カレン族の独立運動

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カレン族の独立運動(カレンぞくのどくりつうんどう)では、東南アジアにおけるイギリス植民地時代からカレン民族同盟(KNU)のリーダー・ソー・バウジーの死までの、カレン族の独立運動について詳述する。

カレン族は、ビルマ族シャン族に次いでミャンマーで3番目に多い民族で、その人口については諸説あるが、250万人~700万人とされている。カレン族の中にもさまざまなグループがあり、スゴー・カレン族(特に山岳地帯とキリスト教徒のコミュニティ)とポー・カレン族(特に低地と仏教徒のコミュニティ)が2大グループで、この2つで全体の70%を占める。宗教的には70%が仏教徒、10~20%がキリスト教徒、それ以外がアニミズムで、極少数ながらムスリムも存在する。主な居住区はエーヤワディー・デルタ地帯(以下、デルタ地帯)と泰緬国境の山岳地帯である[1]

紀元前749年頃、ビルマ族よりも早く当地に住みつき、コートレイ(Kawthoolei、カレン語で「カレン族の住む土地」「花咲く大地」「 平和に満ちた土地」の意)と名乗っていたと主張しているが、歴史的証拠はない[2]。またビルマ族がカレン族を長年搾取・虐待してきたというナラティブがまことしやかに囁かれており、これがカレン民族運動の原点になっているが、一方、両者の間に一部敵意があったにせよ、伝統的にお互いに無関心で、カレン族は文明度の高いビルマ族に対して劣等感を抱いていたという見解もある[3]

アドニラム・ジャドソン

状況が変わったのは、アメリカ人に宣教師によるカレン族に対するキリスト教の布教である。

1812年、アメリカ人のバプティスト派宣教師・アドニラム・ジャドソンがミャンマーにやって来た。当初はヤンゴンでビルマ族とモン族相手に布教活動を行っていたが、芳しい成果は得られず[4][注釈 1]。1824年~1826年の第一次英緬戦争の間一時中断した後、米英戦争の影響で対米感情が悪化していたイギリス当局の反発を避けるために、タニンダーリ地方域のアムハースト(Amherst、現在のチャイクカミ英語版)に拠点を移し、ビルマ族の奴隷だったタビュー英語版[注釈 2]というカレン族男性を買い取ってキリスト教に改宗させ、彼を使ってカレン族相手に布教活動を開始した。カチン族と同じくカレン族の間にも、「白い兄弟たちが『失われた本』を再びもたらす」という伝説があり、ジャドソンたちはこの伝説を、白い兄弟=白人宣教師、失われた本=聖書と読み替えて布教活動を行い、その甲斐あってカレン族の間に爆発的にキリスト教に広まっていった[注釈 3][注釈 4]。ただし、アニミズムを強く信仰していた山岳地帯のカレン族や既に仏教徒が多かったポー・カレン族の間にはさほど広まらず、キリスト教に改宗したのは主にデルタ地帯に住むスゴー・カレン族で、前述したようにその割合は全体の10~20%ほどだった[注釈 5][5][6][7]

また宣教師たちはカレン文字の発明、聖書のカレン語への翻訳、出版のほか、教育活動にも力を入れ、モーラミャインの神学校を頂点とする教育制度を整えてカレン族を教化。1852年にはヤンゴンだけで17の教会があり、欧米やインドの大学・神学校に留学するエリートまで現れた[注釈 6]。第一次世界大戦までにバプティスト教会は全国で708校の学校を運営し、1920年には彼らが設立したジャドソン大学が既存の国立大学と合併してヤンゴン大学が設立された[8]。そのため、イギリスの植民地となった後、比較的教育水準の高いスゴー・カレン族は、軍人、警察官、鉄道員、公務員、看護師に採用されて社会の中枢をなし、独立運動が盛んになった後は指導者となり、ひいてはカレン族に関する言説においても大勢を占め、現在まで続く「カレン族=キリスト教徒、親英、分離主義者」というイメージを形成することとなった[6]

