オヴィリ
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『オヴィリ』(英語: Oviri、タヒチ語で「野蛮」「野生」を意味する[1])とは、フランスの画家ポール・ゴーギャンが1894年に制作した陶芸作品である。タヒチ神話における哀悼の女神として表現され、長く白い淡色の髪と野性的な目をした女性で、足で狼を踏みつけつつ、腕の中にその子狼を抱く姿で形作られている。
この作品の解釈にあたって美術史家たちは様々な説を提唱しているが、ゴーギャンが自分自身を「文明化された野蛮人」であると位置づけて表現したもの、という解釈が定説となっている。タヒチ島における女神信仰は1894年の時点で既に民間伝承からは姿を消していたが、ゴーギャンは島の歴史をロマン主義的に理想化し、より古代的な、より神話的な起源へと触れようとした。影響を受けたであろうものとしては『動物の支配者』と呼ばれるアッシリアのレリーフや、マジャパヒト王国時代のミイラの他、マルキーズ諸島の頭骨標本、中部ジャワ州に9世紀ごろ建立された大乗仏教の仏教遺跡であるボロブドゥールの像などが指摘されている。
ゴーギャンは部分的に釉薬をかけた炻器で3体の像を制作しており、オリジナル像の他、石膏製や青銅製の複製が存在する。オリジナルの『オヴィリ』はパリのオルセー美術館が所蔵している。これらの作品は商業的な成功を収めることはできず、経済的・精神的に困窮していたゴーギャンは自身の墓に一体を安置することを遺言した。『オヴィリ』に関してゴーギャン自身の口から語られた記録は少なく、3件のみが残されている。1895年にステファヌ・マラルメへ贈呈した木版画の『オヴィリ』には「奇妙で残酷な謎」と言及しており、1897年にアンブロワーズ・ヴォラールに宛てた手紙では『オヴィリ』を「殺戮者 (La Tueuse)」と呼んでいる。また、1899年頃に制作されたと考えられる素描には、象徴的テーマが『オヴィリ』と共通するオノレ・ド・バルザックの小説『セラフィタ』に言及している[2]。
『オヴィリ』は1906年のサロン・ドートンヌに出品され[3]、パブロ・ピカソに影響を与えた。ピカソの代表作である『アビニヨンの娘たち』の登場人物の一人のモチーフに、『オヴィリ』が反映されていると指摘されている[4]。
背景
画家であるゴーギャンが陶芸に関心を寄せ始めたのは1886年頃とされている。ゴーギャンは彫刻家であり陶芸家のエルネスト・シャプレに師事し、制作を始めたが、二人を引き合わせたのはフランス陶芸芸術の新しい形を模索していた画家フェリックス・ブラックモンであった[5]。1886年から翌1887年にかけての冬の期間、ゴーギャンはヴォジラールにあるシャプレの工房を訪ね、共に作品制作を行い、人物像や装飾片、複数の把手を持つ炻器の壺といった作品を制作した[6]。

