イブラヒム (ヨンシエブ部)
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ペルシア語史料の『ターリーヒ・ラシーディー』によると、モグーリスタン・ハン国のヴァイス・ハンという人物がカリマク(Qālīmāq=オイラト)のエセン太師に対して何度も聖戦を挑んだが、一度を除いて全て敗北したとされる[1]。このうち、トゥルファン近郊の戦で敗れた時に、ヴァイス・ハンは妹のマフトゥーム・ハーニーム(Makhtūm khānīm)をエセンに差し出すことで釈放されたという[1]。同史料の別の箇所によると、エセンは自らの息子のアマサンジ(Amāsānjī)にマフトゥーム・ハーニームを与え、二人の間には二人の息子と一人の娘が生まれた[2]。そして、マフトゥーム・ハーニームの意向によって三人の息子はイスラームに入信し、それぞれイブラヒム(Ibrāhīm)、イルヤース(Ilyās)、カーディル・バールディー・ミールザー(Qādir Bardī Mīrzā)と名づけられた[2]。
このイブラヒムこそがモンゴル年代記で「イバライ(Ibarai)」、漢文史料で亦不剌(yìbùlà)と記される人物と同一人物で、15世紀末より各種史料で言及されるようになる。『ターリーヒ・ラシーディー』によると、イブラヒムらがイスラームに入信したことが切欠で父のアマサンジと対立が生じ、まずアマサンジがモグーリスタンに逃れることになったという[3]。これに対応するように、『明憲宗実録』には1486年(成化22年)にオイラトで内紛が起こったとの記録があり[4]、その翌年の1487年(成化23年)5月にオイラトの阿沙太師・平章把禿撒・阿力古多王・兀麻舎王(=アマサンジ)らが「察罕阿剌帖児等境」に駐屯したと記される[5][6]。1486年にはオイラトの首領のケシク・オロクが死去しており、これに伴う内乱が起こって兀麻舎=アマサンジらが西方に逃れることになったようである[6]。
その後、イブラヒムらも「カリマクのハン(オイラトの首領)」と対立して敗れ、中国の辺境(hudud-i khitai)に逃れた[3]。『ターリーヒ・ラシーディー』はアマサンジ・イブラヒム父子の対立が生じたのはヒジュラ暦873年(1468年-1469年)のムハンマドの死去以前、イブラヒムが中国の辺境に至ったのはヒジュラ暦910年(1504年-1505年)以前のこととする[3]。これに対応するように、1492年(弘治5年)10月にハミルの忠順王が「其隣部亦剌思王・亦不剌王」がハミルに使者を派遣していることを報告している[7][6][3]。「亦剌思王」と「亦不剌王」はまさにイルヤースとイブラヒムらを指し、『ターリーヒ・ラシーディー』の語る「中国の辺境」とはハミル近郊のことであったと分かる[8]。
モンゴル年代記でイブラヒムをオイラトの人物ともされるのは、上記のようにオイラトのエセンの子孫にあたる人物であったためであろう[9]。
ダヤン・ハーンへの投降
15世紀末、モンゴル高原東部を支配するダヤン・ハーンは次第に勢力を拡大し、これを受けて1493年(弘治6年)6月にオイラトは北虜(ダヤン・ハーン)への攻撃を開始した[9]。このダヤン・ハーンとオイラトとの抗争にイブラヒムらも巻き込まれたようで、1495年(弘治8年)6月には「亦剌思王・亦不剌王」らが粛州に使者を派遣し、「迤北大達子(ダヤン・ハーン)」の攻撃を受けていることを訴え出ている[10][6][3]。この間の経過については許進の「平番始末」に詳しく、メクリン部の頭目による「亦剌思王・亦不剌王・満可王・奴禿卜花太師・哈剌忽平章」らがハミ地方よりエジナ地方に至り、掠奪を行っているとの報告が記載される。これに対し、明朝廷はメクリン部がもとは「ベグ・アルスランやイスマイルの遺落部種(=ヨンシエブに属する集団である)」と語り、成化年間より甘粛地方で掠奪を行ってきたことを認識している[11][12]。
一連の抗争を経てイブラヒムらはダヤン・ハーンに降ったようで、1501年(弘治14年)閏7月には「虜酋孛羅王と倚巴(イブラヒム)王が兵四万を選び、馬を殺して天を祀り、再び小王子に請うて兵六万を徴兵し、七月を期して霊州に集結し、甘粛一帯を掠奪した」との記録がある[13][9]。以上のように、ダヤン・ハーンと連携するようになったイブラヒムは、恐らくこのころ正式にヨンシエブ部の支配者として認められたようである。ただし、この時ダヤン・ハーンがイブラヒムに支配を許したのは、かつてイスマイルが支配していたヨンシエブ全体ではなく、ハラチン部は除かれていたとする説もある[9]。
