同点で迎えた9回表2死一、三塁、2ストライク3ボールの場面で谷繁元信に適時打を打たれ、その直後にはジョン・ズーバーに四球を与えたため、連続無四球完投記録は途切れた[29]。最終的には12勝9敗の成績を残し、完封および無四球完投もそれぞれ5回を記録した[27]。一方で、開幕8連勝を達成するも初黒星を喫するとそこから3連敗。一つ勝って連敗二つ勝って連敗と好不調の波が激しく、6月以降はチームの低迷も重なり一度も勝ち越す月が無かった。9月22日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で12勝目を挙げた時点では、リーグトップの14勝を挙げていた藤井秀悟に2差としており[30]、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振の投手三冠も視野に入っていたが、終盤に疲れから調子を落としたため、勝ち星に恵まれなくなり、最多勝のタイトルは逃し[31]、藤井の14勝、入来祐作の13勝に次ぐリーグ3位タイの12勝(小宮山悟、黒田博樹、石井一久と同数)に終わった[28]。また自身のシーズン最終戦となった9月29日の対阪神戦(ナゴヤドーム)で左腕を痛めた[27]。同年オフには星野が監督を辞任し、投手コーチだった山田久志が新監督に就任。同時にチームはFAの権利を行使してメジャーリーグ (MLB) 移籍を目指したものの断念した前横浜の谷繁を獲得したが、これに伴い活躍の場を奪われる危機感を感じた中村武志が移籍を志願して横浜へトレード移籍した[注 1]。同年にはそれぞれチームMVPとされるドラゴンズクラウン賞(ファン投票により選出)[31]、昇竜賞をそれぞれ受賞した[27]。同年は沢村賞の選考基準6項目のうち3項目をクリアしており、特に防御率(選考基準2.50)は2.40と、松坂大輔や藤井秀悟を加えた候補者3人の中で唯一基準を満たしていたが[32]、勝ち星が12と少なかったことから、15勝を挙げるなど4項目をクリアしていた松坂大輔に敗れた[33]。
2002年には「名実ともに、日本プロ野球界を代表する左腕」と呼ばれていた[34]。しかし同年2月、北谷春季キャンプの紅白戦で登板したところ、左肘への違和感を訴えて1イニングで降板[35]、沖縄から名古屋に戻って愛知県名古屋市内の病院で検査を受けたところ、左肘内側靱帯損傷と診断された[36]。当初は肘を動かすこともできない状態で、手術も検討されたが、懸命にリハビリに励み、痛みを解消[37]、4月19日にはブルペンでの投球を開始した[38]。その後、6月3日にはブルペンでの投球練習に加え、二軍打者相手に打撃投手として投げるようにもなり[39]、7月14日には初めてシート打撃に登板[40]、同月18日のウエスタン・リーグ対広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)で実戦復帰を果たす[41]。以降、その試合を含めて4回の実戦登板を経て[42]、9月6日に一軍へ合流[43]、同月8日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)で一軍復帰後初登板を果たすが、この試合では4イニングを投げて5失点だった[44]。同月15日の対広島戦(広島市民球場)では8イニングを投げて4被安打3失点という成績で、1点本塁打を3本被弾したが、シーズン初勝利を挙げた[37]。同月22日の対横浜戦(ナゴヤドーム)では本拠地・ナゴヤドームで同年唯一となる初登板を果たしたが、5イニングを投げて7被安打、2失点という結果で、勝利投手にはなれなかった[45]。同月29日の対巨人戦(東京ドーム)では7イニングを投げ、松井秀喜に2点本塁打を被弾するも、失点はその2点のみに抑え、2勝目を挙げた[46]。同年は5試合に登板したのみで、2勝1敗の成績に終わった[47]。同年は思うような投球ができなかったといい、オフは走り込みと筋力トレーニングに励み、また同シーズン限りで選手寮を退寮した[48]。
2003年、開幕第3戦で初先発するも5回を持たずに降板する。その後、野口が先発する試合では正捕手の谷繁ではなく柳沢裕一、中野栄一と捕手を代わる代わる変更させるなど試行錯誤したが、好不調の波が激しく防御率は4点台中盤で9勝11敗の成績であった。辛くも規定投球回に達したが、不安定な投球の一方で高い奪三振率を記録した。山田も9月7日に監督を解任された。
2004年、落合博満が監督に就任。谷繁とバッテリーを組む機会が増えるが衰えや相性の悪さから低調な成績が続く。6月6日に二軍降格を命じられた際は二軍で徹底的な走り込みを行い、同月20日の対横浜ベイスターズ戦(ナゴヤドーム)では完封勝利を挙げたが、同月27日の対阪神戦(ナゴヤドーム)で4勝目を挙げて以降は勝ち星を挙げられなかった[49]。同年8月7日の対広島戦(広島市民球場)では初回に2番打者のアンディ・シーツに2点本塁打を被弾、続く3番打者の嶋重宣は二ゴロに打ち取るも4番打者のグレッグ・ラロッカ、5番打者の前田智徳に2打者連続本塁打を被弾し、最後には6番打者の緒方孝市に二塁打を許したところでKOされた(自責点は5)[49]。投球回1/3イニングでのKOは自身のプロ入り後最短、そして1イニング3被本塁打もプロ入り最多で、試合中に落合から二軍落ちと名古屋への強制送還を言い渡された[49]。