カレン民族同盟とカレン社会
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カレン民族同盟とカレン社会(カレンみんぞくどうめいとカレンしゃかい)では、ミャンマーの少数民族であるカレン族の代表的な政治・武装組織であるカレン民族同盟(KNU)と、国内外に分散して居住するカレン族市民との歴史的、政治的、および社会的な関係について記述する。
1947年のKNU結成以来、カレン社会は「コートレイ」と呼ばれる自決権を求めた武装闘争を継続してきたが、その内部は居住地域、宗教(キリスト教と仏教)、言語、および政治的立場の違いによって多層化している。KNUが主導する武装革命運動に対し、ビルマ中央部の政府支配地域で平穏な生活を営む「静かなカレン(Other Karen)」、紛争地域で複数の勢力の狭間に置かれた住民、タイ国境の難民キャンプに逃れた避難民、そして欧米諸国へ移住したディアスポラなど、各グループはKNUに対して異なる距離感と評価を抱いている。本項では、これら多様なカレン市民の現状と、武装闘争の長期化がもたらした社会の分断と変容について詳述する。
蜂起の初期と参加者層

初代国軍総司令官であるスミス・ダンによれば、当時のカレン族の推定人口約150万人のうち、独立直後のKNUの蜂起に関与したのは約10%に過ぎなかったのだという。当時のミャンマー軍(国軍)には第1から第3までのカレン・ライフル連隊が設置されており、民族の軍事的エリートが多数在籍していたが、彼らの多くは武装蜂起に対して非常に冷淡、あるいは曖昧な感情を抱いていた。あるカレン族男性の証言によれば、当時の将校たちは軍人としての職業的中立性や、自身の昇進の見込みが失われることを懸念しており、必ずしも民族自決の旗印の下に即座に結束したわけでなかった。それは指導者層も例外ではなく、反乱軍に加わった第1カレン・ライフル連隊の隊長・ミンマウン大佐(Colonel Min Maung)でさえ、当初は国家反逆罪で裁かれることを恐れ、蜂起への参加には消極的な姿勢を見せていたのだという[1][2]。
このような軍内部の忠誠心の分裂を象徴する出来事が、1949年2月のメイミョーにおける兵士解放事件である。第1カレン・第1カチン連合軍が、拘束中であった2,000人から3,000人規模のカレン族の国軍兵士を解放した際、実際に反乱軍に合流したのはそのうちのわずか300人から400人程度だった。スミス・ダン自身を含む多くの兵士は、、国軍への忠誠を誓い続けて蜂起への参加を拒否した。この事実は、民族のアイデンティティよりも、組織への忠誠や職業的倫理を優先したカレン族兵士が多数存在したことを示している[1]。
また、武装蜂起を主導した指導者層の多くは、大学教育を受けたキリスト教徒のスゴー・カレン族であった。しかし、これらの属性は当時のカレン族エリート層における普遍的なモデルであり、武装闘争を選択した者と、政府協力や中立を維持した非武装派との間に、社会的・教育的な背景の明確な相違を見出すことは困難である[1]。
一方、一般兵士の構成はより多様であった。その中核を担ったのは、戦時中の経験を持つ国軍や警察の退役軍人であったが、同時に多くの学生や若者が存在した。彼らの多くは、当初から政治的な信念に基づき参加したというよりは、戦火の拡大や社会の混乱の中で期せずして紛争に巻き込まれ、自衛や周囲の動向から反乱軍に合流したとされる。これら若年層の兵士の平均年齢は、18歳から25歳であったと推定されている[1]。
インセインでKNDOと共にビルマ族と戦ったことは簡単に説明できる。私はインセイン在住で、事態は私の故郷、文字通り家のすぐ近くで始まった。参加する以外に選択肢はなかった…インセイン一帯に迫撃砲弾や35ポンド砲の砲弾が降り注ぎ、いつ殺されてもおかしくない状況だった。私も反撃するために武器を持っていたほうがましだと思った。 — バソー・キン(1948年にKNDOに参加したカレン族男性)
協調路線を選択した勢力

KNUが武装蜂起へと傾斜していく一方で、カレン族の青年組織であるカレン青年機構(Karen Youth Organisation:KYO)を中心とした勢力は、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)政府との協調路線を選択し、合法的かつ政治的な手段による地位向上を目指した。この協調姿勢を象徴するのが、KYOのメンバーでもあったKNU初代議長サン・ポーティンであり、彼は行政参事会においてソー・バウジーの後任として委員に就任し、KNUがボイコットした1947年の制憲議会選挙においても、KYOの候補者18人全員が無投票当選を果たすという結果をもたらした[3]。
