ボロブドゥール遺跡

インドネシアの遺跡 From Wikipedia, the free encyclopedia

ボロブドゥール遺跡(ボロブドゥールいせき、Borobudur)は、インドネシアジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教遺跡で世界的な石造遺跡。世界最大級の仏教寺院であり、ボロブドゥール寺院遺跡群の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。ミャンマーのバガン、カンボジアのアンコール・ワットと並んで、東南アジアの偉大な遺跡の1つである。

座標南緯7.608度 東経110.204度 / -7.608; 110.204
建設9世紀、シャイレーンドラ朝の時代に創建
復元1911
概要 ボロブドゥール遺跡, 所在地 ...
ボロブドゥール遺跡
現地名
ジャワ語: ꦧꦫꦧꦸꦝꦸꦂ
ボロブドゥール寺院遺跡
所在地ジャワ島中部ケドゥ盆地
座標南緯7.608度 東経110.204度 / -7.608; 110.204
建設9世紀、シャイレーンドラ朝の時代に創建
復元1911
復元者Theodoor van Erp
建築家Gunadharma
区分文化遺産
基準i, ii, vi
登録日1991 (第15回委員会)
所属ボロブドゥール寺院遺跡群
登録コード592
Region東南アジア
ボロブドゥール遺跡の位置(ジャワ島内)
ボロブドゥール遺跡
ジャワ島における位置
ボロブドゥール遺跡の位置(インドネシア内)
ボロブドゥール遺跡
ボロブドゥール遺跡 (インドネシア)
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ボロブドゥール遺跡遠景

インドから東南アジアに伝播した仏教は一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教遺跡である[1]シャイレーンドラ朝の時代、大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ王家によって、ダルマトゥンガ王治下の780年ごろから建造が開始され、792年ごろに一応の完成をみたと考えられ、サマラトゥンガ王(位812年-832年)のときに増築されている。

ボロブドゥール遺跡は、中部ジャワの中心都市ジョグジャカルタの北西約42km、首都ジャカルタからは東南東約400kmに所在し、巨大なムラピ火山などの山々に囲まれた平原の中央に立地する。遺跡総面積はおよそ1.5万m2。高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている[2]。2010年ムラピ山の灰で被害を受けた。

方形壇の回廊のレリーフは、歴史上の出来事が中心となっている。釈迦(ガウタマ・シッダールタ)の前世の物語であるジャータカなどを絵巻物風に示し、前世の善財童子巡礼の旅をする仏教経典『華厳経入法界品』などが描かれており、とくに釈迦の生誕から最初の説法にいたるまでの経緯については史実とともに数々の伝説もまじえて詳細に表現されている。その構図の多様性や人物表現の巧みさはボロブドゥールならではのものである。

仏像は、第一回廊から第四回廊の壁龕(くぼみ)に432体[3]、3段の円形壇の上に築かれた釣鐘状のストゥーパ72基の内部に1体ずつ納められており[4]、いずれも一石造りによって等身大につくられ、計504体を数える[5](詳細は後述)。

名称と語源

チャンディ・ボロブドゥールを北西側から望む。その本来の名称は、カランテンガ碑文トリ・トゥプサン碑文に記されている可能性がある。

インドネシア語では、古代の宗教建築物は一般に「チャンディインドネシア語版」(candi)と呼ばれる。この語は、ヒンドゥー教仏教時代の宗教建築(寺院・廟)のみならず、や沐浴施設などを含む古代建築全般を指す場合もある。そのため、現地ではボロブドゥールは「チャンディ・ボロブドゥール」(インドネシア語: Candi Borobudur)と称されるのが一般的である。

「ボロブドゥール」(Borobudur)の具体的な語源については諸説あり、正確な由来は明らかになっていない[6]。インドネシアにある多くのチャンディと同様に、この遺跡も本来の名称は不明であるとされる[6]

文献における最初の記録

「Borobudur」という名称が最初に記録されたのは、イギリスのトーマス・スタンフォード・ラッフルズが1817年に著した『ジャワ誌』(The History of Java)である[7]。ラッフルズは同書において「Boro Bodo」あるいは「Bóro Bódo」と記述し、脚注で「Bóro は地方名(村名)であり、bódo は古いことを意味する」と説明した[8][9]。ラッフルズは、ジャワの伝統的な慣習に従い、この遺跡が近隣のボロ村(Boro / Bore)に基づいて命名されたと考えた。

後年の研究において、考古学者スコモノは、ラッフルズが「Budur」を現代ジャワ語の「Buda」(古い、古代の意)に関連づけ、「古いボロ」を意味すると解釈したのだろうと指摘している[6]。またスコモノ自身は、「boro」が「偉大な」または「高貴な」を意味し、「Budur」が仏陀(Buddha)に由来する可能性も示唆している[6]

また、1365年にムプ・プラパンチャが著した古ジャワ語の長編叙事詩『ナガラクレタガマフランス語版』には、「Budur」という名の仏教聖域への言及があり、これがボロブドゥールを指している可能性が指摘されている[10]

語源に関する諸説

考古学者や言語学者によって、以下のような様々な語源説・由来説が提唱されている。

山に由来する説
考古学者デ・カスパリスは、「Budur」はジャワ語で「山」を意味する bhudhara に由来すると考えた[11]。また、これに関連して「Sambharabhudhara」(段丘を備えた山)という語を語源とする説もある。
高地の僧院に由来する説
オランダの考古学者A. J. ベルネト・ケンペルス(A. J. Bernet Kempers)は、「Borobudur」はサンスクリット語の「Vihara Buddha Uhr」をジャワ語化した「Biara Beduhur」に由来するという説を提唱した。「Vihara」は僧院を意味し、「Buddha-Uhr」は「仏陀たちの都市」を意味する可能性がある。また「Beduhur」は古ジャワ語に由来し、現代バリ語にも残存する「高所」を意味する dhuhur または luhur に関連するとされる。この説に従えば、ボロブドゥールは「高地に建つ仏教僧院」という意味になる[12]
これに類似した民間語源説として、「僧院」を意味する bara と、「高い場所」を意味する beduhur の合成語(高地に位置する僧院)とする説もある。
音韻変化(民間語源)説
サンスクリット語で「多くの仏陀」や「仏陀たち」を意味する「Para Buddha」が、時を経て音韻変化し「Borobudur」となったとする説。

