キャロル (ドキュメンタリー)
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| キャロル | |
|---|---|
| 監督 | 龍村仁 |
| 脚本 | 小野耕世 |
| 出演者 | キャロル |
| 主題歌 | キャロル「CAROL(子供達に夢を)」[1] |
| 撮影 | 仙元誠三 |
| 製作会社 |
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| 公開 |
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| 上映時間 | 111分 |
| 製作国 |
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『キャロル』(キャロル)は、NHKのディレクター・龍村仁演出による日本のロックバンドキャロルのテレビドキュメンタリー、及び、龍村監督による怪人二十面相プロ=ATGが製作した音楽ドキュメンタリー映画[1][2][3][4][5][6][7]。
テレビドキュメンタリーと映画は内容が異なり[1]、テレビドキュメンタリーは1973年4月1日に日比谷野外音楽堂で開催された「第2回ロックンロール・カーニバル」[8]でのキャロルのライブがメインで[1]、これに対して映画は1974年3月28日からフランスパリで行われた山本寛斎のパリ・コレクションでのキャロルのライブがメイン[1][3]。本項では主に映画について述べる。映画制作発表を伝える1974年3月7日付の『スポーツニッポン』に「日本初のロック映画」と書かれている[3]。
製作
1973年2月28日に渋谷公会堂で開催された「第1回ロックンロール・カーニバル」に出演したキャロルを会場で観た龍村仁NHKディレクターが[2]、キャロルを音楽界を超えた社会現象として捉え[1][3][7]、時代を象徴するセンセーショナルな存在として世に伝えたいという狙いから[7]、彼らに帯同してドキュメンタリー『キャロル』を制作した[1][2][3][5][9]。龍村はこれをゴールデンタイムに放送しようとしたが[1][3]、NHK上層部が「ゴールデンタイムで放送するには、キャロルは特殊過ぎるし、内容に客観性が欠如している」と判断し[2][3][7]、中止勧告を下した[1][3][7]。当時のNHKはまだ頭が堅く「ロックは不良がやるもの」というレッテルもまだまだ貼られていた時代[9]。これが当時のマスメディアでも問題視されたことから、NHKはキャロルの衝撃性を骨抜きにして平凡なドキュメンタリーに改変し[1][2][9]、1973年10月20日の昼間午後2時10分の歌番組枠にひっそりとねじ込みオンエアした[1][2][7][9]。これを不服とした龍村と実質上の製作者で脚本を担当した小野耕世(NHK国際局渉外部所属)は、自分たちで資金を集めてATGの資本も受け、映画として作り直すことを決意した[1][3][5][9]。
ATGとともに製作として名を連ねる怪人二十面相プロは、のち原宿にクリームソーダ王国を築く山崎眞行が最初に手掛けた店(ロックショップ[4]・怪人二十面相)で[4][10]、新宿伊勢丹デパート裏の雑居ビルの4階にあり[4]、キャロルのメンバーの溜まり場であった[4]。
キャロルは1972年のデビュー当初からロックンロールと暴走族を無理矢理結びつけるような論理によって、社会学的かつ風俗的な視点で捉えられた[1]。当時のキャロルは突然の人気上昇に伴う過酷なスケジュールを矢沢永吉の強烈なリーダーシップによって乗り切っていた状況で[4]、繊細なジョニー大倉が精神を疲弊させ、1973年11月の北海道小樽でのライブ直後に失踪し[3]、年が明けて1ヶ月経ってもジョニーは家にも帰って来なかった[2][4]。ジョニー不在の間、三人体制での活動後、代役として新メンバー・サミー(猿山幸夫)が加入させた直後にジョニーが現われ、サミーは切られ、ジョニーが復帰するという混迷を極めていた[2][3][4]。ジョニー以外のメンバーにとっても過酷な状況が続き[2][3]、バンド史上最大のピンチといえるものだったが[2]、龍村からの「パリへ行ってみない?」という一言は大きな救いだった[2]。NHKでの無念を晴らすために、フランスパリで映画撮影を行うという龍村の提案を二つ返事で引き受けた[2]。