「分割統治」

カレン族とビルマ族との関係が悪化したのは、英緬戦争がきっかけであった。1824年~1826年、1852年、1885年の3度行われ、最終的にミャンマーがイギリスの植民地となったこの戦争で、カレン族はイギリス側に立ってビルマ族と戦った[注釈 7]。その報復にビルマ族はデルタ地帯のカレン族の村落を襲撃、住家を焼き払い、住民を殺戮し、またカレン族もビルマ族に報復した。おかげでデルタ地帯は荒廃、住民は飢餓に苦しみ、英植民地政府が再開発地帯に乗り出すまで人口減少に見舞われるほどだったのだという[6]

英領インド(ビルマ)軍の民族構成(1931年)
民族 人数 割合 人口に占める割合
ビルマ族 472人 12.3% 75.11%
カレン族 1,448人 37.74% 9.34%
チン族 868人 22.62% 2.38%
カチン族 881人 22.96% 1.05%
その他 168人 4.38% 12.12%
合計 3,837人

また前述したように、英植民地下でスゴー・カレン族が重用されたことにより、ビルマ族がカレン族に対して恨みを深くし両者の対立が激化したとするのが定説である。右図からわかるとおり、英領インド(ビルマ)軍の民族構成は、その人口に比して、カレン族、チン族カチン族といった少数民族の割合が圧倒的に高く、これが英植民地政府が少数民族を利用して、ビルマ族を支配しようとしていた根拠とされる[9][10]。1930年代に生じたサヤー・サンの乱の際には、英植民地軍のカレン中隊が度々駆り出され鎮圧に当たり、ビルマ族の大きな反感を買った[11]。ただ、この点については、各所から異議が唱えられているが、この時代、かつて軽蔑していたカレン族などの少数民族が、英植民地下で活躍していることに対して、ビルマ族が不満を抱いていたのは間違いない[12]

しかしこれは、たぶんにエリートレベルの話であり、ビルマ族とカレン族が共存するデルタ地帯では、両者は反目することなく、友好的に共存していたようである[13]

ビルマ族とカレン族が互いの家に居候するような友情は、例外ではなく、むしろ当たり前のことだった。タキン・ヌ自身も、幼稚園の頃からカレンの子供たちと遊んでいた。(カレンの)村はワケマから1マイルほど離れており、マウン・ヌは休日になるとそこに行き、鳥を狩ったり、カレンの友達と遊んだりしていた。日曜日には、マウン・ヌはよくカレンの友達とキリスト教の教会へ行った。彼は宗教儀式の意味は理解していなかったが、他の人たちの様子を真似て、その経験から大きな満足感を得ていた。また配られるお菓子や聖画も有益だった。ウー・ヌ

カレン民族主義の芽生え

ミャンマーの行政区画(1931年)。テナセリム管区は右下のピンク色の部分。

1881年、ヤンゴンのキリスト教徒カレン知識人たちが、カレン民族協会英語版(KNA)を設立した。これはビルマ仏教青年協会英語版(YMBA)に先立つこと四半世紀、ミャンマーで初めて民族名を冠した組織と言われ、その目的はすべての多様な背景を持つカレン族の歴史、言語、そしてアイデンティティを統合して、その社会的地位を高めることだった[14]

1923年憲法により、管区ビルマにより代表的なビルマ立法評議会英語版が設置された際には、サン・C・ポー英語版という、1897年~1922年まで立法評議会議員を務めた、KNAに所属するパテイン出身のキリスト教徒スゴー・カレン医師が、「どの管区でも過半数を占めていないカレン族が、議員として選出される可能性は極めて低い」と主張して、130人の議席中5議席をカレン族のために確保することに成功した[15]

またポーは、1928年にロンドンで『ビルマとカレン族(Burma and the Karens)』という本を出版し、その中で「a Karen country」の創設を主張した。これが初めて公にされたカレン族の「自治州」ないし「国家」の創設の主張とされる。具体的には、イングランドスコットランドウェールズアイルランドからなるイギリスをモデルに、「ミャンマーには自治能力がなく」「ビルマ族との共存は不可能」なので、イギリスの庇護下、ビルマ族、カレン族、ラカイン族シャン族の4大民族を主とする「各々自らの国(country)と自らの民族的特徴を保持した」国家を構想し、そのうえで管区ビルマのテナセリム管区(現在のカレン州モン州、タニンダーリ地方域)[注釈 8]を「a Karen country」としてカレン族に自決権を与えるべきというのがポーの主張だった[16][17][18]