1891年に初めてタヒチを訪れ、タヒチ女性の美しさに魅了されたゴーギャンは、仮面のような彫刻的肖像の絵を連作した。これらの作品は観覧者に憂鬱や死(タヒチ語で「沈思」や「憂愁」を意味するfaaturuma)を想起させた。こうしたイメージや情感は本項で述べる『オヴィリ』にも引き継がれた[7]。ゴーギャンがタヒチで最初に手掛けたとされる木彫作品はグアバを素材としていたが、材質が脆かったため遺存していない。
1894年の冬、ゴーギャンはタヒチからフランスへと帰国し、パリにあるシャプレの工房で『オヴィリ』を完成させ、翌1895年4月の国民美術協会サロンに作品を出品した[8]。その後の経緯については異なる二つの証言が残されており、記者のシャルル・モリスは1920年にゴーギャンが「文字通り展覧会から追放された」としているのに対し、美術商のアンブロワーズ・ヴォラールは「作品が当初拒否されたものの、シャプレが自身の作品撤去をちらつかせて擁護したことによって展示が認められた」と1937年に記している[9]。民俗学者のベングト・ダニエルソンは、ゴーギャンは自身の知名度を高めることに腐心しており、この機会を利用し『ル・ソワール』紙に近代陶芸の現状を嘆いた書簡を投書したと指摘している[10]。
1897年の初め、ヴォラールはゴーギャンに書簡を送り、彫刻を青銅で制作する可能性について尋ねた。これに対するゴーギャンの返答は『オヴィリ』についてのもので、次のように回答している。
私の大型の陶器像『殺戮者 (La Tueuse)』は、これまでにどんな陶芸家も作ったことのない、類を見ない例外的な作品であると信じている。加えて、修正や緑青なしで鋳造されたブロンズ像としても非常に映えるだろう。作品購入者は陶器製の作品だけでなく、金銭的利益を生む青銅版も手に入れることになるだろう。 [11]
美術史家のクリストファー・グレイは、3点の石膏複製について言及し、これらの作品はひび割れのある表面を持ち、既に存在しない未記録の木彫作品から型取りされたものである可能性があると指摘した。1点はジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレイに贈答され、サン=ジェルマン=アン=レーのモーリス・ドニ美術館に所蔵されている。木目調の石膏像である2点目はギュスターヴ・フェイエが所持し、その後息子レオンのコレクションのひとつとなった。3点目は鋳型を制作した人物が所持していた[12][13]。また、いくつかの青銅鋳造版が制作されており、そのうちのひとつはアトゥオナにあるゴーギャンの墓に安置された。この青銅版作品はシンガー=ポリニャック財団によって鋳造され、1973年3月29日に墓とともに設置された[12][14]。
作品
モチーフ

ゴーギャンはタヒチ神話における伝承を次のように解釈し、『オヴィリ』を制作した。オヴィリは膝まである長い金髪または灰色の髪を持つ女性の神であり、頭部と目は不釣り合いに大きく、頭の後方には膣のような開口部を持っている[15][16]。彼女は子狼を無造作に腰に抱えており、無関心さや野性的な力を象徴している[16][17]。この姿勢は子狼を抱擁しているのか、締め付けているのかは明確でなく[18]、犠牲や嬰児殺し、復讐する母といった異なるモチーフを想起させる。こうしたイメージは、1838年のウジェーヌ・ドラクロワによる絵画『我が子を殺すメディア』の影響を受けているとされる[19]。彼女の足元にはもう一匹の狼と見られる動物が横たわっており、オヴィリに服従しているか、あるいは死んでいるかのように見える[20]。美術史家のスー・テイラーを始めとする複数の研究者は、この横たわる狼がゴーギャン自身を象徴している可能性があると指摘している[21]。

オヴィリと狼との関連性は、1893年のポール・デュラン=リュエルの画廊における展覧会で、作品が不評を受けた際にエドガー・ドガが擁護のために語った言葉に由来している。ドガはジャン・ド・ラ・フォンテーヌの寓話『犬と狼』を引用し、「君たちも分かるだろう、ゴーギャンは狼なんだ」と述べたことが伝えられている[21][22]。『オヴィリ』において、成熟した狼(ヨーロッパでのゴーギャン)は死に、子狼(タヒチでのゴーギャン)が生き残っている構図が示唆されていると解釈される[23]。
ゴーギャンの時代までにタヒチ神話の多くは既に失われたものとなっており、その文化に関連する遺物も多くが行方不明となっていた。このため、ゴーギャンの『オヴィリ』はその多くが彼自身の想像に基づく創作であり、彼が「自分の小さな友人たちの世界」と呼んだ複数の作品に影響を受けている。それらはゴーギャンがタヒチを訪れた際に携えていたもので、オディロン・ルドンのリトグラフ『死』や、ジャワのボロブドゥール遺跡の浮彫を捉えた写真、テーベにあるエジプト第18王朝時代の壁画の写真などが含まれていた[24]。その他、ルーヴル美術館が所蔵している子ライオンを抱えたギルガメシュのレリーフや、ジャカルタ国立博物館が所蔵するマジャパヒト王国のテラコッタなどの影響も受けていると指摘されている[25]。

