サンレアンドロ (カリフォルニア州)
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サンレアンドロ San Leandro | |
|---|---|
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市 | |
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サンレアンドロのマリーナ | |
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アラメダ郡内の位置 | |
| 北緯37度43分30秒 西経122度09分22秒 / 北緯37.72500度 西経122.15611度座標: 北緯37度43分30秒 西経122度09分22秒 / 北緯37.72500度 西経122.15611度 | |
| 国 |
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| 州 |
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| 郡 |
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| 法人化(市) | 1872年3月21日[1] |
| 政府 | |
| • 市長 | スティーブン・H・キャシディ[2] |
| • 市マネジャー | クリス・ザパタ[3] |
| 面積 | |
| • 合計 | 15.662 mi2 (40.565 km2) |
| • 陸地 | 13.343 mi2 (34.557 km2) |
| • 水域 | 2.320 mi2 (6.008 km2) 14.81% |
| 標高 | 56 ft (17 m) |
| 人口 (2020年)[6] | |
| • 合計 | 91,008人 |
| 等時帯 | UTC-8 (太平洋標準時) |
| • 夏時間 | UTC-7 (太平洋夏時間) |
| 郵便番号s |
94577-94579 |
| 市外局番 | 510 |
| FIPS code | 06-68084 |
| GNIS feature IDs | 232427, 1659582, 2411794 |
| ウェブサイト |
www |
サンレアンドロ(英: San Leandro)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のアラメダ郡にある都市。人口は9万1008人(2020年)。サンフランシスコ湾の東岸にあり、オークランドの南側、ヘイワードの北側に位置している。
サンレアンドロ市となった地域の最初の住人は、オローニ族インディアンの先祖であり、紀元前3500年から2500年の間のいずれかのときに入ってきていた。スペイン人開拓者は彼等をコステニョ、すなわち「海岸の民」とよび、英語圏の開拓者はコスタノアンと呼んだ。サンレアンドロを最初に訪れたヨーロッパ人は、1772年3月20日に入ってきたスペイン軍人ペドロ・ファヘス大尉とスペイン・カトリックのクレスピ神父だった。
サンレアンドロはメキシコの払い下げ地ランチョ・サンレアンドロとランチョ・サンアントニオに入っていた。どちらもエル・カミノ・ビエホ、現在の14番通り/州道185号線に沿ってある。
ランチョ・サンレアンドロは面積約9,000エーカー (36 km2) であり、1842年にホセ・ホアキン・エストゥディーリョに与えられた。サンアントニオの方が大きく、面積約44,000エーカー (180 km2) であり、1820年にスペイン軍人ドン・ルイス・マリア・ペラルタに与えられた。1855年からエストゥディーリョの2人の義理の息子、ジョン・B・ウォードとウィリアム・ヒース・デイビスが、サンレアンドロとなる町の区画を決めた[7]。1880年代にアゾレス諸島からの移民が入ってきた時からポルトガル系住民が多く、またハワイから労働者も入ってきており、農園を造り、事業を始めた。1910年国勢調査では、人口の3分の2をポルトガル系住民が占めていた[8]。
1856年、サンレアンドロはアラメダ郡の郡庁所在地になったが、1868年のヘイワード断層における地震で郡庁舎が破壊された。郡庁は1872年にブルックリンの町(現在のオークランド市内)に再建された
南北戦争のとき、サンレアンドロと隣のブルックリンは、カリフォルニア民兵隊中隊のブルックリン州兵を出動させた。