関連する碑文と本来の名称

ボロブドゥールの建立時期や本来の名称に関係すると考えられている、中部ジャワ州ケドゥ地方で発見された2つの石碑(碑文)が存在する。

カランテンガ碑文(824年)
サマラトゥンガ王の娘プラモーダワルダニによって奉献されたとされる碑文。ここには「ジナラヤ」(Jinalaya、世俗的欲望を克服して悟りに達した者の境地・居所)と呼ばれる聖なる建築物について記されており、これがボロブドゥールを指していると考えられている[13]
トリ・トゥプサン碑文(842年)
Çrī Kahulunnan(プラモーダワルダニ)が、「Bhūmisambhāra」(ブーミ・サンバーラ)と呼ばれる「Kamūlān」(カムーラン)を維持するため、sima(免税地)を下賜したことが記されている[13]。「Kamūlān」は「起源の地」を意味する mula に由来し、祖先崇拝のための聖域を意味することから、当時の中部ジャワを統治していたシャイレーンドラ朝王家の祖先を祀る施設であった可能性が指摘されている。

これらの碑文を研究したヨハネス・ハイスベルトゥス・デ・カスパリスは、トリ・トゥプサン碑文に登場する語をもとに、ボロブドゥールの本来の正式名称は「Bhūmi Sambhāra Bhudhāra」(ブーミ・サンバーラ・ブダーラ)であったという有力な仮説を提唱した。この語はサンスクリット語で「十地(菩薩が修行する10の段階)を積み重ねた菩薩の徳の山」を意味すると解釈される[14]

立地と周辺環境

地理的環境

ボロブドゥールは、ジョグジャカルタの北西約40 km、スラカルタの西約86 kmに位置する。遺跡は海抜約265 mの丘陵上に建設されており、周囲を北西側のスンドロ山スンビン山、北東側のメルバブ山ムラピ山という二組の双子火山に囲まれている。また、北方にはティダール丘陵、南方にはムノレ丘陵が位置し、周辺にはプロゴ川およびエロ川が流れる[15]

これらの山々に囲まれた広大な盆地はケドゥ平原(インドネシア語: Dataran Kedu)と呼ばれ、その極めて豊かな農業生産力から「ジャワの庭園」とも称される[16]。この地域はジャワの伝統的な伝承において、古くから聖地と見なされてきた歴史を持つ。

三寺院の直線配置

ボロブドゥール、パウォン寺院ムンドゥット寺院の直線配置

20世紀初頭の修復作業の際、オランダの建築研究者テオドール・ファン・エルプ(Theodoor van Erp)は、西からボロブドゥールパウォン寺院ムンドゥット寺院の三寺院が、東偏約22度の直線上に正確に配置されていることを指摘した[17]

この配置は当初は偶然と考えられていたが、三寺院の建築様式や装飾意匠の共通性、および同時代(9世紀初頭)に建立されたという事実から、現在では単なる偶然ではなく、明確な宗教儀礼上の計画に基づいていたと考えられている。

地元住民の口承伝統では、かつてこれら三寺院を結ぶ石畳の道路と欄干が存在したと伝えられているが、それを裏付ける考古学的な物理証拠は確認されていない。具体的な巡礼儀礼のプロセスは未解明であるものの、多くの研究者は、三寺院が象徴的・宗教的に統一された一つの聖なる空間(複合体)を構成していたと推定している[18]

周辺の考古学的遺構

ボロブドゥール周辺からは、パウォンやムンドゥット以外にも複数の古代遺構や生活雑器(土器や壺など)が出土しており、当時この一帯に大規模な居住地域が存在したことを示唆している。これらの出土品の一部は、遺跡の北側敷地内にあるカルマウィバンガ博物館およびサムドラ・ラクサ博物館に収蔵されている[19][20]

また、パウォン寺院の北方ではバノン寺院(インドネシア語: Candi Banon)と呼ばれるヒンドゥー教遺跡が発見されている。この遺跡からはシヴァヴィシュヌブラフマーガネーシャなどの精巧なヒンドゥー教の神像が比較的良好な状態で出土した。しかし、寺院の建築材(レンガや石材)がほとんど残存していなかったため、建物自体の復元・再建は不可能とされた。出土した神像群は当時のバタヴィア(現在のジャカルタ)へ移送され、現在はインドネシア国立博物館に展示されている。

古代湖沼説

ケドゥ平原の豊かな緑地に囲まれたボロブドゥール。かつてこの周囲が広大な湖であったとする仮説が存在する。

ボロブドゥールが、かつて存在した古代湖の湖底よりも約15 m高い丘の上に建設されたとする「古代湖沼説」は、20世紀を通じて考古学者や地質学者の間で激しい議論の的となった。