オヴィリの頭部の造形はマルキーズ諸島において行われた酋長の頭蓋骨をミイラ化した頭骨標本に影響を受けていると考えられている。これらの頭骨標本には眼窩にシロチョウガイがはめ込まれ、神として崇められた。一方で身体部の造形はボロブドゥール遺跡に見られる多産豊穣の図像からの影響が指摘されており、ひとつの像の中で生と死が同時に象徴された作品となっている[26]。作品購入のために公募を検討していたマラルメに宛てた書簡の中でモリスは『オヴィリ』に『狩猟の女神ディアナ』という名を与えており、モチーフを狩猟、月、貞操を象徴する古代ギリシアの女神ディアーナに喩えた。また、『オヴィリ』を主題とした詩の中でもモリスは同様の比喩を行っている。一方バーバラ・ランディは「生と死」という主題を、ゴーギャンが文明化された自我を捨て、原始的な野生に回帰する必要性を示したものと解釈する論説を示した[9][27]。『オヴィリ』は1889年に制作された陶芸作品『黒いヴィーナス』とも関連が指摘されている。『黒いヴィーナス』では切断されたゴーギャンに似た頭部の上に跪く女性が表現されている[21][28]。

ナンシー・モール・マシューズは、『オヴィリ』において腕に抱かれている動物および足元に横たわっている動物はキツネであるとする説を展開した。キツネは1889年の木彫作品『恋をせよ、そうすれば幸せになれる(Be in Love, You Will Be Happy)』や1891年の油彩画『純潔の喪失(The Loss of Virginity)』においてゴーギャンの作品に採用されたモチーフであり、1889年にエミール・ベルナールに宛てた書簡の中で、キツネは「アメリカ先住民の文化における倒錯的シンボル」であると述べている[29]。また、日本の妖狐に代表される東アジアの民間伝承においては、キツネが女性に変身するという言い伝えが古くから見られる[30]。
ゴーギャンは『オヴィリ』についての習作として少なくとも1点の素描、2点の水彩画、2点の木版画を制作している。これらの作品は陶芸作品を制作する前の1894年の夏にポン=タヴァンで制作された可能性がある[31]。素描は1899年8月から1900年4月に刊行された『ル・スリール』紙に掲載され、「そして怪物は創造主を抱き、ふくよかな腹をその精で満たし、セラフィトゥス=セラフィタを生み出した。(Et le monstre, entraînant sa créature, féconde de sa semence des flancs généreux pour engendrer Séraphitus-Séraphita)』という銘文が添えられた。「セラフィトゥス=セラフィタ」とは、両性具有をテーマとしたオノレ・ド・バルザックの小説『セラフィタ』を意図した造語である。『ル・スリール』の創刊号では近親相姦を主題とした論評が掲載されており、野性的な作者を称賛したうえで結婚制度の廃止と女性の解放が訴えられている。掲載された素描は明確に両性具有的特徴を有した表現がなされている[32]。
来歴
オリジナルの『オヴィリ』はゴーギャンの死後、フランスの実業家ギュスターヴ・フェイエが所蔵した[8]。1925年からは多数の芸術家のパトロンとなったフランスの美術商アンブロワーズ・ヴォラールの手に渡った後、幾人かのコレクターの手を経て1987年にフランスが購入し、パリのオルセー美術館の所蔵となった[8]。
解釈

