ダラン・テリグンの戦い

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ダラン・テリグンの戦いとは、1509年ダヤン・ハーン率いる軍団と、「右翼三トゥメン(トゥメトオルドスヨンシエブ)」との間で行われた戦い。ダヤン・ハーン率いる軍団が勝利を収め、右翼三トゥメンの領袖は青海地方に逃れたものの、その配下の大部分はダヤン・ハーンに投降した。この戦役は、14世紀から15世紀までのハーンが傀儡となった時代を終わらせる象徴的な事件であると位置づけられている。

いわゆる北元時代の前半において、モンゴル高原では「サイト(Sayid、「異姓貴族」とも意訳される)」と総称される、チンギス・カンの血を引かない領主が大きな力を持っていた。サイトの中で最大の実力者が「太師(Tayisi)」と称してハーンを傀儡とし、事実上の最高権力者として振る舞う体制が14世紀初頭から15世紀まで続けられた。

このような社会情勢に変化をもたらしたのがマンドゥールン・ハーンで、マンドゥールンはチャハル部を率いてヨンシエブのベグ・アルスラン太師を討つことに成功した。マンドゥールン・ハーンの勢力を継承したダヤン・ハーンも異姓貴族を従えようとし、自らの息子たちを送り込んで各部を統制しようとした。

しかしこれに対し、当時の諸部族の中で「右翼」に属するトゥメトのホサイ・タブナンオルドスのマンドライ・アカラク、ヨンシエブイブラヒム太師(これを「右翼三トゥメン」と総称する)が反発し、ダヤン・ハーンの息子のウルス・ボラトを殺害してしまった。これを切っ掛けにダヤン・ハーン率いる左翼諸部族と「右翼三トゥメン」の武力衝突が起こり、緒戦のガハイ・エレスンの戦いではダヤン・ハーン側が敗北を喫した。しかし、新たにオルダフハイ王の支配するホルチン部やアバガ部などを味方に加え、捲土重来を果たしたダヤン・ハーンを右翼三トゥメンはダラン・テリグンにて迎え撃ち、両軍の間で決戦が行われるに至った。

戦闘

モンゴル国で飾られる「黒いトゥク」。ダヤン・ハーンは自らの「黒いトゥク」を隠して敵軍を騙し、敵軍がつり出されてから黒いトゥクを掲げて突撃し、勝利を収めたとされる。

各種モンゴル年代記によると、トゥメト・オルドス・ヨンシエブによる「右翼三トゥメン」に対し、ダヤン・ハーンは「左翼三トゥメン(チャハルウリヤンハンハルハ)」と、ホルチン部・アバガ部を率いていたという[1]。そして、『蒙古源流』によるとダヤン・ハーンは開戦に先立って下記のように語ったされる[1]

オルドスは、主の八白室を護る、大きな運命のある国人である。それとウリヤンハンは、同じ主の黄金の棺を守った、また大きな運命のある国人であるから、ホルチン、アパガとともに当たれ。
十二トゥメトには、十二オトク・ハルハが当たれ。
総計で大きなヨンシエブには、八オトク・チャハルが当たり合え。サガン・セチェン、『蒙古源流』[1]

各種モンゴル年代記が一致して伝える所によると、この決戦において焦点となったのはオルドス軍とウリヤンハン・ホルチン・アバガ連合軍がぶつかる戦場であった。『蒙古源流』によると、「右翼三トゥメン」側からはオルドスのハルハタンのパイチュフル・ダルハン、クイトのダルマ・ダルハン、ハリューチンのウダガチ・コンデレン、トゥメトのハンリンのアルジュライ・アハラフ、フンギラトのバートル・クリスン、ヨンシエブのプリャートのソクタフ・ブルハング、ハラチンのマングルダイ・ホシューチの七名が先鋒となり、ウリヤンハン軍の陣営を突き崩したという[2]。これに対抗したのがホルチン部のオルダフハイ王とボルハイ父子、サイン・チャキジャ、ウリヤンハンのバヤハイ・バートル、五オトク・ハルハのバガスン・タブヌンら五人の先鋒であった[3][1]

さらに、ダヤン・ハーン側ではダヤン・ハーンの軍旗を隠させて、ウリヤンハンの軍旗を立てるという奇策を行い、退却を装ってトゥメト軍をつり出した[4]。トゥメト軍がウリヤンハンの旗を目指して動いた時、本隊がダヤン・ハーンの黒い軍旗を改めて掲げ、トゥメト軍の側面を衝いて敗走させた[注釈 1]。さらに、他の「右翼三トゥメン」の軍団もダヤン・ハーンの旗を見誤って混乱し、ダヤン・ハーンの勝勢は決定的となった[4][2]。敗北を覚ったイブラヒムらは退却して青海方面に向かい、こうしてダラン・テリグンの戦いはダヤン・ハーン軍の勝利に終わった[4][2]

漢文史料(『明実録』)での記載

ダラン・テリグンの戦いが行われた年代について、『アルタン・ハーン伝』には「白い午年(1510年)」にダヤン・ハーンと「右翼三トゥメン」との間の対立が始まったとの記述がある[5]。一方、『明武宗実録』では正徳4年(1509年)閏9月よりオルドス地方で小競り合いが頻発し、同年12月にはイブラヒム(亦孛来)がオルドス地方に入ったとの報告がなされている[6][5]。Buyandelgerはダラン・テリグンの戦いに敗れたイブラヒムがオルドス地方に一旦逃れたものと推定し、ダラン・テリグンの戦いが行われたのは1509年の9月以前のことと論じている[7]

ダラン・テリグンの戦い以後のイブラヒム・マンドライらの動向は『明武宗実録』の側に詳しい記録がある。まず、1514年(正徳9年)の記録には「イブラヒム(亦卜剌)・マンドライ(阿爾禿廝)は1510年(正徳5年)よりダヤン・ハーンを避け、涼州・永昌・山丹・甘州・高台・鎮夷・粛州一帯で住牧するようになった」との記録があり[8]、ダラン・テリグンの戦いに敗れたイブラヒムらがオルドス地方を経て現在のアルシャー盟方面に至っていたことが分かる[5]

次に、1511年(正徳6年)10月にはダヤン・ハーンがイブラヒム・マンドライを破ったとの記録があり[9]、さらに1512年(正徳7年)10月には「正徳6年正月より、イブラヒム・マンドライはダヤン・ハーンに攻められ、死傷者は非常に多い」と報告されている[10][11]。これによって、アルシャー盟方面に逃れた後のイブラヒム・マンドライらとダヤン・ハーンとの間で1511-1512年ごろに再び大規模な戦闘が繰り広げられ、ダヤン・ハーンの勝利に終わったことが分かる[11]

モンゴル年代記では、1512年(壬申)にバルス・ボラトがジノンとして右翼三トゥメンに君臨するようになったとの記録があるため、まさしく1512年に両軍の最終的な決着がつき、同年中に右翼三トゥメンはダヤン・ハーンに征服されたものと考えられている。

戦後

脚注

参考文献

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