湖沼存在説(肯定派)
1931年、オランダの画家であり建築研究者でもあったW.O.J. ニューウェンカンプ(W.O.J. Nieuwenkamp)は、ケドゥ平原の大部分はかつて湖であり、ボロブドゥールはその湖面に浮かぶ巨大な蓮(レンゲ)の花を象徴して設計されたという画期的な仮説を提唱した[21]。仏教美術において蓮(padmautpala など)は、仏陀の台座やストゥーパの基壇に用いられる極めて重要な象徴である。
このニューウェンカンプの直感的仮説を地質学的に裏付けるものとして、2004年にムルワント(H. Murwanto)らの共同研究チームが、ボロブドゥール周辺の地層分析から、寺院建設当時に干上がりつつあった天然の古代湖(古湖沼)が実際に存在したとする証拠を発表した[22]
湖沼否定説(慎重派)
一方で、多くの考古学者は、当時大規模な湖は存在しなかったか、少なくとも寺院を完全に囲むような形では存在しなかったと主張している[23]
1970年代の発掘調査で採取された堆積物サンプルを分析した古生物学者ガナパティ・タニカイモニ(Ganapathi Thanikaimoni)は、水域特有の植生を示す花粉や胞子を検出できなかった。この結果は1977年にジャック・デュマルセによって紹介され、1983年に正式に公表された[24]。さらに1985年から1986年にかけて行われたシーザー・ヴーテ(Caesar Voûte)およびJ.J. ノシン(J.J. Nossin)による現地調査でも、ボロブドゥール建設期に周辺に湖は存在しなかったとの結論が下されている[25]

このように、地質学的な「水域の痕跡」と、古生物学的な「水生植物の不在」というデータの矛盾があり、古代湖がどの程度の規模で、いつまで存在していたかについては、現在も議論が完全に終結したわけではない。

歴史

船のレリーフ
円形壇上のストゥーパ

建設

G.B.フーイエルによる絵画(1916年頃 - 1919年頃)。最盛期のボロブドゥールを再構成した想像図

ボロブドゥールを誰が建立し、いかなる目的で建設したのかを直接示す同時代史料は発見されていない[26]。建設年代は、埋没基壇「カルマヴィバンガ」の浮彫に刻まれた文字様式と、8世紀から9世紀の王権碑文に用いられた書体との比較によって推定されている。一般には、西暦800年頃に建立が始まったと考えられている[26]

この時期は、中部ジャワにおいてシャイレーンドラ朝が繁栄した760年頃から830年頃に相当し、同王朝は当時古マタラム王国の王権を掌握していた[27]。ジャック・デュマルセは、ボロブドゥールの建設過程を五段階に区分し、シャイレーンドラ朝が780年頃に着工し、792年頃から824年頃にかけて主要部分を建設し、その後、サンジャヤ朝インドネシア語版の時代に最終段階が完成したと推定している[28]。また、サマラトゥンガ王の治世である825年頃に完成したとする説も有力である[29]

当時のジャワでは、ケドゥ平原インドネシア語版一帯に多数のヒンドゥー教寺院および仏教寺院が建立された。732年には、ヒンドゥー教シヴァ派の王サンジャヤインドネシア語版が、ボロブドゥールの東約10キロメートルに位置するグヌン・ウキール寺院インドネシア語版にリンガ聖所を建立したことがチャンガル碑文インドネシア語版に記されている[30]。一方、ボロブドゥールはプランバナンのヒンドゥー寺院群とほぼ同時代に建立されたが、ボロブドゥールの方が約25年早く完成したと考えられている。

仏教寺院の建設が可能となった背景には、サンジャヤ王統の後継者であるラカイ・パナンカランインドネシア語版が仏教徒による寺院建立を認可したことがある[31]。779年のカラサン碑文インドネシア語版によれば、パナンカランはカラサンインドネシア語版村を仏教僧団(サンガ)に寄進し、カラサン寺院の維持費に充てさせた。これはターラー菩薩を顕彰するための寺院であった[32]

このことから、一部の考古学者は、古代ジャワ社会では宗教対立が深刻化しておらず、ヒンドゥー教王が仏教寺院を保護し、また仏教勢力がヒンドゥー寺院建設に関与することもあったと考えている[33]。856年にはラトゥ・ボコインドネシア語版高原で政治的抗争が発生したが、これは宗教戦争ではなかったとされる[34]。また、ロロ・ジョングラン寺院群インドネシア語版を含むプランバナン寺院群についても、シャイレーンドラ勢力が建設に関与した可能性が指摘されている[35]

放棄

山並みを望むボロブドゥール。数世紀にわたり放棄されていた

ボロブドゥールは数世紀にわたり火山灰と密林に埋もれ、長期間放棄された状態にあった。その放棄理由については現在も確定していない。いつ頃から仏教巡礼の中心としての機能を失ったのかも不明である。

928年から1006年頃にかけて、ムプ・シンドクインドネシア語版は度重なる火山活動の後、古マタラム王国の都を東ジャワへ移転した。これがボロブドゥール放棄の契機となった可能性が指摘されている[36][22]

1365年頃に成立したムプ・プラパンチャインドネシア語版の『ナーガラクルターガマインドネシア語版』には、「ブドゥールの僧院(vihara in Budur)」への言及が存在する[37]。ただし、当時すでに宗教的中心地としての役割を失っていた可能性が高い。

スカルモノインドネシア語版は、15世紀に周辺住民のイスラム化が進行したことによって、ボロブドゥールが完全に放棄されたとする見解を示している[36]

放棄後も遺跡の存在自体は忘れ去られず、ジャワの民間伝承の中で不吉な場所として語られるようになった。18世紀のジャワ年代記『ババッド・タナ・ジャウィインドネシア語版』によれば、1709年にパクブウォノ1世インドネシア語版へ反乱を起こしたマス・ダナは、「レディ・ボロブドゥール」の丘で敗北し処刑されたという[36]

また、『ババッド・マタラムインドネシア語版』では、1757年にジョグジャカルタ王宮インドネシア語版の王子がボロブドゥールを訪問した後に病没したという伝承が記されている[38]。ジャワ世界では、放棄された古代遺跡は精霊の宿る「ウィンギット(霊的に畏怖すべき場所)」とみなされる傾向があり、ボロブドゥールも災厄や不幸と結び付けられていった。

再発見

19世紀中頃のボロブドゥール主ストゥーパ。主ストゥーパ上部には木製デッキと覆いが設置されていた
イシドール・ファン・キンスベルゲンによるボロブドゥール写真(1873年)。寺院を覆っていた植生除去後の姿であり、主ストゥーパにはオランダ国旗が掲げられている
テオドール・ファン・エルプによる修復後の最上段テラス。主ストゥーパには三重のチャトラ(傘蓋)が設置されていた