サンレアンドロは戦後のカリフォルニアで制限協定を結んだ多くの郊外都市の1つだった。これは市内の不動産所有者がアフリカ系アメリカ人など少数民族に土地を売却することを禁じたものだった。その結果市内の人種構成はほとんど全て白人となり、1960年ではその構成比が99.3%となっていたが、近くのオークランド市には多くのアフリカ系アメリカ人が住んでいた[9]。アメリカ合衆国最高裁判所は「シェリー対クレーマー事件」判決で、このような制限協定を州は執行できないと判断した。1970年国勢調査では、非ヒスパニック白人の構成比が86.4%だった[9]。市の人種構成は1980年代に多様化を始めた[10]。2010年までにアジア系アメリカ人が人口の約3分の1となり、非ヒスパニック白人は27.1%となって、アジア系が多数派となった[11]。
地理
人口動態
| 人口推移 | |||
|---|---|---|---|
| 年 | 人口 | %± | |
| 1870 | 426 | — | |
| 1880 | 1,369 | 221.4% | |
| 1900 | 2,253 | — | |
| 1910 | 3,471 | 54.1% | |
| 1920 | 5,703 | 64.3% | |
| 1930 | 11,455 | 100.9% | |
| 1940 | 14,601 | 27.5% | |
| 1950 | 27,542 | 88.6% | |
| 1960 | 65,962 | 139.5% | |
| 1970 | 68,698 | 4.1% | |
| 1980 | 63,952 | −6.9% | |
| 1990 | 68,223 | 6.7% | |
| 2000 | 79,452 | 16.5% | |
| 2010 | 84,950 | 6.9% | |
| 2020 | 91,008 | 7.1% | |
| U.S. Decennial Census | |||

2010年国勢調査
以下は2010年国勢調査による人口統計データである[14]。
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基礎データ
人種別人口構成
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年齢別人口構成
世帯と家族(対世帯数)
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2000年国勢調査
以下は2000年国勢調査による人口統計データである。
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年齢別人口構成
世帯と家族(対世帯数)
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収入と家計 |
経済
サンレアンドロでは昔から食品加工業が多く、ジェンスポート、ザ・ノース・フェイス、ギラーデリ、オーティス・スパンクマイアなどの企業があり、またコカ・コーラの工場もある。マクスウェル・ハウスがコーヒー焙煎工場を運営しており、ユーバン・ブランド製品が作られている。ショッピングセンターが5つある。すなわちベイフェア・センター、ウェストゲイト・センター、グリーンハウス・ショッピング・センター[16]、マリーナ・スクエア・センター[17]、ペルトン・プラザである[18]。ラッキーの旗艦店がオープンした。
2013年オープンが予定されるゼロ・ネット・エナジー・センターは広さ46,000平方フィート (4,300 m2) の電気技術者訓練施設であり、国際電気労働者組合と全米電気工事社協会北カリフォルニア支部が作った。訓練には効率的エネルギー利用建物建設方法を含んでおり、この施設はゼロ・エネルギー・ビルとして運営される[19]。
主要雇用主
サンレアンドロ市の2011年包括的財務報告書に拠れば、市内の主要雇用主は次の通りである[20]。
| 順位 | 雇用主 | 従業員数 |
|---|---|---|
| 1 | サンレアンドロ統合教育学区 | 1,119 |
| 2 | アメリカン・メディカル・レスポンス・ウェスト | 402 |
| 3 | サンレアンドロ市 | 409 |
| 4 | ノースフェイス, Inc. | 395 |
| 5 | ギラーデリ・チョコレート | 375 |
| 6 | ウォルマート 店舗2648 | 362 |
| 7 | キンドレッド病院 | 268 |
