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ジプシー・ロッテ

日本のロッテオリオンズが、1973年から1977年の間、特定の本拠地球場を持たずに運営をしていた様子を揶揄した呼称 From Wikipedia, the free encyclopedia

ジプシー・ロッテ(英語: Gypsy LOTTE)[注 1] は、日本プロ野球・ロッテオリオンズが1973年(昭和48年)から1977年(昭和52年)までの間に特定の本拠地球場を持たずに球団を運営していた様子を揶揄した呼称の一つである。

この5シーズンの間、ロッテは首都圏や宮城県仙台市などを転々としながら主催公式戦を開催しており、特定の本拠地を持たないまま流浪する当時のロッテは「ジプシー球団」などと揶揄された[1]。ここでは、その5年間および前後の球団の事情について取り上げる。

背景

東京スタジアムの閉鎖

東京スタジアム (1975年)

ロッテオリオンズは、大毎オリオンズ時代の1962年(昭和37年)から東京都荒川区南千住にあった東京スタジアムを本拠地としていた[注 2]が、1972年(昭和47年)オフに閉鎖されたことで本拠地を失うこととなった。閉鎖の理由は、当時経営権を持っていた国際興業社主の小佐野賢治がロッテに対して賃貸契約から球場を買い取っての一体運営への移行を求めたもののロッテが費用対効果の悪化を理由に買取を拒否したためで、1973年(昭和48年)シーズンは引き続き東京都を保護地域として同じく首都圏に本拠を置く他球団の本拠地を使用することを前提に試合のスケジュールを決めたが、ロッテ自体が本拠とする球場が定まらず、試合の半数は後楽園球場や明治神宮野球場および川崎球場の空き日程に埋めてもらった。それでも全日程を決めることは出来ず、半数以上が開催地が未定のままだった。当時のロッテは明治神宮野球場を管理・運営する明治神宮外苑やヤクルトアトムズと折衝し、都内での準本拠地として年間20試合程度の開催を計画していたが、ヤクルトの他にも東京六大学野球に日程の優先権があるため、ロッテが行える試合数は僅か6試合と大幅に削減されてしまい、その分を後楽園球場や川崎球場へ振り分けたと言われている[2]。

宮城を本拠に

そこへ、宮城県仙台市にある宮城球場(現:楽天モバイル最強パーク宮城)を使用する案が浮上した。これは地元紙である河北新報をはじめとする宮城県内の企業15社の出資によるプロ野球興行会社「東北野球企業」の提案によるもので、年間で25試合の主催公式戦を仙台で開催するというものだった。当時の首都圏をはじめとする関東の球場にはナイター設備を有する球場が少なく、ロッテはその案を受け入れる形となったが、本拠地移転を公式に実施する場合は以下の条件を満たすことが必要だった。

  1. プロ野球実行委員会において4分の3以上の賛成票を得ること
  2. オーナー会議での承認を前年11月30日までに得ること

このため、同年は登録上の保護地域を東京都にしたままで実質的な本拠は宮城県仙台市(ただし、正式な専用球場の届け出は無かった)という変則的なものとなった。

宮城球場での開幕戦は1973年(昭和48年)5月22日の対近鉄バファローズ戦となり、これが宮城球場でのナイター開きとなった。前日には宮城県庁前で盛大な前夜祭が行われ、お披露目パレードと合わせて約2万人もの市民が詰めかけた。試合当日も宮城球場には定員を大幅に上回る約3万3千人[注 3]が来場したなかでロッテは13-0で圧勝し、仙台での初陣を勝利で飾った。同年は宮城球場で26試合の主催公式戦を開催したが、同年は監督に就任した金田正一の人気や太平洋クラブライオンズとの遺恨勃発、村田兆治の活躍などで前期優勝に食い込み、6月の明治神宮野球場での日拓ホームフライヤーズとの3連戦には6万人ものファンが集まったこともあり、前年は31万人程度に留まった観客動員数は当時のパシフィック・リーグ新記録となる94万6千人と大幅に増加した。特に太平洋クラブライオンズとの試合では、集客を良くしようとするファンサービスのつもりで作成した、平和台球場で行われた太平洋の主催試合における金田と太平洋監督のドン・ビュフォードの乱闘シーンを描いたポスターを採用したところ福岡市からクレームが付き、ポスターを撤去するよう命令されたこともあった。