1811年のイギリス軍によるジャワ島侵攻後、同島は1816年までイギリスの統治下に置かれた。当時の副総督トーマス・スタンフォード・ラッフルズはジャワの歴史に関心を持ち、島内各地の巡察を通じて古代遺物の収集や歴史・文化に関する記録を行った。

1814年、ラッフルズはスマランへの巡察中、ブミセゴロ村近郊の森林に大型の建造物遺構が存在するとの報告を受けた[39]。ラッフルズは自ら調査に赴く代わりに、1806年から1807年にかけてセウ寺院群の調査経験を有していたオランダ人技師ヘルマン・コルネリウス(H.C. Cornelius)を派遣した。

コルネリウスは約200人の作業員とともに約2か月をかけて樹木の伐採、植生の除去、および土砂の掘削を行い、遺構の一部を露出させた。ただし、崩落の危険性があったため、すべての回廊を発掘するには至らなかった。コルネリウスはスケッチを含む調査結果をラッフルズへ提出した。ラッフルズ自身は現地を訪問せず、著書『ジャワ誌』での言及も数行に留まったが、ボロブドゥールをヨーロッパ世界へ紹介した経緯から、本遺跡の「再発見者」と位置づけられている[39]

その後、ケドゥ州駐在官であったクリスティアーン・ローデウェイク・ハルトマン(Christiaan Lodewijk Hartmann)が調査作業を引き継ぎ、1835年までに遺跡全体の地表への露出が完了した。ハルトマン自身による活動報告書は残されていない。主ストゥーパ内部からは、俗に「未完の仏陀英語版」と呼ばれる巨大な仏像が発見されたという言説が存在するが、その発見経緯や当初の配置場所をめぐっては、学術的な事実関係の確認が不十分であり真偽は不明である[40]。1842年には主ストゥーパ内部の調査も行われたが、内部は空洞であり、調査時点での明確な出土品記録は存在しない[41]

その後、オランダ領東インド政府はオランダ人技師フランス・カレル・ウィルセン(F.C. Wilsen)に調査を命じ、ウィルセンは数百点に及ぶレリーフの素描を制作した。また、東洋学者であるヤン・フレデリク・ヘリット・ブルムント英語版も詳細な学術研究を担当し、1859年にその調査を完了した。政府はブルムントの研究論文とウィルセンの図版を組み合わせたモノグラフの出版を計画したが、ブルムントが協力を拒否したため、政府はライデン国立古代博物館長であったコンラドゥス・レーマンス英語版に資料の再編纂を依頼した。1873年にボロブドゥールに関する最初の本格的な研究書が刊行され、翌年にはフランス語版も出版された[42]。1872年には、オランダ系フラマン人の写真家イシドール・ファン・キンスベルゲンによる最初の写真記録が撮影されている[43]

19世紀後半まで露出したボロブドゥールは土産物採取や略奪の対象であり、特に仏像の頭部が多数切断されて持ち去られた[44]。1882年には、遺跡の構造的劣化を理由として、文化財監察官から遺跡を全面的に解体し、レリーフを博物館へ移送・保存する案が提起された[43]。これに対し、政府から調査を命じられた王立バタヴィア芸術科学協会の学芸員ウィレム・ピーテル・フルーネフェルト英語版は、構造的リスクの懸念が過張されていると結論づけ、遺跡を解体せず現地保存すべきだと提言した。この提言により、全面解体案は撤回された[45]

1896年、シャム国王チュラロンコンがジャワ島を訪問した際、ボロブドゥールの彫刻類に関心を示した。オランダ領東インド政府は公式にこれを割譲し、チュラロンコンは荷車八台分に相当する彫刻および建築部材を持ち帰った。この割譲品には、30点のレリーフ石材、5体の仏像、2体の獅子像、複数のカーラ装飾、階段および門の部材、ドヴァーラパーラ像などが含まれていた。これらの一部(獅子像、ドヴァーラパーラ像、カーラ、マカラ、排水口装飾など)は、現在バンコク国立博物館のジャワ美術室に展示・保管されている[46]

遺跡の発見と保護

1873年のボロブドゥール
ラッフルズ像

この遺跡は、久しく忘れ去られ密林のなかに埋もれていた。その原因については、火山の降灰によるものであるとする説が有力である。1814年イギリス人トーマス・ラッフルズ(当時ジャワ総督代理)とオランダ人技師コルネリウスによって森のなかで再発見され、その一部が発掘された。

1851年から1854年にかけての第2次調査では、壁面のレリーフのほとんどが現れ、1885年発掘調査の際には、土台の内壁に、人間のあらゆる欲望を描いた160面のレリーフが現れた。崩落の危険性があるため、埋め戻され、再び覆い隠されることとなった[47]1900年にはオランダ政府によって発掘調査委員会が組織され、1907年には写真記録がおこなわれた。また、1907年から1911年にかけてはオランダ人技師ファン・エルプによって復原工事がおこなわれている。

インドネシア独立後の1960年代初頭には、遺跡は崩壊寸前の危機にあったが、地盤沈下による壁と床の傾斜、ムラピ火山の噴火後の構造破壊を防ぐ目的で、ユネスコ主導のもと1973年から10年の歳月と2,000万ドルの費用をかけて修復工事がおこなわれ、1982年に完了した[1]。その際、水による浸食を防ぐため排水路を設ける必要が生まれたため方形壇部分をいったん全部解体し、石のひとつひとつにナンバリングを施し、コンピュータ管理をおこなっている。なお、この修復事業には日本はじめ27か国が資金協力をおこなった。日本では国際技術諮問委員として千原大五郎が選出されている。

