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カレン族

ミャンマーとタイに居住する少数民族 From Wikipedia, the free encyclopedia

カレン族(カレンぞく、英: Karen; 中: 克倫族; ビルマ語: ကရင်(လူမျိုး)、ALA-LC翻字法: Ka raṅʻ (lū myui")、IPA: /kəjɪ̀n (lùmjó)/ カイン(・ルーミョー))は、ミャンマー南東部からタイ西部にかけて広く居住する、チベット・ビルマ語派に属する民族の総称である。ミャンマー国内ではシャン族に次ぐ規模の少数民族であり、総人口の約1割(推計300万〜700万人)を占めるとされる[1]。

タイ王国の旗タイ400,000
概要 総人口, 居住地域 ...
カレン族(カイン族)
カレン族の女性
総人口
4,000,000
居住地域
ミャンマーの旗 ミャンマー3,500,000
タイ王国の旗 タイ400,000
言語
カレン諸語
宗教
上座仏教,キリスト教,精霊信仰
関連する民族
カレンニー族,パーオー族
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「カレン」という単一の均質な民族が存在するわけではなく、文化や互いに意志疎通が困難な言語が異なる多数のサブグループの集合体である。代表的なグループとして、山岳地帯から平野部まで最も広く分布する「スゴー・カレン」と、主にデルタ地帯や低地に分布する「ポー・カレン」があり、この2グループで全体の6割以上を占める。

宗教的にも極めて多様性が高く、全体人口の約8割を上座部仏教徒が占める一方で、主にスゴー・カレンを中心にキリスト教(バプテスト派など)が深く浸透しており、その他にも伝統的な精霊信仰(アニミズム)や、これらが混淆した独自の宗教ネットワークが存在する。

歴史的には、19世紀のイギリス植民地時代に宣教師の教育を受けたキリスト教徒カレンが社会的に台頭し、早くから民族主義運動を展開した。ミャンマー独立後の1949年以降は、カレン民族同盟(KNU)を中心に自治を求める反政府武装闘争を開始し、「世界で最も長く続く内戦」とも呼ばれる民族紛争の当事者として国際的に知られている。

しかし、武装闘争に参加しているのは実際にはカレン族の一部であり、大部分の仏教徒カレンや平野部のカレンはミャンマー社会の中で一般市民として生活を営んできた歴史を持つなど、その実態は非常に複雑で多面的である。長年の紛争により、数十万人規模の難民やタイへの出稼ぎ労働者、さらに欧米など海外へ定住する巨大なディアスポラ(離散共同体)を生み出している。

基本情報

名称

「カレン(Karen/あるいはカイン、クイン)」という名称は、主に外部からの他称(ビルマ語の「カイン」、タイ語の「カリアン」)に由来する[2]。カレン語を話す人々の間ではグループごとに自称が異なり、最大サブグループであるスゴー・カレンは自身を「プアカニョー」、東部ポー・カレンおよび西部ポー・カレンは「プロン」と自称する。これらはいずれもカレン祖語の「人間」を意味する言葉にさかのぼる[3]。

民族構成

カレン族は単一の均質な集団ではなく、言語や文化が異なる多数のサブグループの総称である。ミャンマー政府が公認する135の民族(タインインダー)のうち、カヤー系列には以下の11の主なサブグループが存在すると分類されている。 この中で人口の約65%を占める2大グループが「スゴー・カレン」と「ポー・カレン」である[4]。

  • カイン(Kayin)
  • 白カレン(Kayinpyu)
  • パレチ(Pa-Le-Chi)
  • モン・カレン(Mon Kayin / Sarpyu)
  • スゴー(Sgaw)
  • タレープワ(Ta-Lay-Pwa)
  • パクー(Paku)
  • ブウェ(Bwe)
  • モンネプワ(Monnepwa)
  • モンプワ(Monpwa)
  • ポー(Shu / Pwo)