また、イギリス植民地時代の高名なカレン民族主義者・サン・C・ポーの娘で、やはりKYOのメンバーだったバーマウンチェイン夫人は、KNU武装闘争に反対していた。インセインの戦いの際にも、若者たちに職業人として社会に貢献するよう説得し、戦線から引き戻したという逸話が残されており、後に1952年に設置されたカレン州の初代州首相に任命され、制度の中からの民族保護を担った[4][3]。
さらに、マーン・ウィンマウンやアウンパ(Aung Pa)のように、連邦政府の要職において実力を振るう指導者も現れた。マーン・ウィンマウンはアウンサンを初期から信頼し、ウー・ヌ政権下で閣僚を務めた後、1958年にはビルマ連邦大統領に就任した。また、ウー・ヌ政権下で副大統領を務めたアウンパは、ビルマ語を母語としカレン語を話さない「ビルマ化」したカレン族の代表的な存在だった。彼らは大統領や副大統領といったポストに就く際、キリスト教から仏教へと改宗したが、こうした行動は他のキリスト教徒カレン族から日和見主義的と見なされることもあった。ネ・ウィンが軍事クーデターを起こす前の議会制民主主義の時代には、連邦カレン連盟(UKL、KYOが改組)、カレン連合機構(United Karen Organisation:UKO)、カレン会議(Karen Congress:KC)といったカレン系政党があり、国政に参画した。このように、協調路線を選んだエリートたちは、宗教的・文化的な妥協を伴いながらも、国家の中枢から民族の利益を追求する道を選択した[5]。
| 氏名 | 所属 | 生年および
1949年時点の年齢 |
学歴 | 宗教 | 言語 | 出生地 | 1949年時点の状況 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ソー・バウジー
Ba U Gyi |
KNU | 1905年 / 44歳 | 法廷弁護士(イギリス) | キリスト教 | スゴー | エーヤワディ地方域、パテイン | 武装蜂起 |
| ソー・ラートー
Sgaw Ler Taw |
KNU | 1914年 / 35歳 | 文学士(ジャドソン大学) | キリスト教 | スゴー | タウングー | 武装蜂起 |
| スゴー・モーレイ
Sgaw Mawlay |
KNU/KNDO | 1916年 / 33歳 | 準学士(2年制大学) | キリスト教 | スゴー | ラングーン、インセイン | 武装蜂起 |
| サンキー
Sankey |
KNU/KNDO | 1915年 / 34歳 | 文学士(ジャドソン大学) | キリスト教 | スゴー | モン州、モーラミャイン | 武装蜂起 |
| タータート
Thra Tha Hto |
KNU | 1902年 / 1947年時点で47歳 | 高校卒業後大学進学。1960年代に文学士/法学士取得 | キリスト教 | スゴー | ペグー管区、タラワディ | 逮捕 |
| マーン・バザン
Mahn Ba Zan |
KNU/KNDO | 1916年 / 33歳 | 文学士(ラングーン大学) | キリスト教 | ポー | エーヤワディ地方域、パテイン | 武装蜂起 |
| ハンター・タームウェ
Hunter Tha Hmwe |
KNU/KNDO | 1905年 / 46歳 | 文学士 | キリスト教 | スゴー | (記載なし) | 武装蜂起 |
| サン・ポーティン
San Po Thin |
KYO | 1903年 / 46歳 | 文学士(アメリカ) | キリスト教 | スゴー | エーヤワディ地方域、パテイン | 融和(政府協力) |
| マーン・ウィンマウン
Mahn Win Maung |
KYO | 1916年 / 33歳 | 文学士(ジャドソン大学) | 仏教(1945-49年当時は恐らくキリスト教) | ポー | エーヤワディ地方域、キョンピョウ | 融和(政府協力) |
| バー・マウンチェイン夫人
Ms Ba Maung Chain |
KYO? | 1905年 / 44歳 | 文学士 | キリスト教 | スゴー | エーヤワディ地方域、パテイン | 融和(政府協力) |
| ソー・トゥンセイン
Saw Tun Sein |
KYO | 1923年 / 26歳 | 高校卒業 | キリスト教 | スゴー | ラングーン、トワンテ | 融和(政府協力) |
| マーン・チョーセイン
Mahn Kyaw Sein |
KYO | (記載なし) | 文学士(ラングーン大学) | キリスト教 | ポー | ラングーン、トワンテ | 融和(政府協力) |
| マーン・バカイン
Mahn Ba Khaing |
KYO | 1903年。1947年にアウンサンと共に暗殺[7] | 高校卒業 | キリスト教 | ポー | エーヤワディ地方域、ヘンザダ | 融和(政府協力) |