また、1980年からは日本が技術協力をおこない、ボロブドゥールとプランバナン寺院群の2大遺跡とその周辺を歴史公園として整備し、文化遺産を保護しながら、観光と地域振興を図る計画が実施に移された[48]

ボロブドゥール、ムンドゥッ、パオン3寺院の位置関係

1991年にはボロブドゥール東3kmのムンドゥッ寺院、東1.8kmのパオン寺院とともに「ボロブドゥール寺院遺跡群」として世界遺産文化遺産に登録された[1]。この3寺院は、一直線に並んで立地することから、付近一帯がこれらを含む多数の寺院群で構成された巨大な仏教複合構造物ではなかったかという推測も持たれている。

その後、2006年5月27日にジョクジャカルタ付近を震源地とするマグニチュード6.2のジャワ島中部地震が起こり、寺院の石塔の一部が崩れるなどの被害を受けた。これについては、被害状況の調査がなされ、事後の修復を予定している。

建築

北西側から見たボロブドゥール
ボロブドゥールの平面図。曼荼羅を形成している。
赤が欲界 (kāmadhātu)、橙が色界 (rūpadhātu) 、黄が無色界 (ārūpyadhātu)に対応する。
ボロブドゥールの模型

ボロブドゥールはインドネシア仏教美術を代表する建築であり、ジャワにおける仏教建築技術と造形美術の到達点と評価されている。建築思想はインド由来のストゥーパ曼荼羅に基づく一方、インドネシア先史時代の巨石文化に見られる階段状祭祀施設(punden berundak)の伝統も継承していると考えられている。したがってボロブドゥールは、祖先崇拝の在来信仰と仏教における涅槃到達の思想が融合した建築とみなされている[49]

曼荼羅構造

ボロブドゥールの平面図。仏教宇宙観を表現する曼荼羅を形成している。
空撮によるボロブドゥール。階段ピラミッド状の構造と曼荼羅形式の平面配置が確認できる。

ボロブドゥールは巨大な単一のストゥーパとして築かれており、上空から見ると巨大な曼荼羅を形成している。曼荼羅は正方形と同心円から構成される図像であり、宇宙の構造と悟りへの道程を象徴するものである[50]

ボロブドゥールの基壇は一辺約123メートルの正方形で、その上に九層のテラスが築かれている。下部六層は方形、上部三層は円形で構成され、最上部には中央大ストゥーパが据えられている。この構成は大乗仏教における悟りへの段階的上昇を象徴するとともに、仏教宇宙観を建築空間として具現化したものと考えられている[51]

また、ボロブドゥールの設計は密教系仏教における宇宙観と心の構造を表現した巨大な曼荼羅であるとする解釈が広く受け入れられている[52]。 一方で、シャイレーンドラ朝密教または金剛乗仏教の信奉者であったことを示す直接的証拠は存在せず、ボロブドゥールを曼荼羅とみなす解釈に慎重な立場を取る研究者もいる。

ボロブドゥールの建築は階段状ピラミッドの形態をとる。こうした構造はインドネシア先史時代のオーストロネシア系巨石文化にみられる階段状祭祀施設(punden berundak)との関連が指摘されている。西ジャワ州チソロク近郊のパングヤンガン遺跡やクニンガン近郊のチパリ遺跡では類似した構造物が発見されており、山岳や高所を祖霊やヒャン(神霊)の住処とみなす在来信仰がボロブドゥールの設計思想に影響を与えた可能性がある[53]

ボロブドゥールの各層は巡礼者が時計回りに回廊を進みながら上層へ向かうよう設計されている。参拝者は階段と回廊を通じて徐々に上昇し、各層で仏教教義を学びながら最上部へ至る。この巡礼路そのものが仏教宇宙観を体験的に表現する装置となっている[54]

なお、ボロブドゥールの階層構造は長らく欲界(カーマダートゥ)、色界(ルーパダートゥ)、無色界(アルーパダートゥ)の三界を表現したものと解釈されてきた[55]。 しかし近年の研究では、この三分法は20世紀初頭にウィレム・フレデリック・スタッターハイム英語版が提示した仮説に由来するものであり、ボロブドゥールの浮彫や構造そのものから直接導き出されるものではないとの批判も提起されている[56]

基壇とカーマダートゥ

1885年、ボロブドゥールの修復作業中に基壇部分の内部から隠された構造が偶然発見された[57]。 この「隠された基壇」(hidden footing)には完成済みおよび未完成の浮彫が存在し、そのうち160面は仏教の因果応報の法則を主題とする『カルマヴィバンガ』(Karmawibhaṅga)を描いている[58]。 また一部のパネルには、彫刻師に対する制作指示とみられる短い銘文も刻まれている。

これらの浮彫は完成前に、外側から追加された補強の石積みによって覆われたため、現在では大部分を見ることができない。南東隅のみ一部が公開されており、現地で原位置の浮彫を観察できる。

隠された基壇が覆われた理由については諸説ある。もっとも有力な説は、建設中に構造的な不安定性が判明し、地盤沈下や外側への崩落を防ぐために追加の基壇を設けたというものである[59]。 一方で、宗教的・象徴的理由から意図的に覆われたとする説も提唱されている[60]

伝統的な解釈では、この基壇部分は欲界を意味するカーマダートゥ(Kāmadhātu)に対応するとされる。欲望や執着に支配された人間世界を表現し、『カルマヴィバンガ』の浮彫は善悪の行為とその報いを描くことによって、輪廻世界における因果応報の法則を示している[61]

しかし近年の研究では、この層を単純にカーマダートゥとみなすことに異論も示されている。浮彫の内容はむしろ苦しみに満ちた輪廻世界(サンサーラ)そのものを描いており、仏教の四諦における苦諦と集諦に対応するものと解釈する方が適切であるとの見解も提唱されている[62]