居住

カレン族はミャンマーとタイの両国にまたがって広く分布する。ミャンマー国内では、タイ国境に接するカレン州を中心としつつも、モン州、タニンダーリ地方域、カヤー州、ペグー(バゴー)山地、そして中南部からベンガル湾に面するエーヤーワディ・デルタ地帯の平野部や都市部(ヤンゴン近郊のインセインなど)に至るまで、広範囲に居住している[5]。

主要なサブグループの分布傾向を見ると、最大グループであるスゴー・カレンは、カレン州やペグー山地などの山岳地帯からエーヤーワディ・デルタの平原地帯まで最も幅広く分布している。一方、ポー・カレンは、主にミャンマー南部の標高が低い平野部やデルタ地帯、およびタニンダーリ沿岸地域に集中して居住する傾向がある[6]。

また、長きにわたる民族紛争の影響により、およそ15万人の難民や数十万人の出稼ぎ労働者がタイ側に居住しているほか、北米、ヨーロッパ、オーストラリアなどの第三国へ定住した約10万人の巨大なディアスポラを形成している(cf.カレン族#難民)[7]。

人口

正確な民族別人口統計が存在しないため、推定値には大きな幅がある。ミャンマー政府の統計とカレン側の主張とで数値が異なり、一般的には約300万人から700万人の間と推計されている。ミャンマーにおいてはシャン族に次ぐ第2位(あるいは国全体の約1割前後を占める)の少数民族人口規模を持つとされる。ちなみに、内務省総務局(GAD)の2019年報告では、336万4006人(全人口の6.69%)である[8]。

言語

カレン系諸言語群はチベット・ビルマ語派に属するが、他のチベット・ビルマ系言語群がSOV(主語・目的語・動詞)の語順を持つのに対し、カレン系言語はモン・クメール語やタイ語との接触の影響でSVO型に変化したという特徴を持つ。 カレン語の中には互いに意志疎通が不可能な複数の言語が存在し、代表的な「スゴー・カレン語(英語版)」「東部ポー・カレン語」「西部ポー・カレン語(英語版) 」の間でも通訳なしでは会話が成り立たない。このため、異なるグループ間での共通語としてビルマ語が用いられることも多い[3]。

また、文字体系は個々人の「宗教的アイデンティティ」と密接に結びついているのが特徴である[3]。

  • キリスト教スゴー・カレン文字/ポー・カレン文字:1830年代以降に米国のバプテスト派宣教師らがビルマ文字をベースに考案したもの。
  • 仏教ポー・カレン文字:モン文字に由来し、19世紀前半から仏教徒ポー・カレンの間で自然発生的に広まり、貝葉などに書き残されてきた。
  • レーケー文字など:特定の宗教カルト(レーケー教など)の信者のみが独自のお告げによって用いる独自の文字体系。

宗教

カレン族の宗教実践は極めて多様かつ重層的である[9]。

  • 仏教:全体人口の約8割を占める多数派である。特にポー・カレンは、隣接するビルマ族やモン族との歴史的・文化的な関わりの中で古くから上座部仏教を受容しており、圧倒的多数が仏教徒である。スゴー・カレンのなかにも平野部を中心に多くの仏教徒が存在し、ターマニャ僧正(英語版)などの全国的なカリスマ僧侶も輩出している。ウ・トゥザナは民主カレン仏教徒軍(DKBA)の創設者である。
  • キリスト教:19世紀初頭以降の欧米宣教師による布教で広まった。全体人口の約16〜20%(バプテスト派が最大、次いでカトリックなど)を占める少数派であるが、西洋教育を早くから受けたため民族主義運動や政治・軍事(KNUなど)の指導層を長らく形成してきた。
  • 伝統的精霊信仰(アニミズム):「オヘ(アウンヘ)」と呼ばれる精霊(ブガ)への供犠儀礼が広く見られる。豚や鶏を犠牲にして家族の健康を祈るもので、母系を通じて母から娘へと作法が継承される点に特徴がある。
  • 混淆的宗教運動(カルト):カレン州を中心に、「タラコン」「レーケー」「プータキー」「ドゥーウェー」など、カレン的慣習と仏教の未来仏(アーリヤ)信仰などが融合した千年王国的な宗教共同体が多数存在する。これらは伝統的な動物供犠を拒絶し、菜食、独自の文字、独特の民族衣装や髷(まげ)の着用を実践するなど、独自の民族ネットワークを形成している。

