テオドルス・ファン・ゴッホ
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現在の北ブラバント州、アイントホーフェンからやや東部にあるズンデルト(ニューネン付近)に生まれる。祖父は聖職者フィンセント・ファン・ゴッホ1世(1789年 - 1874年)、父はオランダ改革派教会の牧師テオドルス・ファン・ゴッホ1世(通称ドルス、1822年 - 1885年)、母はハーグ王室御用製本師の娘アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年 - 1907年)。妻はヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー、1862年 - 1925年)、息子はエンジニアのフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ。映画監督のテオ・ファン・ゴッホは曾孫である。
画商グーピル商会(後にブッソ・ヴァラドン商会と改称。テオの入社前年まで、伯父フィンセント・ファン・ゴッホ2世(通称セント)が経営陣に参加していた)に勤め、パリのモンマルトル大通り店の経営を任された[2]。親きょうだいと確執にあったフィンセントの唯一の理解者で、兄に生活費を支援するなどして支えた。1880年以降、テオが経済的に援助し続けたため、フィンセントは画業に専念することが可能になった。
1890年7月29日にフィンセントがオーヴェル=シュル=オワーズで自らを銃で撃つと、パリより急いで駆けつけて最期を看取り、その死を大いに嘆いた。テオ自身はもともと病弱だったが、兄の死をきっかけに徐々に衰弱し、オランダに帰国し、翌1891年、兄の後を追うようにユトレヒトの精神病院で死去した。33歳。
妻ヨーはテオの死後、画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルク(1873年 - 1912年)と再婚したが、1914年4月、テオの遺骨をオーヴェル=シュル=オワーズにあるフィンセントの墓の隣に改葬し、兄弟の墓石が並ぶことになった。ヨーと長男フィンセント・ウィレムは、長年かけゴッホ書簡[3]の編纂・出版を行った。


長年ファン・ゴッホの自画像と見なされてきたが、2011年にテオを描いたものであると判明している。
