キンシュエ

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生誕1952年1月21日
モーラミャインミャンマー
国籍ミャンマー
配偶者サンサンキュエ(1975年結婚)
子供ザイティハ、ザイジンラッ
キンシュエ
ခင်ရွှေ
任期
1990年  現在
個人情報
生誕1952年1月21日
モーラミャインミャンマー
国籍ミャンマー
配偶者サンサンキュエ(1975年結婚)
子供ザイティハ、ザイジンラッ
ソー・ニュン(父)、ドー・ダウン(母)
住居ヤンゴンバハン郡区
職業ザイカバー・グループ会長

キンシュエビルマ語: ခင်ရွှေ英語: Khin Shwe)は、ミャンマーの実業家であり、企業グループ・ザイカバー・グループの会長である。

キンシュエは、1952年1月24日、モン州の州都モーラミャインに生まれた。7人兄弟姉妹のうちの1人であるとされる。父親は裕福な貿易商で、仕事の関係で家を空けることが多く、酒、ギャンブル、女遊びが好きな遊び人だったのだという[1]

1962年、キンシュエが10歳の時に父親は家族を捨てて別の女性と駆け落ちし、一家は極貧に陥った。母親は果物や野菜を市場で売って、生計を立てた。その後、父親の事業は悪化し、女性とも別れ、元の家に戻ってきたが、精神を病んでおり、1968年に亡くなった[1]

同年、キンシュエは高校を卒業し、奨学金と裕福だった母の弟からの援助を受けて、ピン・ウー・ルウィンの技術学校に通った。1975年に学校を卒業した後、モーラミャインに戻り、国軍工兵部隊に建設サービスを提供する政府機関に就職した。その際、高校時代からの知人だったサンサンキュエ(San San Kywe)と結婚し、息子のザイティハ英語版と娘のザイジンラッ(Zay Zin Latt)をもうけた。1978年にヤンゴンに転勤となり、翌1979年、役所を退職して、土木技師として民間企業に就職した[1]

事業

1988年、キンシュエは友人の機械技師のテインウィン(Htein Win)とともに渡米し、建築会社・パダミャ社(Padamya Compan)という建設会社を設立。1990年には、ミャンマーで建築会社・ザイカバー社(Zaykabar Company)を設立した。「Zay」は息子の名前で、「Kabar(ビルマ語: ကမ္ဘာ)」は「世界」という意味であり、息子に事業を残して、世界レベルの企業に成長させてほしいという願いが込められているとされる。その後、ザイカバー社はミャンマー随一の不動産開発会社に発展し、キンシュエは「クローニー」あるいは「タイクーン」と称されるミャンマー有数の富豪の1人となった[1]

また、キンシュエは、国家法秩序回復評議会(SLORC)(のちに国家平和発展評議会〈SPDC〉)第1書記だったキンニュンと親密となり、さらに、娘のザイジンラッを、のちに連邦団結発展党(USDP)党首代行となったトゥラ・シュエマンの次男であるトーナインマン英語版と結婚させて、国軍関係者と強親密な関係を築いた[2]

キンシュエは、ミャンマー建設企業家協会会長、ミャンマーホテル協会会長、ミャンマー日本友好協会会長、ミャンマー韓国友好協会会長、ミャンマー・タイ開発公社会長などを歴任し、建設業界だけにとどまらず、国内外で大きな影響力を持つ人物となった[1][2][3]

しかし、2022年3月、ヤンゴンの軍所有地での建設計画の失敗をめぐって国軍と対立の後、キンシュエは土地の賃料未払い、未許可建設の容疑で息子とともに逮捕され、インセイン刑務所に送られた[4]。2024年9月、健康上の理由で恩赦を受け、釈放された[5]

政界

キンシュエはUSDPの党員であり、2010年総選挙にUSDPから出馬して当選、民族代表院議員を一期務めた[6][7]。しかし、2016年4月、トゥラ・シュエマンがUSDPを追放された際に、キンシュエも一緒に追放された[8]

経済制裁

キンシュエは2007年頃からアメリカ財務省の経済制裁の対象となっていたが、2016年頃に解除されたとされている[9][10]

スポーツ

1995年に、当時ミャンマーでは正式にスポーツとして存在していなかったアーチェリーを、ミャンマーに紹介したとされる。キンシュエはミャンマー・アーチェリー連盟およびミャンマー水泳連盟の会長を務めていたことがある[2]

また、乗馬も趣味で多くの馬を所有しているとされる[1]

栄誉

脚注

関連項目

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