| 8 | コストコ | 264 |
| 9 | OSIソフト | 253 |
| 10 | ウォルマート 店舗5434 | 239 |
教育
市内には2つの教育学区がある。サンロレンソ統合教育学区にはワシントン・メナーの一部を含み、サンレアンドロ統合教育学区には市内の大半とオークランド市の小部分が含まれている。サンレアンドロ統合教育学区は7人の委員による教育委員会が管理している。
20世紀の後半、市内には3つの高校があった。サンレアンドロ高校は1926年の設立であり、人口が増加するに連れて2つめの高校の必要性が生じた。パシフィック高校が1960年に開校した。1970年代後半から1980年代半ばまで市内でも州内でも高校生が減少した。カリフォルニア州では、その生徒数に応じて州から予算を受けられることになっている。生徒数の減少とその結果として州予算の減少で、サンロレンソとサンレアンドロの教育学区は1980年代に学校を閉鎖するしかなくなった。
サンレアンドロ統合教育学区は2つの高校を維持できなくなった。教育委員会がパシフィック高校の閉鎖を決め、1983年に最後の卒業生を送り出した。この高校の存続を望む者達は、施設が新しいこと、障害者に優しいこと、近代的な球技場があることを挙げていた。サンレアンドロ高校の存続を望む者達は、敷地が大きく、それ故に多くの生徒を受け入れられることを主張したが、マリーナ高校(サンロレンソ統合教育学区内)をバッファーとして使う計画だった。サンロレンソ統合教育学区との交渉が失敗し、マリーナ高校も閉鎖して、高校は1つのみになった。
1989年、サンレアンドロ統合教育学区はパシフィック高校の敷地を売却し、そこはマリーナ・スクエア・ショッピングセンターとして開発された。球技場と野球場は残された。2012年、サンレアンドロ市民はバーレル・フィールドと野球場の改修に5,000万米ドルの予算を承認した。
1990年代と2000年代に、市内の生徒数が増加した。サンレアンドロ高校に科学棟が建設され、さらに劇場を含む芸術教育センターが追加された。2010年、主キャンパスから1ブロック離れたキャンパスに、9年生用校舎が完成し、公民権運動指導者で日系のフレッド・T・コレマツの名が付けられている。コレマツはサンレアンドロと多くの結びつきがあり、市に近い所に住んでいた。
サンレアンドロ高校には、ビジネス学科、社会正義学科、マルティメディア学科など学術的な科目がある。
政治
サンレアンドロはチャーター市である。市憲章第125条の下で、市長・市政委員会・市マネジャーの政府形態を採っている。市長は6人の市政委員と共に市政委員会のメンバーである。委員は市全体を選挙区に選ばれるが、代表する地区に住んでいる必要がある。
交通
市内を州間高速道路880号線、同580号線、同238号線が通り、ベイエリアの他地域とを繋いでいる。カリフォルニア州道185号線(14番通り東)が市中心街の幹線道であり、イーストオークランドやヘイワードに通じている。州道61号線(デイビス通り)がもう1つの幹線道であり、中心街で185号線と交差した後、サンフランシスコ湾に向かう。公共交通はベイエリア高速交通(バート)がサンレアンドロ駅とベイフェア駅に停車する。サンレアンドロ・リンクスが市内西部とサンレアンドロ駅を繋ぐバスのシャトル便を運行し、またAC交通が市内バス便を運行している。高齢者向けのフレックス・シャトルも市内で運行しており、またイーストベイ・パラトランシットは障害のある住民の交通を助けている。
医療
公園
著名な出身者
- ロイド・ブリッジス、俳優、サンレアンドロで1913年1月15日に生まれた。50年以上のキャリアの中で、150本以上の作品に出演した。
- フレッド・コレマツ、日本名は是松 豊三郎、サンレアンドロ住人だったが、第二次世界大戦時に逮捕され日系人強制収容所に送られた。戦後、日系人の強制収容の不当性を訴えた権利擁護活動を行った
- アーサー・ラーセン、プロのテニス選手、サンレアンドロ高校卒、1950年にアメリカでのランキング1位になった。2012年12月7日の死の時までサンレアンドロに住んでいた
- ラッセル・ミーンズ、本名オヤテ・ワチンヤピン、インディアンの人権に関するオグララ・スー族の活動家、1942年にサンレアンドロに移転してきた
- ラス・メイヤー、映画監督、1922年3月21日にサンレアンドロで生まれた
- グレッグ・ノートン、メジャーリーグベースボール選手、ニューオーリンズ・ゼファーズ打撃コーチ、1972年7月6日にサンレアンドロで生まれた