その次の登板となった8月21日の対横浜戦(横浜スタジアム)でも[50]、3回にタイロン・ウッズからソロ本塁打を打たれると、続く4回には佐伯貴弘に3点本塁打を被弾、直後にはウッズに2本目のソロ本塁打を打たれるなどして[51]3イニングで7失点KOされ、投手コーチの森繁和から「使ったオレが悪い」と酷評された[50]。それ以降登板機会が減り、一軍と二軍を行き来する状況となる。シーズン成績は4勝8敗・防御率5.65(17試合)。チームは5年ぶりにリーグ優勝したものの、日本シリーズでは登録メンバーから外れ、登板機会がなかった。オフには球団首脳から「トレード要員」と明言され[52]、当時近鉄・オリックスの合併に端を発するプロ野球再編問題の中で、合併新球団オリックス・バファローズへの移籍を拒否していた岩隈久志(後に東北楽天ゴールデンイーグルスへ金銭トレード)との交換トレードも取り沙汰されたが[53]、最終的には中日に残留している。
2005年の開幕は二軍で迎えた。5月に入り一軍昇格し、同月15日の福岡ソフトバンクホークス戦で初先発するも、3回3失点でKOされ敗戦投手となり二軍落ち。再昇格後の6月9日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦では谷繁とのバッテリーで完封しシーズン1勝目を挙げた(かつてバッテリーを組んだ中村武志とも1打席対決している)が、調子が上向くことはなかった。9月4日のヤクルト戦では2回まで無失点も、3回に岩村明憲に逆転3点本塁打を打たれ、2回2/3を3失点で敗戦投手となり試合後に二軍降格[注 2]、そのままシーズンを終了した。13試合の登板で3勝6敗・防御率4.00の成績に終わった。シーズンオフにFA権を行使し、11月17日に2年契約・年俸1億円で巨人へ移籍。それに伴う人的補償として小田幸平が中日へ移籍することとなった。ちなみに、中日の生え抜き選手で、FAにより初めて国内移籍したのは野口である。
巨人時代
2006年、内海哲也や高橋尚成、野口と同じく新加入したジェレミー・パウエルらが一軍の開幕ローテーション入りを果たしたため二軍スタートとなった。上原浩治や高橋尚成らの故障もあり、5月14日の西武ライオンズ戦にて移籍後初登板初先発を果たす。味方が初回に1点を先制するも、その裏に5失点を喫した。結果的に3回5失点でマウンドを降りたが、チームがその後追いつき負け投手にはならなかった。この試合直後に左肩痛を発症して二軍落ち。その後は出番を与えられず、わずか1試合の登板に終わった。
2007年、開幕ローテーション入りこそ逃したものの、リリーフとして開幕一軍入りし、5月1日に古巣の対中日戦で移籍後初勝利を挙げる。その後もリリーフの一角として登板を続けるが、徐々に打ち込まれるようになり8月中旬に一軍登録を抹消された。プロ入り初の全てリリーフでの登板で31試合登板、防御率は4.30に終わった。プロ入り後、初めて先発登板が一度もないシーズンとなった。契約更改では年俸1億円から75%減の2500万円となった[54]。これは巨人史上当時最大、日本球界全体でも3番目となる減俸率である(金額は推定)。
2008年、先発の内海や、セス・グライシンガー(ヤクルトから移籍)、中継ぎでは山口鉄也、越智大祐らの活躍もあり、ルーキーイヤー以来の一軍登板無しに終わった。10月1日に球団から戦力外通告を受ける。
巨人退団後
12球団合同トライアウトには参加せず、東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受け、鉄平を含む打者5人と対戦。全員を打ち取るも直球のスピードが出ず、合格には至らなかった。その後、12月23日には同じく巨人から自由契約になった門倉健とともにシカゴ・カブスのトライアウトを受けた。
2009年2月12日、トロント・ブルージェイズとマイナー契約で合意したと報道されたが、契約前のメディカルチェックで左肘に異常が見られたため、契約を破棄された[55]。
巨人退団後は株式会社オーガニッククルーの顧問を務める傍ら、「Future's Baseball Academy」のメインアドバイザーを務めていた。
独立リーグ時代
その後、左肘の手術とリハビリを続けたことで、実戦復帰の目処が立ち、2011年5月、三重スリーアローズ(四国アイランドリーグplus)の練習に参加、19日には入団が発表された[56]。同月24日に入団会見を行い、背番号を中日時代と同じ「47」とした。同年シーズン終了後、スリーアローズ解散に伴い退団[57]。12球団合同トライアウトを受験した[58]が、打者5人に対し2四球と結果を残せず、いずれの球団からも誘いが無く、引退を決意した。
引退後
2012年より、愛知県常滑市に拠点を置くNPO法人の社会人野球チーム「NPOルーキーズ」のコーチに就任[59]。2013年は監督兼任投手としてプレーした。さらに、東海ラジオ放送の野球解説者も務めた。
将来は妻の両親が経営する焼き鳥店を継ぐ予定であるとされていたが[60]、2014年2月に石黒体育施設株式会社(本社:名古屋市、スポーツ施設・大規模集会施設の建設・メンテナンス)の営業社員として入社。同社へ小松辰雄が顧問(アドバイザー)就任となったと同時に退社した[61]。2017年、カミヤ電機株式会社(愛知県西尾市)への入社が、オフィシャルホームページ内のブログで伝えられた[62]。現在は同社の営業担当として従事しつつ、中日ドラゴンズが主催する少年野球スクールの講師やスポーツ専門チャンネルの解説も務めている[63]。
