ガハイ・エレスンの戦い
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いわゆる北元時代の前半において、モンゴル高原では「サイト(Sayid、「異姓貴族」とも意訳される)」と総称される、チンギス・カンの血を引かない領主が大きな力を持っていた。サイトの中で最大の実力者が「太師(Tayisi)」と称してハーンを傀儡とし、事実上の最高権力者として振る舞う体制が14世紀初頭から15世紀まで続けられた。
このような社会情勢に変化をもたらしたのがマンドゥールン・ハーンで、マンドゥールンはチャハル部を率いてヨンシエブのベグ・アルスラン太師を討つことに成功した。マンドゥールン・ハーンの勢力を継承したダヤン・ハーンも異姓貴族を従えようとし、自らの息子たちを送り込んで各部を統制しようとした。
しかしこれに対し、当時の諸部族の中で「右翼」に属するトゥメトのホサイ・タブナン、オルドスのマンドライ・アカラク、ヨンシエブのイブラヒム太師(これを「右翼三トゥメン」と総称する)が反発し、ダヤン・ハーンの息子のウルス・ボラトを殺害してしまった。これを切っ掛けにダヤン・ハーン率いる左翼諸部族と「右翼三トゥメン」の武力衝突が起こり、両軍が最初に激突したのがトゥルゲン河、ガハイ・エレスンの地であった。
戦闘
『蒙古源流』によると、右翼三トゥメンの叛乱を知ったダヤン・ハーンはテムルなる将に太師の号を与え、七人の家来を大ダルハンとして、出陣したという[2]。ダヤン・ハーンの軍団がオンゴン山の峡谷に入って、トゥルゲン河のほとりで野営していた時、トゥメト部はこれを知ってダヤン・ハーンの軍団に奇襲を仕掛けた[2]。
トゥメト部に属するダラトのバートル・ネグレケイが多くの去勢牛を追い立てて、角で喇叭を吹きながら来ると、ダヤン・ハーンの軍団は牛の蹄の音を鎧の響きと勘違いし、驚いて敗走してしまった[2]。この時、ダヤン・ハーンの乗馬が泥中に倒れて起き上がれなくなってしまったが、ベストのトガンという者がこれに気づき、ジョートのサイン・チャキジャ、チャガンの二人が救い出したとの逸話が年代記に伝えられている[3]。敗走の過程で多くの者が峡谷に落ちていってしまったため、この地はヤンガルチャグン・ダバー(いななきの峠)と名づけられ、バートル・ネグレケイは「ふだんに居るときに夢を見て来た、左翼の万人隊。正と邪の二つを判定した、天の主。賛成し賜って落とした、トゥルゲン河の女神。方向ごとにかき乱した、黄金の偉大な光」と詠ったという[3]。
更に、再び陣営を張ったダヤン・ハーン軍に対して、トゥメトのホサイ・タブナンは追撃の軍勢を出し、ガハイ・エレスンの地でチャハル部に属するケシクテン・オトクとケムチュート・オトクがトゥメトに襲われ敗れた[4]。こうして、ダヤン・ハーンの軍団は右翼三トゥメンとの戦争の緒戦において敗北を喫してしまった[4]。