生業

居住環境に応じて多様な生業を持つ。 エーヤーワディ・デルタ地帯やカレン州の平野部に住むポー・カレンやスゴー・カレンの多くは、水牛やトラクターを用いた水田稲作に従事する定着農耕民である。一方、泰緬国境の山岳地帯に住む人々は、伝統的に焼畑農業と家畜(豚や鶏など)の飼育で生計を立ててきた。 現在では、ヤンゴンなどの都市部で公務員、教員、医師、工場労働者として働く者が多くいるほか、国境地帯においては国境貿易(密貿易含む)の恩恵にあずかる者、あるいはタイ側への日雇い出稼ぎ労働に従事する若年層も非常に多い。

歴史

起源とカレン民族主義の発露

19世紀以前(植民地化以前)のカレン族の歴史については、確固たる文字史料が残されていないため、詳細はほとんどわかっていない。古くはチベット高原や中国雲南省方面から南下してきたという伝承や起源神話が存在するものの、歴史的根拠には乏しい[1]。

しかし、1920年代から1930年代にかけて、カレン自身の知識人によって独自の歴史書が相次いで出版された。ウー・ピンニャの『カイン王統史』(1929年)、ウー・ソオの『クイン御年代記』(1931年)、そしてソー・アウンフラの『プアカニョーの歴史』(1939年)である。これらはいずれも、当時高まりを見せていたビルマ民族主義(カレン族を「植民地支配の手先」として排撃する動き)に対抗し、カレン・アイデンティティを自己主張するためのカレン民族主義の発露であった[10]。

特に、『カイン王統史』や『クイン御年代記』などは、カレン族の多数派を占める仏教徒の著者が執筆したものである。カレン族の歴史は、欧米の影響を受けた少数派のキリスト教徒を中心に描かれがちであったが、この2書はカレン族が始原からの篤い仏教徒であり、独自の王統を持っていた集団として歴史を編み直した試みであった。一方の『プアカニョーの歴史』はキリスト教徒によって書かれ、ビルマ族やモン族との敵対関係とキリスト教信仰の正当性を強調した。ただし、これらの史書で描かれた古代王国や系譜も、いずれも伝承や想像の産物であり、歴史的・学術的な根拠には乏しい[10]。

植民地時代と民族対立の激化

19世紀の英緬戦争を経てミャンマーがイギリスの植民地となると、キリスト教に改宗した一部のカレン族はイギリスの植民地行政や軍隊に重用され、教育面でも優遇措置を受けた。1881年にはビルマ族に先駆けて政治団体・カレン民族協会(英語版)(KNA)を設立するなど、政治意識を高めていったが、これがいわゆる分割統治としてビルマ族との間に深い溝を生むことになった[11]。

第二次世界大戦中の1942年、日本軍の侵攻に伴ってイギリス軍が撤退すると、親英的なカレン族と、日本軍と同盟を結んだビルマ独立義勇軍(BIA)との間で大規模な民族衝突(ミャウンミャ事件)が発生した。この流血の惨事は、それまで宗教的・文化的に一枚岩ではなかった仏教徒とキリスト教徒のカレン族を、「共通の敵」に立ち向かう「カレン族」として強固に結びつける決定的な契機となった[12]。

独立闘争と長きにわたる内戦

1948年のミャンマー独立に向けた交渉において、パンロン会議(1947年)などでカレン族の完全独立国家(コートレイ)樹立の要求は受け入れられなかった。これに不満を抱いたカレン民族同盟(KNU)は、武装蜂起を決行した。これが世界で最も長く続いている内戦の一つ、「カレン紛争」の始まりである[13]。

KNUは一時期、首都ヤンゴン(ラングーン)郊外にまで迫る勢いを見せたが、ミャンマー軍(国軍)の反撃によってタイ国境地帯の山岳部へと退いた。その後はタイとの国境貿易や密輸品の課税などを資金源として、マナプロウ(英語版)堅固な総司令部を構え、半世紀以上にわたって事実上の独立地帯を支配した[14]。