基壇を覆う追加構造には約13,000立方メートルの安山岩が使用されており、ボロブドゥール全体の安定性を支える重要な構造要素となっている。

回廊とルーパダートゥ

浮彫で装飾された回廊
門を守護する獅子像

基壇の上には方形のテラスが五層にわたって積み重ねられており、その外周には巡礼者が歩行できる回廊が設けられている。各層は壁面と欄干によって囲まれ、その内外両面には精巧な浮彫が刻まれている。回廊全体の延長は約2.5キロメートルに達し、1,300面以上の物語浮彫と1,200面以上の装飾浮彫によって構成されている。

浮彫には『ラリタヴィスタラ』(Lalitavistara)、『ジャータカ』(Jātaka)、『アヴァダーナ』(Avadāna)、『ガンダビューハ』(Gaṇḍavyūha)などの物語が描かれている。これらは釈迦の生涯や前世譚、菩薩の修行と利他行を表現しており、巡礼者は回廊を時計回りに進みながら仏教の教えを学ぶ構成となっている。

回廊部分には多数の仏像が配置されている。これらは欄干上部の壁龕に安置されており、本来は432体の仏像が存在していた[57]。各方位や階層ごとに異なる印相(ムドラー)を示しており、仏教宇宙観との関連が指摘されている。

欄干の装飾には階層ごとの変化がみられる。最下層の欄干は宝珠を意味するラトナによって飾られるが、その上の層では小型ストゥーパである小ストゥーパ(ストゥーピカ)が用いられている。この変化は下層から上層への精神的上昇を象徴するものと解釈されている。

従来、この方形回廊部分は色界(ルーパダートゥ、Rūpadhātu)に対応すると説明されてきた[63]。 しかし近年の研究では、ここに描かれる浮彫は色界の存在を表現したものではなく、むしろ菩薩道の実践過程や悟りへの道筋を示していると指摘されている。したがって、この層は仏教の四諦における道諦、すなわち苦の滅尽へ至る道(マールガ、Mārga)を表現したものとみなす方が適切であるとの見解も示されている[64]

円壇とアルーパダートゥ

方形回廊の上部には三層の円形テラスが設けられている。これらの円壇は下層部とは対照的に浮彫を持たず、開放的で簡潔な空間構成となっている。

円壇には合計72基の透かし彫りストゥーパが同心円状に配置されている。三層の円壇にはそれぞれ32基、24基、16基のストゥーパが設置され、その中心には巨大な主ストゥーパが据えられている。ストゥーパ内部には坐像が安置されており、外部からは格子状の開口部を通してその姿をうかがうことができる。

下二層のストゥーパには菱形の開口部が設けられているのに対し、最上層のストゥーパには正方形の開口部が採用されている。この違いについては、悟りへの段階的到達を象徴したものと解釈されている。

従来、この円壇部分は無色界(アルーパダートゥ、Arūpadhātu)を表すものと説明されてきた[65]。 装飾を排した簡素な空間は、形ある世界から形なき世界への移行を象徴すると解釈されている。

しかし近年の研究では、仏教教理上の無色界は無色界天(アルーパブラフマ)の領域を意味するものであり、ボロブドゥールの円壇にはそれを示す図像的根拠が存在しないことが指摘されている。むしろこの部分は苦の滅尽(ニローダ、Nirodha)と修行の成就による果(パラ、Phala)を象徴する構造として理解する方が妥当であるとされる[66]

円壇中央の主ストゥーパはボロブドゥール全体の頂点をなす。外面は装飾を持たない完全な閉鎖構造となっており、伝統的には仏陀の最終的な解脱であるパリニルヴァーナ(般涅槃)を象徴すると解釈されている。ジャワ文学『セラット・チェンティニインドネシア語版』には、この主ストゥーパ内部に未完成の仏像が存在したとの伝承が記録されている。

建築技術

ボロブドゥール断面図。基壇・主体部・頂部には4:6:9の比例関係がみられる。
排水口として機能するマカラ彫刻
カーラ=マカラ意匠を備えた階段門

ボロブドゥールの建設には約55,000立方メートルの安山岩が使用された。石材は周辺の採石場やプロゴ川流域から採取され、切り出し・加工の後に建設地へ運搬された[67][68]

建物はモルタルや接着剤を用いずに構築されている。石材同士は凸部と凹部、ならびに蟻継ぎ状の結合部によって組み合わされており、巨大な組積構造を形成している。ストゥーパや[[壁龕]]、門のアーチ部分には持送り構造(コーベル・アーチ)が用いられている。浮彫の彫刻は壁面完成後に現地で直接施工された[69]

ボロブドゥールは熱帯モンスーン気候下に建つため、排水設備にも高度な工夫が施されている。建物には排水溝と導水路が張り巡らされ、各所に設けられた100か所の排水口によって雨水が効率的に排出される。排水口の先端にはカーラやマカラを模した彫刻が設けられている[70][71]

ボロブドゥールは他のジャワ寺院と異なり、平地ではなく自然丘陵の上に建設されている。一方で建築技法そのものは同時代のジャワ寺院と共通している。内部空間を持たず、段階的に上昇するテラス構造によって構成されていることから、かつては寺院ではなく巨大なストゥーパであると考えられていた[72]。 しかし現在では、その複雑な構成と宗教的機能から、巡礼と礼拝のための宗教建築として理解されている。

伝承によれば、ボロブドゥールの設計者はグナダルマインドネシア語版と呼ばれる人物である[73]。 ただし、その名は碑文などの同時代史料には現れず、主としてジャワの伝承に基づくものである。

建設には「ターラ(tala)」と呼ばれる尺度が用いられた。これは額の生え際から顎先までの長さ、あるいは親指と小指を最大限に開いたときの長さを基準とする人体尺度である[74]。 1977年の調査では、ボロブドゥール各部に4:6:9の比例関係が繰り返し用いられていることが確認された。この比率は近隣のムンドゥット寺院パウォン寺院にもみられ、暦法・天文学・宇宙論との関連が指摘されている[75][76][77]