選手としての特徴
人物
審判からボールを貰う際、マウンド上で必ず帽子を脱いで礼を表す[64]。中村武志とバッテリーを組んで勝利した際、ヒーローインタビューで「中村さんのおかげです」、「中村さんのミットめがけて投げました」としばしばコメントしていた[64]。
中日の選手寮に10年近く居座ったことから、当時のチームメイトから『宇宙人』の愛称で呼ばれていた[64]。通常、高卒で入団したプロ野球選手は門限など規律が厳しい寮生活を嫌い、4、5年で退寮することが多いが、野口は調子が良い時の生活リズムを変えたくないという理由から、MVPを獲得するなどしても選手寮で合宿生活を続けていた[8]。退寮後は名古屋でホテル暮らしをしていた[64]。巨人移籍後の当初もホテルに住んでいたが、ペーパードライバーで車を運転できなかったことを理由に挙げている[63]。
巨人から戦力外通告を受けた半年後に保育士の女性と結婚。当時の野口はアルバイトをしつつトレーニングを続けたが赤字続きだったため、妻が引退まで家計を支え続けていた[65][66]。
出演番組
- 東海ラジオ ガッツナイター - ゲスト解説
- バース・デイ(2012年10月14日・2015年7月4日、TBS)
- 情報フレッシュ便 さらさらサラダ(2012年11月15日、NHK名古屋放送局)
詳細情報
年度別投手成績
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1994 | 中日 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 45 | 10.2 | 5 | 1 | 10 | 0 | 0 | 11 | 0 | 0 | 3 | 3 | 2.53 | 1.41 |
| 1995 | 30 | 19 | 1 | 0 | 0 | 3 | 10 | 2 | -- | .231 | 564 | 125.2 | 114 | 21 | 83 | 2 | 2 | 110 | 3 | 0 | 72 | 67 | 4.80 | 1.57 | |
| 1996 | 21 | 18 | 5 | 2 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 487 | 114.1 | 104 | 15 | 52 | 2 | 2 | 88 | 4 | 0 | 47 | 41 | 3.23 | 1.36 | |
| 1997 | 11 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 179 | 37.0 | 46 | 2 | 21 | 0 | 3 | 14 | 2 | 0 | 29 | 27 | 6.57 | 1.81 | |
| 1998 | 27 | 27 | 6 | 1 | 0 | 14 | 9 | 0 | -- | .609 | 802 | 192.0 | 174 | 10 | 63 | 4 | 5 | 134 | 8 | 0 | 59 | 50 | 2.34 | 1.23 | |
| 1999 | 29 | 29 | 7 | 4 | 0 | 19 | 7 | 0 | -- | .731 | 870 | 203.2 | 202 | 13 | 67 | 3 | 5 | 145 | 6 | 0 | 68 | 60 | 2.65 | 1.32 | |
| 2000 | 33 | 27 | 4 | 1 | 0 | 9 | 11 | 0 | -- | .450 | 764 | 173.0 | 200 | 20 | 58 | 3 | 2 | 128 | 9 | 0 | 99 | 89 | 4.63 | 1.49 | |
| 2001 | 26 | 26 | 11 | 5 | 5 | 12 | 9 | 0 | -- | .571 | 765 | 193.2 | 167 | 7 | 28 | 1 | 2 | 187 | 1 | 0 | 62 | 53 | 2.46 | 1.01 | |
| 2002 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 118 | 27.0 | 24 | 6 | 13 | 1 | 1 | 12 | 1 | 0 | 15 | 15 | 5.00 | 1.37 | |
| 2003 | 29 | 26 | 1 | 0 | 0 | 9 | 11 | 0 | -- | .450 | 641 | 146.1 | 154 | 12 | 59 | 0 | 9 | 146 | 3 | 0 | 80 | 74 | 4.55 | 1.46 | |
| 2004 | 17 | 15 | 1 | 1 | 0 | 4 | 8 | 0 | -- | .333 | 360 | 78.0 | 106 | 13 | 27 | 3 | 1 | 61 | 1 | 0 | 51 | 49 | 5.65 | 1.71 | |
| 2005 | 13 | 13 | 1 | 1 | 0 | 3 | 6 | 0 | 0 | .333 | 300 | 72.0 | 71 | 8 | 26 | 1 | 4 | 57 | 3 | 0 | 33 | 32 | 4.00 | 1.35 | |
