バイドゥ (イルハン朝)
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アフマド・ハン政権下
1284年、第2代イルハンであるアバカ・ハンの長男アルグンはその将校たちにそそのかされて第3代イルハンのスルターン・アフマド・ハン(テグデル)を廃位して自らイルハン位に即こうと決心した[1]。アルグンは将軍タガチャルに万戸長(トゥメン・ノヤン)の称号を与え、その下にアルグンの弟ガイハトゥ、従弟バイドゥ、ジャウクル、ジャンクトル、ドラダイの諸将およびアバカ・ハンの旧将と旧臣のすべてと、同じくアバカの子に忠誠を誓っていた人々が集った[1]。
アルグン・ハン政権下
アルグンはアフマド・ハンを処刑して自ら第4代イルハンに即位すると、王侯バイドゥにバグダードの統治権を、王侯ジュシカブにディヤールバクルの統治権を、王侯フラジュウにルームの統治権を、叔父のアジャイにはグルジアの統治権を、子のガザンにはホラーサーン、マーザンダラーン、ライ、クーミス地方の統治権を与えた[2]。
1289年、ガザンの副官ノウルーズが謀反を起こしたため、バイドゥはガザンのために援軍を送ってやった[3]。
ガイハトゥ・ハン政権下
1291年、アルグン・ハンが崩御すると、王子であるガザン、アルグンの異母弟であるガイハトゥが候補となったが、将軍のタガチャルらは自分の地位が脅かされることを恐れてアルグンの従弟であるバイドゥをイルハン位に推戴した[4]。しかし、バイドゥ自身が辞退したためガイハトゥが第5代イルハンに即位した[5]。
即位
1295年、ガイハトゥ・ハンはその放蕩ぶりと浪費癖によって国庫を傾かせたため、副元帥のタガチャルらによって殺害され、第6代イルハンはバイドゥが即位した[6]。バイドゥ・ハンはガイハトゥの寵臣らを殺害し、タガチャルを元帥にして行政長官をも兼務させた[7]。ワズィール(宰相)のサドルッディーン・ザンジャーニーは罷免され、代わってジャマールッディーン・ダストジャルダーニーがワズィールとなった[7]。サドルッディーンはタガチャルの徴収課税官となり、チャオイン(鈔人、紙幣の発明者)というあだ名をつけられた[8][注釈 2]。
ガザンとの対立
ガザンはバイドゥの即位を聞くと、ノウルーズにホラーサーンの行政を委ね、入朝のため首都タブリーズに進軍した。ガザンは今回のクーデターで一般将校がモンゴル王侯を殺害したことはチンギス・カンのヤサに違反するとし、バイドゥに有罪の将校を引き渡すよう通告した[9]。この時ノウルーズはガザンがハンになるべきであることと武力でバイドゥを打倒することを進言する[10]。これによって両軍はクルバーン・シラとカリヤ・シルグイラン川の付近で会戦し、ガザン側が勝ったため、バイドゥはホラーサーン、マーザンダラーン、イラーク、キルマーン、ファールスの諸州を分け与えるので退却してほしいと申し出てきた。これにガザン側は承諾し、ガザンとバイドゥは休戦協定を結んだ[11]。ガザンは退却に際し、バイドゥの動向を監視するためノウルーズとトク・ティムールを残留させた。しかし、ガザンが退却した後、2人はバイドゥによって逮捕されてしまう[12]。ノウルーズはバイドゥにガザンを拘束すると嘘をついて釈放され、ガザンのもとに帰るなりイスラム教に改宗し国内のムスリムの支持を得て即位することを提案する[13]。そして6月15日ガザンとその配下の将軍・兵たちはイスラム教に改宗した[13]。
廃位と処刑
バイドゥ・ハンによってワズィールを罷免されたサドルッディーン・ザンジャーニーは元帥のタガチャルとともにバイドゥ・ハンを廃し、ガザンをハンに即位させようと考えた[8]。そしてふたたびガザンをタブリーズに呼び寄せたところでガザン側につき、バイドゥ・ハンはグルジア方面へ逃亡した[14]。ノウルーズがすぐにバイドゥを追跡して捕らえ、ガザンのもとへ連行すると、バイドゥは10月4日に処刑された[15]。