ボロブドゥール全体は基壇、主体部、頂部の3つに区分される。基壇は123 m 四方、高さ約4メートルである。主体部は5層の方形テラスから構成され、各層は上方へ向かうにつれて後退している。頂部には3層の円壇が設けられ、その中央に主ストゥーパが置かれている。主ストゥーパ頂部までの高さは約35メートルであり、かつて存在した3重傘蓋(チャトラ)を含めると約42メートルに達したと推定されている。

四方の中央には階段が設けられ、巡礼者を最上部へ導く。階段の門には32体の獅子像が配置され、門口上部にはカーラ、両側にはマカラが彫刻されている。このカーラ=マカラ意匠はジャワ寺院建築に広くみられる特徴である。正面入口は東側に位置し、浮彫物語の読解もここから開始されるよう設計されている。

レリーフ

ギャラリー

概要

ボロブドゥールの壁面における物語レリーフの配置

ボロブドゥールは、基壇から上層へ進むにつれて建築意匠が変化するよう設計されている。下層部では精緻な浮彫(レリーフ)による装飾が全面を覆う一方、上部のアルーパダートゥ(無色界)の円形壇では装飾が大幅に抑えられている[78] 特に最初の4層の回廊壁面は膨大なレリーフ彫刻によって覆われており、これらは仏教世界における最高水準の美術作品の一つと評価されている[79]

ボロブドゥールのレリーフには、8世紀の古代ジャワ社会の日常生活が豊かに描かれている[80][81]。 王宮における貴族生活、森林で修行する隠者、村落の庶民の暮らしのほか、寺院、市場、多様な動植物、さらにはインドネシア固有の伝統建築までも表現されている。

登場人物も多彩であり、王、王妃、王子、貴族、廷臣、兵士、従者、庶民、僧侶、隠者などが描かれる。また、阿修羅、神々、菩薩キンナラガンダルヴァアプサラスなど、仏教世界の超自然的存在も数多く表現されている[80][81]

これらのレリーフは、8世紀の東南アジア海域世界に関する歴史研究の重要な資料でもある。建築様式、武器、経済活動、服飾、交通手段などの研究に利用されており、古代ジャワ社会の具体像を知る手がかりを提供している[80][81]

特に有名なのが、双胴式アウトリガー船を描いたボロブドゥール船インドネシア語版のレリーフである[82]。この船を復元した実物大模型は、2003年から2004年にかけてインドネシアからアフリカまで航海を行った後、ボロブドゥールの北方に位置するサムドラ・ラクサ博物館インドネシア語版に展示されている[83]

さらに見る 区分, 位置 ...
物語レリーフの配置[84]
区分位置内容面数
隠された基壇壁面カルマヴィバンガ160
第一回廊 主壁 ラリタヴィスタラ120
ジャータカ/アヴァダーナ120
欄楯 ジャータカ/アヴァダーナ372
ジャータカ/アヴァダーナ128
第二回廊 欄楯ジャータカ/アヴァダーナ100
主壁ガンダヴィユーハ128
第三回廊 主壁ガンダヴィユーハ88
欄楯ガンダヴィユーハ88
第四回廊 主壁ガンダヴィユーハ84
欄楯ガンダヴィユーハ72
合計 1,460
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ボロブドゥールには約2,670面のレリーフが存在し、そのうち1,460面が物語レリーフ、1,212面が装飾レリーフである。これらは建造物の壁面と欄楯を覆っており、総面積は約2,500平方メートルに達する[84]。 レリーフは隠された基壇部(カーマダートゥ)と、その上の5層の方形壇(ルーパダートゥ)に配置されている[84]

物語レリーフは全長約3キロメートルにわたり、11の連続した物語群として構成されている[84]。最初の系列は基壇部の160面からなり、残る10系列は東側階段から始まる4つの回廊の壁面と欄楯に展開する。壁面の物語は右から左へ、欄楯の物語は左から右へ読まれる。これは参拝者が聖域を右側に保ちながら時計回りに巡礼するプラダクシナ(右繞)の作法に対応している[84]

基壇部には(カルマ)の法則が描かれる。第一回廊主壁には上下二段の物語帯が設けられ、上段には釈迦の生涯、下段および第一・第二回廊の欄楯には仏陀の前世譚が刻まれている[84]。さらに上層では、善財童子(スダナ)の求道の旅が展開され、最終的に最高の智慧の獲得へと至る[84]

カルマの法則

ボロブドゥールの隠し基壇に刻まれたカルマウィバンガの場面[注釈 1]

隠し基壇にある160面のレリーフは連続した物語を構成しておらず、それぞれが縁起にもとづく因果応報の一場面を描いている[84]。そこには噂話から殺人に至るまでのさまざまな悪行と、それに対応する報いが表現されている。また、布施や聖地巡礼などの善行と、それによって得られる功徳も描かれている[84]。さらに地獄の苦しみや天界の歓楽も表現されており、輪廻(サンサーラ)の全体像が描き出されている[84]

1890年から1891年にかけて、基壇外装を解体して隠し基壇を露出させた際、カシジャン・チェパス(Kasijan Chepas)によって全レリーフの写真撮影が行われた[85]。これらの写真は現在、寺院北方に位置するボロブドゥール博物館インドネシア語版内のカルマウィバンガ博物館インドネシア語版に展示されている[86]

修復工事の際、基壇外装は再び設置されたため、現在では隠し基壇の南東隅の一部のみが公開されている[87]

仏陀の前世譚(ジャータカ)と伝説的人物の物語(アヴァダーナ)

ジャータカは、仏陀が悉達多太子として生まれる以前の前世を語る物語群である[88]。そこでは未来の仏陀が人間や動物などさまざまな姿で現れ、王、追放者、神、象などとして描かれるが、いずれの場合も物語が説くべき徳を体現している[89]