| 2006 | 巨人 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 16 | 3.0 | 7 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 5 | 3 | 9.00 | 2.67 |
| 2007 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 4 | .500 | 144 | 29.1 | 34 | 4 | 20 | 2 | 3 | 28 | 0 | 0 | 15 | 14 | 4.30 | 1.84 | |
| 通算:14年 | 281 | 214 | 37 | 15 | 5 | 81 | 79 | 2 | 4 | .506 | 6055 | 1405.2 | 1408 | 132 | 528 | 22 | 39 | 1122 | 42 | 0 | 638 | 577 | 3.69 | 1.38 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
- 最優秀選手:1回(1999年)
- ゴールデングラブ賞:1回(投手部門:2001年)
- 月間MVP:4回(投手部門:1999年7月、1999年9月、2001年4月、2001年5月)
- 最優秀バッテリー賞:1回(1999年 捕手:中村武志)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(2001年)
- 優秀JCB・MEP賞:2回(1999年、2001年)
- JA全農Go・Go賞:1回(最多奪三振賞:2001年5月)
記録
- NPB初記録
- 初登板・初先発登板:1994年8月25日、対広島東洋カープ20回戦(ナゴヤ球場)、3回3失点
- 初奪三振:同上、1回表に緒方孝市から
- 初勝利:1995年5月17日、対広島東洋カープ6回戦(ナゴヤ球場)、6回1/3を4失点
- 初セーブ:1995年6月15日、対ヤクルトスワローズ9回戦(ナゴヤ球場)、6回表に2番手で救援登板・完了、4回1失点
- 初完投:1995年8月16日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)、8回4失点で敗戦投手
- 初完投勝利:1996年7月12日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤ球場)、9回5失点(自責点1)
- 初完封勝利:1996年8月11日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム) ※史上64人目のノーヒットノーラン
- 初ホールド:2007年4月21日、対阪神タイガース5回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に2番手で救援登板、1回1/3を1失点
- NPB節目の記録
- 1000投球回数:2001年8月12日、対阪神タイガース21回戦(ナゴヤドーム)、8回表二死目に今岡誠を遊撃ゴロで達成 ※史上290人目
- 1000奪三振:2004年5月29日、対阪神タイガース11回戦(ナゴヤドーム)、5回表に杉山直久から ※史上111人目
- NPBその他の記録
- 継投による1イニング4奪三振:1996年8月17日、対阪神タイガース19回戦(ナゴヤ球場)、4回表に野口がケビン・マース・高波文一・山田勝彦(振逃)から、後続の遠藤政隆が和田豊から ※史上初(2020年終了現在でも史上唯一、1イニング4奪三振自体は史上4度目)
- 1試合16奪三振:2001年5月24日、対阪神タイガース10回戦(石川県立野球場) ※セ・リーグ記録
- オールスターゲーム出場:3回(1998年、1999年、2001年)
独立リーグでの投手成績
以下の数値は四国アイランドリーグplusウェブサイト掲載の各シーズン選手成績による[67]。
| 年 度 | 球 団 | 防 御 率 | 登 板 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 投 球 回 | 打 者 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 奪 三 振 | 与 四 球 | 与 死 球 | 失 点 | 自 責 点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2011 | 三重 | 2.63 | 10 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 61.2 | 251 | 54 | 3 | 47 | 12 | 6 | 22 | 18 |
| 通算:1年 | 2.63 | 10 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 61.2 | 251 | 54 | 3 | 47 | 12 | 6 | 22 | 18 | |
背番号
- 57(1993年 - 1994年)
- 47(1995年 - 2005年、2011年)
- 31(2006年)
- 46(2007年 - 2008年)