”Karen country”!なんと万感こもる響きであろう!カレン族の心のうちにかくも甘美な考え、かくも雄々しい感情、そしてかくも洋々とした前途を喚起させる言葉はない。サン・C・ポー
カレン旗

1935年には、カレン旗とカレン歌(歌自体は1928年に既に作られていた)の制定すべしというKNAの要請にもとづいて、立法評議会で旗のコンペが行われ、1位、2位、3位の旗をすべて合わせた右のような旗がカレン旗と定められた。赤が英雄的行為と忍耐、白が純粋さと清廉さ、青が誠実さと平和を表し、昇る太陽から放たれる9つの光線はカレン族の起源である9つの地域を表し、カエル太鼓は団結を表しているのだという。カレン歌は3節からなり、第1節ではカレン族が人々に対して抱く愛と彼らが支持する価値観について歌い、第2節では自分たちを救うために黄金の書を持った白人の兄弟を送ってくれた神に感謝を捧げ、第3節では神の弟子となって神の福音をすべての国々に広めることを約束することが歌われている。1937年、カレン族の新年が少数民族の祝祭日としては初めて国の公式の祝日となり、ヤンゴンで開催されたカレンの新年祝賀行事では、カレン旗が高々と掲げられたのだという[19][20][21]

一方、仏教徒カレン族は、同じ仏教徒であるビルマ族、モン族との同化も進み、従来、民族意識は希薄だったが、カレン族が排撃される風潮が強くなる中、彼らの間にも民族意識が芽生え始め、『カイン王統史』(1929年)、『クゥイン御年代記』(1931年)という仏教徒カレン族の手による2冊の民族史書が相次いで出版された[22]。1938年には、デルタ地帯の仏教徒カレン族が中心となって、ビルマ・カレン民族教会(Burma Karen National Association:BKNA)を結成。しかし、その活動は不活発で、1942年~1945年の日本占領期は活動を停止した。池田一人はその理由を「仏教徒カレンはキリスト教徒カレンに比べて民族意識が希薄だったからではないか」と推察している[23]

ただ、カレン族で、初代国軍総司令官となったスミス・ダンによれば、一般のカレン族の人々は政治にほとんど関心がなく、カレン族の政治指導者たちは、人々に自分たちの目的を理解してもらい、情熱を喚起するのに非常に苦労し、政治団体が乱立したことも人々に混乱をもたらしたのだという[24]

ミャウンミャ事件

エーヤワディー地方域・ミャウンミャ県

英植民地時代は抑制されていたカレン族・ビルマ族の関係が一気に悪化したのは、英植民地政府の撤退と日本軍の軍政発布との間の空白期間に生じた1つの事件がきっかけだった。

1942年1月、日本軍およびビルマ独立義勇軍(BIA)がビルマに侵入し、3月頃にデルタ地帯に到達。しかし、本隊はすぐにイギリス軍を追って北上し、デルタ地帯には、自称BIAとも言うべき地元の荒くれ者のビルマ族の若者たちだけが残された。彼らはミャウンミャ県英語版に拠点を置いて、「治安維持会」や「臨時市政府」を設立して一時的に行政権を握ったが、兵器を持っていなかった。そこで彼らは、3月半ば頃から英植民地軍を除隊し、兵器を持って故郷に戻ってきたカレン族の若者たちに目をつけ、彼らか兵器を徴収し始め。しかし、これが両者の衝突に発展、お互いに殺戮と暴虐の限りを尽くし、カレン族・ビルマ族双方の村々が焼かれ、約5,000人の死者が出、住民の半分が避難民となる大惨事となった。この際、元カレン族閣僚のソー・ペータ(Saw Pe Tha)とその家族、また当地に残っていた南機関の木俣豊治も殺害された。木俣の殺害の報に怒り狂った南機関機関長鈴木敬司は、部下に命じて木俣殺害に無関係のカレン族の2つの村を焼き払わせた。6月半ば、日本軍が当地に進出して事態は終息し、1943年3月にはビルマ国の首相となったバーモウ[注釈 9]の肝いりで、サン・C・ポーを議長とするカレン中央機構(Karen Central Organisation:KCO)を設立され事件の真相究明と解決が図られたが、結局、有耶無耶に終わった[25][26]

