ザイカバー・グループ
From Wikipedia, the free encyclopedia
1988年、キンシュエは友人の機械技師のテインウィン(Htein Win)とともに渡米し、建築会社・パダミャ社(Padamya Compan)という建設会社を設立。1990年には、ミャンマーで建築会社・ザイカバー社(Zaykabar Company)を設立した。「Zay」は息子ののザイティハの名前で、「Kabar(ビルマ語: ကမ္ဘာ)」は「世界」という意味であり、息子に事業を残して、世界レベルの企業に成長させてほしいという願いが込められているとされる。その後、ザイカバー社はミャンマー随一の不動産開発会社に発展していった[1]。
また、キンシュエは、国家法秩序回復評議会(SLORC)(のちに国家平和発展評議会〈SPDC〉)第1書記だったキンニュンと親密となり、さらに、娘のザイジンラッを、のちに連邦団結発展党(USDP)党首代行となったトゥラ・シュエマンの次男であるトーナインマンと結婚させて、国軍関係者と親密な関係を築いた[2]。
2022年3月、ヤンゴンの軍所有地での建設計画の失敗をめぐって国軍と対立の後、キンシュエは土地の賃料未払い、未許可建設の容疑で息子とともに逮捕され、インセイン刑務所に送られた[3]。2024年9月、健康上の理由で恩赦を受け、釈放された[4]。
論争と批判
- 2010年以降、ザイカバー社は、ヤンゴン地方域ミンガラドン郡区において農民から約845エーカーの農地を取得し、工業団地開発を進めたが、土地取得の正当性をめぐり農民側との対立が生じた。農民らは当初、政府事業として説明され土地を提供したものの、後に民間企業による取得であったことが判明したと主張している。補償金の支払いがあったとされる一方で、農民側は土地の返還を求め、法的措置を検討している。これに対しザイカバー社は、同事業は政府の許可を得た合法的な開発であると反論している[5]。
- 2011年、モン州チャイッモロー郡区の農民約150人が、ザイカバー社によるセメント工場建設用地として没収された農地の補償額が不十分だとして抗議した。ザイカバー社は830エーカーの土地に対し1エーカー当たり35万チャットの補償を支払ったが、農民側はこれは既存の市場価格を大きく下回ると主張した。さらに別の村でも補償額が不十分だとして反発が起きている。ザイカバー社側は大半の農民に補償を支払ったと述べたが、人権団体は適正な土地補償がされていないと指摘している[6]。
- 2018年4月、ザイカバール社はヤンゴンの文化遺産である市長公邸を解体し、監視団体や市民から強い批判を受けた。YCDCは跡地での約5億ドル規模の開発計画を承認したが、周辺の文化遺産やコッキネ貯水池への影響を懸念する反対運動が起きた。 論争の中、同年6月に国軍は公邸の「原型復元」を命令し、 10月には中国企業との合弁契約を理由とする契約違反で、ザイカバールとの賃貸契約を解除した[7][8][9][10]。
- 2019年、カレン州政府は、タンダウンジー郡区の77エーカーの農地・農用地について、ザイカバー社が開発委員会の許可を得ずに複合施設(市場・休憩所・宿舎・道路・橋など)を建設したとして、連邦政府に対処を求めた。カレン州政府代表は、該当地は農地であり、農地や森林法に基づく正式な転用許可がないまま開発が進められたと主張した。これに対して、ザイカバー社は2016年5月にこの土地をキンシュエ名義で10年契約で借用したとされるが、環境破壊は確認されていないと主張した[11]。