これまでさまざまな美術史家がゴーギャンの作品に内在する多義的な意味について論考し、解釈を試みてきた。『オヴィリ』におけるもっとも明確な解釈としては、この人物像がタヒチにおける伝承や死生観、迷信といった主題を喚起する点が挙げられる。また、女性のセクシュアリティに対するゴーギャン自身の見解を反映している。19世紀の西洋美術において、長く乱れた髪を通じて女性の負の側面を暗喩する表現手法は一般的であった。また、作品に付けられた「野蛮(savage)」という別名にゴーギャンが抱いた妖しい悦びや、作品の暗示的なイメージである「残忍で血に飢えた神」という含意が加わることで、『オヴィリ』はゴーギャン自身の投影であるとも解釈されている[33]。
タヒチの神
モリスは、ゴーギャンが描く『オヴィリ』について「怪物じみていて荘厳で、誇りと怒り、悲しみに酔っている」と評し、子狼を抱くディアーナのような女神として表現していると指摘した。また、この人物像はポリネシア神話に登場する女神ヒナを想起させるとしている[34]。ゴーギャンは1894年に制作した石膏による自画像に『オヴィリ』と名付けている[16]。これは、ゴーギャンが自身を「オヴィリ」と呼称した最初期の例のひとつである[35][36][37]。オリジナルは遺存していないが、青銅製の鋳造物が複数点現存している。なお、類型作品としては二面鏡を用いてインカ風の横顔を表現した『頭部の形をした水差し、自画像』がある。
デンマークの美術史家であるメレーテ・ボーデルセンは、「ゴーギャンは時に自らを『オヴィリ(野蛮)』と呼ぶこともあった…」と記している[38][39]。シュトゥットガルト州立美術館が所蔵する1892年の油彩画『E Haere oe i Hia(どこへ行くのか)』[40]には、子狼を抱く女性が描かれている[41]。美術史家のベン・ポリットは、この作品に見られるがっしりとして両性的な人物像が『オヴィリ』の最初の片鱗を示していると指摘した[19]。一方で同じく美術史家のスー・テイラーは、陶芸作品の『オヴィリ』が先に制作されたと論考しており、1892年の油彩画は1923年以前の来歴が不明確であり、その真贋についてリチャード・フィールド『Paul Gauguin: The Paintings of the First Voyage to Tahiti』によって疑義が示されている点を指摘した[42]。

タヒチの歌
「オヴィリ」とはゴーギャンが好んだタヒチの歌でもあり、愛と憧れをテーマとした歌詞が哀愁を帯びた旋律で奏でられる。歌詞の中では「野蛮で落ち着きのない心」が表現されており、二人の女性が互いに惹かれあいながらもやがて沈黙し、冷淡になっていく過程が語られている[10]。ゴーギャンはこの歌詞を自身の紀行文『ノアノア』に翻訳して掲載した。『ノアノア』はタヒチでの体験を振り返る目的で制作された10点の木版画を交えた旅行記である[43][44]。「オヴィリ」の歌詞はゴーギャンが編者を務めたタヒチの新聞『ラ・ゲップ』にも再掲された。美術史家のダニエルソンは、この歌での情景がゴーギャンの二人の女性[注釈 1]に対する複雑な葛藤を反映していると考察している[45]。
両性具有的側面
『ノアノア』にはゴーギャンが青年を伴って山へ旅するシーンが描写されているが、旅の途上でゴーギャンは青年が無性の存在であることを知覚し、人間の「両性具有的側面」について思索するようになったとしている[46][47][48]。ポリットは職人や芸術家という存在が戦士や狩人ではなく、家庭を守る者にも該当しないことから、両性具有的存在とみなされていたというタヒチの文化的背景について指摘している。こうした曖昧な性の在り方が、ゴーギャンが生来持っていた反骨精神に強く訴えかけたと指摘した[19]。また、テイラーは1897年にモリスが発表した詩『森の光り輝くヒナ』が、ゴーギャンを暗喩していると論考し、『ノアノア』における両者の協働から生まれた長大な抜粋の一部であるとした。一方、グレイは、『オヴィリ』を「深い幻滅と失望を表現した」と解釈した[8]。
「ノアノア」とはタヒチ語で「香り」を意味する語である。ゴーギャンがこの言葉を初めて用いたのは、タヒチの女性たちの匂いを表現した際であり、「彼女たちからは動物的なものと植物的なものが混じりあった香りが漂っていた。それは彼女たちの血のにおいと、髪に挿したティアレ・タヒチの香りであった。」と記している[49]。1893年にパリへ帰還したゴーギャンは、タヒチで制作した作品を展示することに不安を抱いており、『ノアノア』はデュラン=リュエル画廊での展覧会での、作品の文化的背景や新しいモチーフを観覧者に理解させるための文脈を提供する意図で制作していたが、結局のところ展覧会の開幕までに完成には至らなかった[50]。