製作会見
1974年3月5日午後2時から、怪人二十面相で製作発表会見があり[3][4]、会見前にいきなりキャロルが「メンフィス・テネシー」や、当時の新曲「涙のテディ・ボーイ」など5曲を演奏[3]。演奏終了後、龍村監督が現われ、キャロルメンバーと山口小夜子らとの会見が始まり[3]、龍村監督は「これは初めて日本でロックンロールを描く映画です。また逆にこの映画自身がロックでもあるわけです。理屈で説明できない映画を目指します」などと話し[3]、本作はドキュメンタリーでもなくドラマとも演出形態は違うセミ・ドキュメンタリーなどと述べ、「キャロルのハート、若い肉体を映像に捉えることで現代を表現し、あらゆる若者たちに喜ばれる作品に仕上げたい」と述べた[3]。この他、会見後即、クランクインし、同じ月の28日からフランスパリで行われる山本寛斎のパリ・コレクションに出演するキャロルが中心となる、また1973年暮れに突如蒸発し、このほど復帰したジョニー大倉の精神の軌跡を追う、などと説明があった[2][3]。ジョニーは会見で「1か月半、精神病院に入院していた」と話した[3]。出演はキャロルの他にオブジェとして山口小夜子、他に沢田研二、ミック・ジャガー、ポール・マッカートニーにも出演を希望[3]、(1974年)4月末に完成し、6月中旬にATG系で公開を予定などの説明があった[3]。当然、記者からは龍村とNHK問題に集中[4]、この質疑応答で3時間の会見のほとんどが占められた[4]。龍村は会見前日の1974年3月4日から11日間の休暇届をNHKに提出しており「主体的にNHKを辞めるつもりはない。むしろボクの活動がテレビ界全体の向上に役立つとの信念を持っています」と述べた[3]。一方のNHKのマスメディアの取材に対してNHK教養番組班・清洲耕二部長は「休暇届は一身上の都合ということで受理しました。しかし映画製作に関しては本人にはっきり許可しない旨伝えています。今は何とも言えませんが、状況の変化があれば考えます」と述べた[3]。この会見も映画の一部になっている[4]。
撮影
撮影の仙元誠三はこの後、東映セントラルや角川映画の撮影を手掛けて名声を得るが[4][7]、当時は無名[4]。候補の一人として龍村監督に怪人二十面相に呼びつけられ[4]、それを聞かされ、ハラを立てて帰ろうとしたところ、気骨のある人物と評価され、カメラに抜擢された[4][7]。仙元は映画版のみの撮影[4][7]。仙元は龍村も小野耕世も知らず[4][7]、音楽にも疎いため、キャロルも名前は知っていたがよく知らなかったという[4]。矢沢は撮影中に次々アイデアを出し、龍村監督にあれこれ提案し、「おーい、みんな行くぞ」とキャロルメンバーを先導した[4]。ところが矢沢以外のメンバーからは仙元はやる気を感じなかったという[4]。今日ではNGだが、キャロルメンバーは全員、ステージの前に酒を飲んでライブを行った[4]。また山本寛斎のパリコレのショーは、演出として空手が取り入れられることになり、キャロルメンバーは全員、大山倍達道場に週2日通った[2][4]。ジョニーは精神の安定を図るためでもあったが[4]、空手のトレーニングに傾斜し、後に肉体派タレントとして認知されるきっかけになった[4]。撮影は16ミリフィルムの同時録音で行われた[4]。パリコレ出演当日はファッションショーのリハーサルが優先されて[2]、キャロルは音合わせもままならなかった[2][4]。1974年3月20日から28日まで観光も含んだパリと、3月29日から4月2日までイギリスロンドンのアビー・ロードなどで撮影で行われた[2][4]。他に北陸地方の労音が初めてロックコンサートを催した新潟県柏崎市でのライブの様子が撮影された[4]。1974年5月頭に約2カ月に及んだ撮影は終了した[4]。
主題歌
キャロルの3rdアルバム『キャロル・ファースト』の1曲目「CAROL(子供達に夢を)」が主題歌[1]。
公開
アートシアター新宿文化で公開[1]。他の劇場での上映は不明。