この事件は、カレン族とビルマ族との関係を決定的に悪化させた。と同時に、これまで民族意識が希薄だったデルタ地帯の仏教徒カレン族に「カレン族」という民族意識を芽生えさせる契機になったとされる[27]。1946年8月に訪英したカレン親善使節団の一員だったソー・タディン(Saw Tha Din)は、以下のように述べた[28]

戦時中に起こったこと、つまりこれほど多くのカレン族の殺害と虐殺、これほど多くのカレン族の村の略奪の後、カレン族がビルマ族を信頼すると誰が期待できるだろうか?これらすべての後、ヤンゴンのビルマ政府を私たちが本気で信頼すると誰が期待できるだろうか?ソー・タディン

しかし、カレン族のすべてがビルマ族に反目したわけではない。1945年3月27日、アウンサン率いる反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が抗日蜂起を決行したが、その際、国土を8つに分割した軍管区のうち、デルタ地帯西部をカバーする第3軍管区を任されたのは、ソー・チャードウ英語版というミャウンミャ生まれのキリスト教徒スゴー・カレンが率いるカレン部隊だった。この人事は、AFPFL側としては、ミャウンミャ事件の再発を防ぐために当地にカレン族将校を配置したということだったが、カレン族側にとっては、日本軍を放逐し、イギリスを撤退させた後は、ビルマ族との共存を図ることでしかカレン族は生き延びられないという現実的判断からであった[29]

「独立」交渉

ソー・バウジー

カレン親善使節団

イギリス帰還後、ミャンマー側ではAFPFLが主導権を握り独立を要求したが、英植民地体制維持を望むカレン族はそのAFPFLとは袂を分かち、1945年6月30日~7月5日にヤンゴンで大規模な大会を開催し、ケンブリッジ大学への留学経験があり、イギリスの弁護士資格を持つソー・バウジーらカレン族弁護士4人からなる親善使節団をイギリスに派遣することが決定された。彼らの要求は[30][31]

  1. テナセリウム管区全域、ペグー管区・ニャウンレービン県英語版、将来的にはタイ国内のカレン族居住区を含む「United Frontier Karen States」を設立し、イギリス人総督直轄下でカレン族が行政権を担う。
  2. エーヤワディー管区とペグー管区を英連邦ビルマ自治領または独立したビルマ連邦の「Karen Areas」とする。
    United Frontier Karen States[32]

の2つであった。サン・C・ポーの「a Karen country」よりも若干範囲が拡大しているのは、それだけカレン運動の担い手が拡大していたからである。当時、運動の担い手は、KNA、KCO、BKNAのほか、1945年10月に結成されたカレン青年機構(Karen Youth Organisation:KYO)というKCOの青年組織があった。KYOは、元AFPFLのカレン部隊将校が中心となって結成された組織で、他のカレン族組織と違ってAFPFLとの協調路線を取り、その活動領域はデルタ地帯に限られていた。議長のマウン・バカイン英語版は、AFPFLの執行役員を兼任し、アウンサン率いる行政参事会で閣僚を務め、アウンサンとともに暗殺された人物で、副議長のウィンマウンは、のちに第3代大統領となった人物だった[33]

1946年8月、カレン親善使節団が訪英し、2つの要求のうち、1からタイ国内のカレン族居住区を差し引いたものの実現を訴えたが、行政参事会のカレン族枠を1から2に増やした以外は、さしたる成果を上げられなかった[31]。一方、イギリス世論は、大戦中にともに戦ったカレン族に対して同情的で、辺境地域局局長・H.N.C.スティーブンソンは、「彼らの沈黙はただわれわれ(イギリス)と喧嘩をしたくないということにすぎない。われわれがミャンマーから去れば、必ずやa Karen stateをめぐる戦争が起きるだろう」と言い残して、数か月後、辞職した[34]