分裂から和平、そして現在

しかし1990年代に入ると、指導層を占めるキリスト教徒と、前線で戦闘を担う多数派の仏教徒陣笠兵との間で内部対立が表面化した。1994年、仏教徒の兵士らが離反して民主カレン仏教徒軍(DKBA)を結成し、国軍側に寝返ったことでKNUは深刻な打撃を受けた。1995年にはDKBAの手引きにより、難攻不落とされたマナプロウの司令部が陥落した。これを機に多くのカレン族難民がタイ側に流出し、現在も国境地帯に広大な難民キャンプが点在している[15]。

2010年代の民政移管後、テインセイン政権下で行われた和平交渉により、KNUは2012年に二国間停戦合意に署名、2015年には全国停戦協定(NCA)にも署名した。これにより長きにわたる紛争は一時的な平穏を見せた[16]。

ところが、2021年に国軍によるクーデターが発生すると状況は一変した。KNUは軍事政権を強く非難し、NCAの事実上の破棄を宣言。弾圧から逃れてきた民主派勢力(国民防衛隊〈PDF〉)を庇護して軍事訓練を施すとともに、再び国軍との本格的な戦闘を再開し、現在も国境地帯を中心に激しい武力衝突が続いている[17]。

キリスト教徒の伝来とカレン社会の分裂

アドニラム・ジャドソン

カレン族の歴史および民族アイデンティティの形成において、19世紀初頭から始まったアメリカのバプテスト派宣教師などによる布教活動は極めて決定的な役割を果たした。しかし同時に、これがカレン社会内部における宗教的な分断の種を蒔くことにも繋がっている。

ビルマにおける本格的なプロテスタント宣教は、イギリスによる完全な植民地化以前の1813年、アドニラム・ジャドソン夫妻がラングーン(ヤンゴン)に到着したことに端を発する。当初、熱心な仏教徒であるビルマ族の改宗は困難を極めたが、第一次英緬戦争後の1828年、タヴォイ(ダウェイ)においてジョージ・ボードマン宣教師により、カレン族として初めてタビュー(英語版)が浸礼を受けた。元は荒くれ者であったタビューは、受浸後に熱心な伝道師となり、幾多の村を巡って人々をキリスト教信仰へと導いた。彼は「カレンの使徒」として広く紹介され、カレン宣教の大成功を象徴する存在となった[18][19][20]。

フランシス・メイスン

カレン族への布教を行なう上で最大の転機となったのは、言葉を持たなかった彼らに対する「文字の創製」であった。1830年代に宣教師ジョナサン・ウェイド(Jonathan Wade)がモン文字を改良して「スゴー・カレン文字」を考案し、続いてフランシス・メイソン(英語版)がスゴー・カレン語の聖書全訳を完成させた。 文字の導入に伴い、宣教師らは神学校や教育機関、医療施設(後の「ビルマの外科医」ゴードン・シーグレーブ(英語版)の活躍なども有名)を次々と設立した。これによりキリスト教に改宗したカレン(主にスゴー・カレンの一部)は、リテラシーと近代教育を獲得し、イギリス植民地政府の行政機関や軍隊で重用される「キリスト教徒のエリート層」を形成していった[18][19][20]。

一方、文字の獲得や聖書の翻訳に加え、宣教師たちはカレンの伝承を記録し、彼らを「抑圧されてきた無垢な民」として描いた。これにより分散していたカレンの人々に「共通の歴史や文学」がもたらされ、後のカレン・ナショナリズムの強力な基盤となった。 しかし一方で、カレンの総人口の過半数(約7~8割)は依然として仏教など他宗教を信仰していたにもかかわらず、リテラシーを獲得し政治的に組織化されたのは少数のキリスト教徒カレンであった。1881年に結成されたカレン国民協会(KNA)や、後のカレン民族同盟(KNU)の指導層も、基本的にはこのキリスト教徒エリートによって独占された[18][19][20]。