自己投影
ゴーギャンは『オヴィリ』を自身の墓に据えるよう遺言しており、このことはゴーギャンがこの作品を自身のオルター・エゴと捉えていたと指摘されている。『オヴィリ』に登場する動物をキツネであると主張しているマシューズは、ゴーギャンがキツネを自身と同様に性の可変的存在であるとみなしており、それ故に「危険なセクシュアリティ」の象徴と捉えていた、と述べている[51]。当時のゴーギャンは梅毒性の発疹に罹患しており、数か月間タヒチへの渡航が不可能であったことが複数の資料から明らかとなっている。マシューズは『オヴィリ』の後頭部に表現された開口部が、ゴーギャンに感染をもたらした女性の象徴を示唆したパルス・プロ・トト[注釈 2]であると指摘した[15]。
文化人類学者のポール・ファン・デル・フリイプは、『オヴィリ』が、ゴーギャン自身が創出した「文明化された野蛮人」というペルソナを補強するために意図的に用意されたエピセットであると指摘している[53][54]。モーリスに宛てた最後の書簡の中で、ゴーギャンは「君はあの日、私が自らを「野蛮人」と称したことは間違いだといったが、それこそが間違いだ。私は確かに野蛮人なのだ。文明人たちはそれを感じ取っている。私の作品に、驚きや困惑をもたらすものは何もない。私が自ら望まなくとも野蛮人であるというただひとつの事実を除いては。そしてそれこそが、私の作品が他に類を見ない理由なのだ」と綴っている[16][18][55]。
受容と評価

ゴーギャンは最後のタヒチ渡航の前、つまり『オヴィリ』を国民美術協会に出品するよりも前に、サン=ラザール通り57番地のカフェ経営者リーヴィとの間に作品展示販売委託契約を締結しており、同地での展示が予定されていた。しかし作品は売約には至らず、モリスも購入のための公的資金の調達に失敗した。ゴーギャン自身はこの作品に関心を寄せる可能性のある唯一のパトロンとして実業家のギュスターヴ・フェイエを想定していたが、彼が実際に購入したのはゴーギャン没後の1905年であり、価格は1,500フランであった[56]。
1903年、1906年にサロン・ドートンヌで開催されたゴーギャン死後回顧展を契機として、パリのアバンギャルド界隈におけるゴーギャンの名声が高まった。こうした影響は1907年のパブロ・ピカソ『アビニヨンの娘たち』などに顕著に見られるようになった。イギリスの評論家デイヴィッド・スウィートマンは、ピカソがゴーギャンに傾倒するようになったのは1902年で、スペイン出身の彫刻家フランシスコ・ドゥリオと親交を深めたことが契機であったと指摘している。ドゥリオはゴーギャンの友人でもあり、タヒチで困窮していたゴーギャンを支援し、パリで普及させようと、複数の作品を所蔵していた[57]。
美術史家のジョン・リチャードソンは次のように記している。
1906年のゴーギャンの展示会は、ピカソをこれまで以上に彼の虜にした。ゴーギャンは形而上学、人類学、象徴主義、聖書、古典神話などを含む多様な芸術様式を、時代を超越しながら普遍的に融合し得ることを示して見せた。さらに、自らの内なる悪魔を(タヒチの神に限らず)「暗黒の神々」と結びつけることで、新たな神的エネルギーの源泉を引き出すという、一介の芸術家が美の概念をも覆すことが可能であることを証明した[58]。
スウィートマンとリチャードソンの両名は『オヴィリ』がピカソに与えた影響の大きさを指摘している。『オヴィリ』は1906年のサロン・ドートンヌ展にて初めて展示され、『アビニヨンの娘たち』に直接的な影響を及ぼしたと考えられており、スウィートマンは「1906年に目立つかたちで展示されたゴーギャンの彫像『オヴィリ』は、ピカソに彫刻と陶芸の両分野への関心を呼び起こす契機となった。また、ゴーギャンの木版画は、ピカソの版画制作への興味をさらに後押しした。もっとも、これら全てに共通するプリミティヴな要素こそが、ピカソの芸術の方向性を決定付けたのも確かである。この関心はやがて画期的な作品『アビニヨンの娘たち』へと結実することとなった。」と記している[57]。
現代に入っても『オヴィリ』は評価を高めており、2006年にニューヨークのクリスティーズが開催したオークションでは、青銅版の『オヴィリ』が251,200ドルで落札されている[12]。