カレン民族同盟(KNU)結成

1947年1月27日、アウンサン=アトリー協定が結ばれ、「管区ビルマと辺境地域を統合した1年以内のビルマの独立」が確認された。この際、当時下野していた前英首相のウィンストン・チャーチルは、以下のように述べ、当時野党だった保守党内にも「カレン族は新体制に反対しており……ビルマはアーナキーと低劣な生活水準に陥って、10年以内に独立を失うであろう」という議論があったのだという[35]

幾世代にもわたった努力の成果を不当な 性急さで放棄する退却政策で、イギリスの友人たち(カレン族)に問題解決の時間を与えず、彼らの忠誠心と友情を無視し、未開の住民たちにイギリスにの正義が保障してきた平和な生活を踏みにじるものだ。ウィンストン・チャーチル

同年2月に開催されたパンロン会議にはカレン族代表はオブザーバー参加に留まり、同時期、2月5日~7日、ヤンゴンで全カレン会議(All Karen Congress)が開催され、KCOとKYOを統合してカレン民族同盟(KNU)が結成された。アウンサンに近い[注釈 10]サンポーティン(San Po Thin)が議長に、のちに統一パオ民族主義者機構(UNPO)を結成するパオ族のウー・フラペ(U Hla Pe)が副議長に就任した。メンバーはエーヤワディー管区、ペグー管区、テナセリム管区の管区ビルマのキリスト教徒カレンが中心で、辺境地域からも仏教徒カレンからの参加もなかった。そしてこの際、彼らが要求する「a separate state」が「統一ビルマ内の海港を備えたカレン州(a Karen State, with seaboard,in the United Burma)」と明確に定義された。しかし結成からわずか1か月後、KYOのメンバーがアウンサンの対カレン問題の立場を擁護したことがきっかけでKYOがKNUから離脱し[注釈 11]、行政参事会の閣僚を辞任したソー・バウジーが新議長に就任した[36]

カレン諸派の合意

自治州。カレンニー州を含み、ピンマナ丘陵地区の北端を北側境界線とする、サルウィン川とシッタン川に挟まれるすべての地域と、アタラン川の東部・北部、アムハースト県の北部、タトン県の残りの地域。[37]

パンロン協定ではカレン州の設置は認められず、(1)カレン族選挙区(2)カレン問題に関して政府を補弼・助言するカレン管轄事項評議会(a Karen Affairs Council:KAC)(3)カレンに関するすべての行政、教育、文化問題を統括するカレン族大臣の設置が認められただけだった[38]。これに不満なKNUは1947年4月の制憲議会選挙をボイコットしたが、カレン族選挙区の26議席はKYOの20人の候補者とカレンニー族2人を含む6人の無所属のカレン族議員が獲得した。一方、同年6月、KNU、KYO、BKNA、辺境地域のカレン諸派がヤンゴンで会合を開き、以下のような権利を政府に要求することで合意に達した。これは、カレン族が、独立とデルタ地帯におけるカレン州設置を断念する意思を明確にしたという、二重の意味で画期的なものだった[39][40]

  1. カレン族にビルマ連邦内における自治州と連邦離脱権を認める。
  2. ビルマ族と混在する地域(デルタ地帯)に住むカレン族には、文化・言語・教育・学校・政治的経済的自立に関する権利を認める。

しかし、同年7月19日、アウンサンが暗殺された後、カレン諸派が分裂し、KNUはカレンの独立を、KYOはKACの設置を、辺境地域のカレン諸派はカレン自治州の設置を相次いで要求するようになった。結局、カレン族の意見を集約することはできず、同年8月24日に採択された憲法では、KYOの意見が反映されてKACの設置は認められたが、パンロン協定どおりカレン州の設置は認められず、カレン族居住区は管区ビルマの一部に留め置かれた[40]

反乱

脚注

参考文献

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