この「キリスト教徒の指導層」と「仏教徒の一般層(兵士や農民)」という構造的な歪みは、カレン社会の内部に長期的な分断をもたらした。外部からは「カレン族=キリスト教徒の反乱軍」と一面的に見られがちであったが、実際には指導層と現場の不満は蓄積され、1994年にKNU内の仏教徒兵士らが反乱を起こし、民主カレン仏教徒軍(DKBA)として分裂する事態へと発展している[18][19][20]。

難民

タイに住むカレン族の少女たち。

1984年以来、KNU傘下の難民委員会の援助によって戦乱を避けてタイに流入した難民は、1980年から90年にかけてのタイ経済の好調に乗って安価な労働力を提供した[1]。1990年に欧米の投資によってタンニタイ管区を通過する天然ガスパイプライン計画が持ち上がり、市民を強制移住させた上でのKNU掃討作戦が開始され、さらに多くの難民が発生した。1995年はマナプロウ(英語版)にあったKNU本部は掃討され、その兵力は半減した。マナプロウ陥落後に難民は急増し、1998年には国際連合によってタイの西側2か所に難民キャンプが設けられた。

2011年の調査報告によると、タイとミャンマーの国境付近には14万人以上の難民が約30年に渡って滞在していた[21]。国連難民高等弁務官(UNHCR)では難民問題解消のために、難民キャンプ当事国以外への移住を推進する「第三国定住プログラム」を世界的に展開しており[21]、2011年時点での移住候補難民は出身国別で見るとミャンマーが最大の21,290名、続いてイラクの19,994名、ソマリアの15,719名となっている。定住先はアメリカ合衆国が万単位と圧倒的に多いものの、日本でも2010年から試験的に第三国定住プログラムの受け入れ国として事業に協力しており、2012年11月までに45名を受け入れている[22]。

また、2016年にはタイ政府とミャンマー政府間で難民の任意帰還計画が合意に達している。この帰還にもUNHCRが両国政府の仲介役として支援参加している。その後、2019年2月には700名強がミャンマーに帰還しているものの、2019年7月時点でミャンマー難民は未だ約96,000名に上り、9か所の収容所に分かれて暮らしている。難民の大多数は白カレン族、赤カレン族(カレンニー)、およびビルマ族で構成されている[23]。タイとミャンマーの国境沿いにある最大のメラ難民キャンプを例に取ると、2008年時点の難民数は43,000名に達していたが[24]、2019年7月時点では約35,000名まで減少している[23]。

国外に脱出したカレン族の中には、国際社会にミャンマーの現状を伝える外部圧力団体として活動している人びともいる[1]。

現在[いつ?]、バルーチャウン川下流のサルウィン川にも大型水力ダムハッジーダム(Hat Gyi Dam, Dams in Burma)建設計画が出ており、さらに大規模な民族浄化に繋がる懸念が出ている[誰?]。

難民キャンプ

主にカレン族が居住する難民キャンプは7カ所ある。

さらに見る キャンプ名, 県 ...
キャンプ名 県 郡
メラウ難民キャンプ メーホンソーン県 ソップムーイ郡
メラマルアン難民キャンプ(英語版) ターク県 ターソーンヤーン郡
メラ難民キャンプ ターク県 ターソーンヤーン郡
ウンピヤム難民キャンプ ターク県 ウムパーン郡
ヌポ難民キャンプ ターク県 ウムパーン郡
バンドンヤン難民キャンプ カーンチャナブリー県 サンクラブリー郡
タムヒン難民キャンプ ラーチャブリー県 スワンプン郡(英語版)
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文化

旗とシンボル

カレン民族同盟の旗

カレン族にとって「民族の旗(カレン民族旗)」は、長年の自由への希望と団結を象徴する極めて重要なシンボルとして深く敬愛されている。赤、白、青の三色を基調とするこの旗は、カレン新年祭や手首に糸を結ぶ伝統儀式(リスト・タイイング)など、さまざまな文化的・公的な場で掲揚される[25][26][27]。