一方、アヴァダーナ(アヴァダーナ)はジャータカに類似する説話であるが、主人公は菩薩その人ではない。そこに語られる聖なる行為は、他の伝説的人物たちによるものとされる[90]。ボロブドゥールのレリーフでは、ジャータカとアヴァダーナは同一の連続した説話群として扱われている。

第一回廊主壁下段の最初の20面には、『スダナクマーラ・アヴァダーナ』(Sudhanakumaravadana)に基づくスダナの善行譚が描かれている。また同回廊欄楯上段の最初の135面には、『ジャータカマーラー』(Jatakamala)に収録された34の物語が表現されている[91]

残る237面は他の典拠に基づく説話であり、第二回廊の下段にも同様の主題が続く。いくつかのジャータカは重複して表現されており、その一例としてシビ王の物語が挙げられる。シビ王は叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマの祖先とされる人物である。

善財童子の真理探究(ガンダヴィユーハ)

第二回廊北壁に刻まれた『ガンダヴィユーハ』の場面

ガンダヴィユーハGandavyuha)は、『華厳経』(Avatamsaka Sutra)最終章に収められた物語であり、少年スダナ(善財童子)が最高完全智を求めて遍歴する姿を描く[92]。この物語は第二回廊の半分と第三・第四回廊全体にわたって表現されており、総計460面のレリーフから構成される[92]

主人公である裕福な商人の子スダナは、第16面で初めて登場する。それ以前の15面は序章にあたり、釈迦舎衛城(シュラーヴァスティー)の祇園精舎(ジェータヴァナ)において三昧(サマーディ)に入った際に起こった奇跡を描いている[93]

スダナはまず文殊菩薩から、最初の善知識である比丘メーガシュリーのもとを訪ねるよう勧められる[94]。その後の旅の中で、スダナは53人の師と出会う。彼が訪ねる相手には、スプラティシュティタ、医師メーガ、銀行家ムクタカ、比丘サーラドヴァジャ、女性在家信者アーシャ、ビシュモッタラニルゴーシャ、バラモンのジャヨスマヤトナ)、マイトラーヤニー王女、比丘スダルシャナ、少年インドリイェーシュヴァラ、優婆夷プラブータ、銀行家ラトナチューダ、アナラ王シヴァ(シヴァ・マハーデーヴァ)、摩耶夫人弥勒菩薩などが含まれる[94]

これらの善知識はそれぞれ異なる教え、知識、智慧をスダナに授ける。その出会いの場面は主として第三回廊に刻まれている。

その後、スダナは再び文殊菩薩に会い、さらに普賢菩薩の住処へ赴く。第四回廊全体は普賢菩薩の教えに充てられている。物語は最終的に、スダナが最高の智慧と究極の真理を成就する場面で締めくくられる[95]

仏像と装飾

仏像

回廊の外縁をめぐる壁には432体(各面108体)の仏像が安置されている[4]。仏像は、方形壇の各面で、面ごとに異なった印相を結んでいる。各面第4層(第三回廊[96])までの368体(各面92体)については、それぞれ以下のようになっている。

第5層(第四回廊)の64体は[96]、東西南北ともに毘盧遮那仏で法身説法印を結んでいる。

円形壇の72体の転法輪印の仏像は釈迦如来と考えられており、このことより、ボロブドゥール全体が密教[97]の系統を引く巨大な立体曼荼羅であるとする説が有力である。

吐水口の彫刻

装飾

5層の方形壇の縁には壁がめぐらされ、壁には計20の吐水口が取り付けられている。吐水口は、想像上の生き物の彫刻で飾られている。

また、壇の上下を結ぶ階段の入口は、カーラ(鬼面)とマカラ(海竜)で装飾された拱門(アーチ)になっている。

観光と巡礼

スハルト

1984年2月22日、インドネシアのスハルト大統領(当時)は、国家的行事として、ボロブドゥールの修復完成記念式典をおこなった。そのなかでスハルトは、ボロブドゥールが国民的宗教財産である旨の演説をおこなっているが、これは少なからず波紋をまねいた。1985年にはイスラーム過激派がボロブドゥールに侵入し、円形壇のストゥーパ9基を破壊する挙に出た(1985年のボロブドゥール爆撃インドネシア語版英語版)。インドネシアにおける仏教徒は、国民全体のわずかに0.4%にすぎない。遺跡周辺の村々では仏教徒はほぼゼロと言える[98]

遠足に訪れた子供たち

とはいえ、ボロブドゥールは今や年間100万人の観光客が訪れる観光地となっている。ただしそれは、政府外貨を獲得する代償として、地域住民が負担を強いられる原因ともなった。遺跡環境整備のための周辺農地の収用である。これは強制的な立ち退きを含むものであり、耕地面積の狭小な農民にとって大きな痛手となった。遺跡公園となった外側の土地も、はっきりした買収費が払われていない部分が多かった[99]

今日、ボロブドゥールには、数多くのインドネシアの児童生徒が社会見学や学習旅行、遠足のために訪れるが、仏教徒がわずかなインドネシアでは管理は株式会社化し、イベントやアトラクションを考えて経営する遊園地化してしまった。しかし、ボロブドゥールは仏教徒にとって重要な意味をもつ場所であることは言うまでもない。数多くの仏僧や一般信者が参詣につめかけるようになり、寺院としての本来の役割を担うようになった。

ボロブドゥールを参詣する仏僧

上述のような問題や批判がある一方で、国民統合の象徴のひとつとして国内外からの強い関心が払われている。

ボロブドゥールでは、年に1回、5月満月の夜にワイサック(Waisak → ウェーサーカ祭)と呼ばれる祭りが開かれている。この日はインドネシアの公式の祝日にもなっていて、国内外から熱心な仏教徒がムンドゥッ寺院に集まり、経典を唱えながら西に向けて行脚し、さらに、ボロブドゥールの回廊を登って涅槃に至るという一大行事となっている。

ギャラリー

脚注

参考文献

関連項目

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