ダヤン・ハーンへの反乱
上述のように本来はオイラトに属していたイブラヒムは、紆余曲折を経てダヤン・ハーンの配下に入ることとなった。この時、イブラヒムはかつてイスマイル太師が率いていたヨンシエブを率いることとなったが、その勢力はイスマイルの時代よりも弱体化していたと考えられる[14]。このころ、モンゴル内で特に有力であったホサイ・タブナン率いるトゥメト部、マンドライ率いるオルドス部、イブラヒム率いるヨンシエブ部はモンゴル年代記上で「右翼三トゥメン」と総称される。
モンゴル年代記の『蒙古源流』は、マンドライらがダヤン・ハーンに対して叛乱を起こすに至った経緯を次のように語っている。ウルス・ボラトがオルドス部に到着し、八白室で儀礼を行おうとしているのを知ったイブラヒムとマンドライは、「われわれの上に殿を取るとは、何たる必要があるのか。自分の頭を自分で知って行くものだぞ。この皇子をいま殺そう」と語り、ウルス・ボラトを排除する計画を立てた[15]。そこでまず、両者はシバグチンのボルジョモルをそそのかし、儀礼の際に「ウルス・ボラトの乗った馬を『私のだ』といって奪い合え。その喧嘩がはじまったとき、我々が割って入ろう」と約束した[15]。
計画通り、ボルジョモルが儀礼の最中にウルス・ボラトの乗った馬を奪おうとすると、怒ったウルス・ボラトはボルジョモルを切り捨ててしまった[15]。これを見たイブラヒムとマンドライは、「いましがた来て、直ぐこういうことをする。これから後、われわれを滅ぼすのだ。この皇子を殺そう。しないうちに敵対しよう」と語り、配下の者達にウルス・ボラトを排除するよう命じた[15]。右翼三トゥメンの中でも、ハルハタンのバイチュフル・ダルハン、ホンギラトのバートル・クリスン、トゥメトのバヤンマラトらはイブラヒムとマンドライに逆らってウルス・ボラトに味方したが、最後には衆寡敵せず、ウルス・ボラトは射殺されてしまった[15]。
これを知ったダヤン・ハーンは右翼三トゥメンを討伐するべく出陣したが、緒戦のガハイ・エレスンの戦いではトゥメトのホサイ・タブナンに敗れてしまった[16]。しかし、ダヤン・ハーンは態勢を立て直し、新たにオルダフハイ王の支配するホルチン部やアバガ部などを味方に加え、ダラン・テリグンの地でマンドライとイブラヒムが率いる右翼三トゥメンの軍勢に決戦を挑んだ[16]。ダラン・テリグンの戦いは激戦となったが、ダヤン・ハーンの黒い軍旗を一時隠すという奇策で右翼三トゥメン軍は敗れ、遂に敗走するに至った[16]。「右翼三トゥメンの叛乱」にかかる一連の戦役が行われたのは1508年から1509年にかけてのことと考えられている[17]。
この一戦を以てモンゴル高原におけるダヤン・ハーンの覇権が確定し、以後オイラト系諸部を除く諸部族はダヤン・ハーンの一族を主として戴くようになる。右翼三トゥメンの大部分もダヤン・ハーンによって征服され、主にバルス・ボラトの一族(メルゲン・ジノン、アルタン・ハーン、バイスハルら)によって分有されることとなる。しかし、マンドライとイブラヒムはダラン・テリグンの戦いで全てを失ったわけではなく、青海方面に逃れて再起を図った。
青海への逃走
「右翼三トゥメンの叛乱」の経過については明朝側にほとんど伝わっていないが、敗れたマンドライとイブラヒムが青海方面に逃れて以後はむしろ漢文史料に多くの記録が残っている。まず、1514年(正徳9年)の記録には「イブラヒム(亦卜剌)・マンドライ(阿爾禿廝)は1510年(正徳5年)より小王子(ダヤン・ハーン)を避け、涼州・永昌・山丹・甘州・高台・鎮夷・粛州一帯で住牧するようになった」との記録があり[18]、ダラン・テリグンの戦いに敗れたマンドライらがオルドス地方を経て現在のアルシャー盟方面に至っていたことが分かる[19]。
次に、1511年(正徳6年)10月にはダヤン・ハーンがイブラヒム・マンドライを破ったとの記録があり[20]、同年11月にはイブラヒム・マンドライは明朝領の荘浪・涼州に近い地に定着し掠奪を行ったため、分守涼州右副総兵の蘇泰がこれを撃退したとの記録がある[21][22][23]。
1512年(正徳7年)閏5月には嘉峪関を攻撃したマンドライ(阿爾禿廝)を指揮僉事の趙承序が撃退したとの記録があり[24]、同年6月には甘州・涼州を[25]、7月には山丹・甘州を[26]、それぞれ攻撃したとされ、甘粛一帯で活発に掠奪を行っていたことが伺える。
しかし同年10月には再びダヤン・ハーンの攻撃を受けたようで、「正徳6年正月より、イブラヒム・マンドライはダヤン・ハーンに攻められ、死傷者は非常に多い」と報告されている[27][28]。