この旗は、イギリス植民地時代の1930年代に考案されたものである。1935年、カレン民族協会(KNA)の指導者らが議会に対してカレン固有の民族旗と国歌の制定を請願したことをきっかけに、広く一般に向けて旗のデザイン公募が行われた。100件以上の寄せられたデザインの中から3つの入賞案が選ばれ、それらの象徴的な要素をすべて組み合わせる形で、1937年に現在の旗のデザインが完成した[25][26][27]。

デザインには、民族の誇りや歴史を反映した多くの要素が込められている。旗の色である赤は「ヒロイズム(英雄的資質)と忍耐力」、白は神話的な祖先とされるトウメーパの伝承に由来する民族の「純粋さや明確さ」、青は「誠実さと平和」を表している。旗の左上に描かれた「昇る太陽(旭日)」は、すべての恐怖を消し去って生命力を与える光を意味し、そこから放たれる9つの光線はカレン族の祖先が由来するとされる9つの地域を表している。また、太陽の下に描かれている「カエル太鼓(フロッグ・ドラム)」は、古代のカレン族が戦争の際にも用い、生命が宿るものとして崇拝してきた楽器であり、文化と団結を象徴している。さらに、太鼓の上に描かれた「白い象」は民族の貴重な宝を意味し、太鼓の下には1936年にカレン軍指導者の発案で2つの「ドー(丸い種子)」が図案として追加された[25][26][27]。

カレン民族旗が初めて公式に掲揚されたのは、1937年にヤンゴン(当時のラングーン)で開催されたカレン新年祭でのことである。独立後の1949年にカレン民族同盟(KNU)などを中心とする反政府武装闘争が激化すると、当時のビルマ政府はこの旗を反乱軍の旗とみなして使用を禁じた。しかし、武装闘争に参加しなかったカレン族の指導者たちも弾圧に屈することなく、ヤンゴンでの新年祭などで勇敢にこの旗を使用し続けた。現在でも、KNUが統括する解放区(コートゥーレー)のみならず、ミャンマー全土の各地域に住むカレン族や、海外のディアスポラ(難民コミュニティ)に至るまで、キリスト教徒・仏教徒といった宗教的境遇の違いを超えて、民族共通のアイデンティティとして広く愛され続けている[25][26][27]。

音楽・舞踊

ドン・ダンス

カレン族の代表的な民族芸能として、カレン州のポー・カレンに由来する「ドン・ダンス」(ビルマ語: ドン、東部ポー語: トウン)がある。太鼓、銅鑼、シンバル、打ち竹などが刻む激しいリズムに乗せ、最大で男女各16人(総勢32人)が歌いながら同時に幾何学的な隊列を次々に組み替えていく、非常に力強く魅力的な群舞である。右の手足が同時に前に出る独特の動きや鳴り物使いから、日本の阿波踊りとの類似性が指摘されることもある。近年ではカレン族の文化的象徴とも見なされるようになり、ポー・カレンだけでなくスゴー・カレンによっても盛んに踊られている[28]。

また、スゴー・カレンの間では、音楽のリズムに合わせて打ちつけられる長い竹の棒の間を縫うように飛び跳ねる「バンブー・ダンス(竹踊り)」も有名である。音楽面では「メーダリン」と呼ばれるマンドリンから派生した独自の6弦楽器や、金属弦を張ったカレン独特の竪琴を用いた弾き語りも愛好されている[28]。

美術

文学

祭り

カレン族の祭礼として、ビルマ暦の10月1日(グレゴリオ暦の12月末から1月初旬頃)に祝われる「カレン新年祭(英語版)」が最大規模の行事となっている。カレン州をはじめ、カレン族が多く住むヤンゴンのインセイン(アーレインガーズィン・パゴダなど)でも毎年盛大に開催され、ドン・ダンスのコンテスト、カレン式のボクシングの試合、伝統衣装のファッションショーなどが催される。特にドン・ダンスのコンテストは最大の目玉であり、政治的対立の枠を超えてビルマ族の愛好家が踊り手として多数参加するなど、民族を越えた草の根の交流の場ともなっている[28]。

さらにポー・カレン固有の伝統的な祭りとして、「オーボエー」(東部ポー語:チャアインラン)と呼ばれる行事がある。これは米の収穫期などに村の僧院などで徹夜で行われる、若い男女の出会いの場(歌垣)である。前半では上半身裸の男性たちが自らの肉体の壮健さや刺青を女性たちに誇示し、後半では男女が互いに比喩や韻を踏んだ高度な即興歌を掛け合いながら愛の駆け引きを行う。しかし、このオーボエーの風習は近年減少傾向にあり、都市部周辺ではほとんど見られなくなっている[28]。

衣装

カレン族の伝統衣装

カレン族(スゴーおよびポー・カレン)の伝統的な民族衣装は、「貫頭衣(かんとうい)」と呼ばれる、袋状の布に頭と腕を通す穴を開けた形態の衣服である。スゴー語では「セー」、東部ポー語では「チャイン」と呼ばれる[28]。

カレン族の貫頭衣には大きく分けて「上半身のみを覆う短い丈のもの」と「全身を覆う長い丈のもの」の2種類が存在する。伝統的な習慣において、純白で丈の長い貫頭衣は幼児および「未婚の女性」の象徴とされる。一方で既婚女性は、濃い色の短い貫頭衣を上半身にまとい、下半身には筒状の腰布(ロンジー)を着用して未婚女性と区別される。また、男性は短い貫頭衣の下に黒くて太いズボンをはくのが古くからの伝統であったが、この習慣はタイ側や一部の山岳地帯を除き今日では廃れつつある[28]。

伝統的な衣装は「ジャッコウッ」と呼ばれる、座って背中に紐をかける機織り機によって手織りされてきた。しかし現在では、平野部や都市部に住むカレン族の大半は日常的にビルマ族とまったく同じ服装をしており、カレン服は機械織りのものが多く出回り、都市部では一種のファッションとして消費されるようにもなってい。[28]。

料理

タラボー・スープ

カレン族の食生活では野菜が非常に重要な役割を果たしており、日々のあらゆる料理に多様な種類の野菜が基本食材として使用される[29][30]。

カレン族の食文化を語る上で欠かせないのが「サトゥディター(Satuditha)」と呼ばれる、旅行者や訪問者への無償の食事提供の伝統である。パーリ語に由来し「四方八方への施し」などを意味するこの習慣はミャンマー全土で見られるが、カレン州のサトゥディターは「季節を問わず、多くの名所(チャウカラット・パゴダなど)で主に菜食料理が無料で振る舞われる」点に特徴がある。ご飯に豆のペースト、そしてナス、ヒョウタン、ジャックフルーツ、空心菜などの各種茹で野菜のカレーが提供され、運営資金の寄付から若者たちの調理や配膳のボランティアに至るまで、カレン族の伝統的な寛容の精神を体現している[29][30]。

代表的な郷土料理としては以下のものが挙げられる[29][30]。

  • タラボー・スープ(Talabaw Soup) カレン州を訪れた際に欠かせない、最も有名な伝統的スープ料理である。沸騰したお湯に川魚(または干し肉やエビ)とニンニクを入れて煮込み、そこへお米、タケノコ、細かく刻んだ季節の野菜を加えて作る。見た目は野菜粥やとろみのあるスープに近く、新鮮な野菜と魚による甘みと旨みが特徴である。カレン族は辛い味付けを好むため、これを非常に辛い魚のペースト(ンガピ)などと混ぜ合わせて食べるのが一般的である。
  • カレン風モヒンガー(カレン・モウティー / Kayin Mont Hin Gha) ミャンマーの国民的麺料理であるモヒンガーのカレン版。一般的なビルマ族のモヒンガーが豆やバナナの茎を用いた濃厚でとろみのあるスープであるのに対し、カレン風はそれらを使用せず、サルウィン川(タンルウィン川)などで獲れた新鮮な魚やエビをベースにしたクリアなスープが特徴である。多様な野菜とともに、たっぷりの乾燥唐辛子を加えて辛口にして食される。

脚注

参考考文献

関連項目

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