同年11月、ロッテは1974年(昭和49年)から宮城県を本拠地とする旨を発表する。12月21日に行われた実行委員会でロッテの保護地域を暫定的に東京都から宮城県へ移転することも承認され、野球協約では「本拠地球場では主催公式戦の50%以上を開催しなければならない」と定められているが、ロッテは引き続き首都圏での試合数を確保するために特例として試合数を変更できるよう求めて承認された。これにより翌年の開幕試合は宮城球場となり、最終的に宮城球場では27試合の主催公式戦が開催された。

過酷な移動

しかし球団事務所や合宿所などの関連施設および選手・コーチらの自宅は東京都内もしくは東京近郊に置いたままのため、首都圏での試合は直接球場へ通っていたが、仙台での主催試合では仙台市内のホテルに宿泊し、試合前にホテルでユニフォームに着替えて送迎バスによって球場へ向かい、試合後はユニフォームのままホテルへ戻るという、ビジターや地方遠征時と何ら変わりのない形で臨んでいた。仙台開催の期間は全員がホテルで寝泊まりしており、仙台に定住していた選手は誰もいなかった。当時の主力選手だった山崎裕之は後年、「仙台が本拠地といってもほとんど地方遠征と同じで、ホテル住まいでは気が休まらなかった」と振り返っている。また、当時のパ・リーグ6球団の本拠地は仙台のロッテ以外に東京が1(日拓ホーム)、関西が3(南海、近鉄、阪急)、九州が1(太平洋)と西日本に集中しており、移動は過酷だった。さらに、当時の仙台は高速交通網の整備が始まったばかりで東北新幹線も開業しておらず、首都圏への移動手段も空路もしくは在来線(東北本線)の特急列車に限られた。最も長距離となる仙台から福岡への移動となると山陽新幹線も全線開業前[注 4]で、両都市間を結ぶ直行の航空便も運航されていなかった[注 5]ため、乗り継ぎのために羽田空港に立ち寄り、自宅に戻る時間も無いために空港のロビーで家族と着替えの交換などを慌ただしく済ませてから福岡へ向かうことも少なくなかった。

この過酷な移動は日程の都合上、年によっては1ヶ月で東京 - ロサンゼルス間を航空機で往復する距離に匹敵することもあった。これは阪神タイガースの「死のロード」以上の過酷さとも言われ、このために自宅や合宿所を1ヶ月ほど留守にすることも稀にあった[注 6][3]。一例として1973年(昭和48年)9月の試合日程は以下となっていた[4]。

  • 9月3日 - 東京を出発して大阪へ移動し、4日から6日にかけて日生球場での近鉄3連戦。
  • 9月7日 - 仙台へ移動し、8日と9日に宮城球場での南海3連戦(9日のみダブルヘッダー)。
  • 9月10日 - 福岡へ移動し、11日から13日まで平和台球場での太平洋3連戦。
  • 9月14日 - 午前中に大阪へ移動し、同日夜から16日までの3日間で大阪球場での南海4連戦(15日のみダブルヘッダー)。
  • 9月17日 - 仙台へ移動し、18日と19日に近鉄3連戦(19日のみダブルヘッダー)。
  • 9月20日 - 大阪へ移動し、21日から23日にかけてロッテ主催での太平洋4連戦。会場は西京極野球場[注 7]で、21・22日が雨天中止のため23日のダブルヘッダーのみ開催。
  • 9月24日 - 仙台へ移動し、25日と26日に近鉄3連戦(26日のみダブルヘッダー)。
  • 9月27日 - 大阪へ移動し、28日から10月1日に阪急西宮球場での阪急4連戦(30日は雨天中止、10月1日はダブルヘッダー)。
  • 10月2日 - 東京へ移動し、同日に後楽園球場でビジター扱いでの日拓戦。

このように丸々1ヶ月(29泊30日)東京を離れた超長期遠征の日程となっていた。なお、その後も10月のロッテ主催試合は関東近県で行われることは無く、10月2日から4日のビジター扱いでの日拓戦が同年における関東での最後の試合で、関東での主催試合はこの遠征に出る前の9月2日に行われた川崎球場での試合(ダブルヘッダー)が最後だった[6]。

しかし、監督の金田はこの過酷な移動をポジティブに捉えようとし、移動日による試合が無い日でも完全な休養日とはせず「簡単に汗を流すだけで良い。まるっきり休ませると逆に次の日が苦しくなる」として移動の前後に1~2時間程度の練習を行っていたほか、1973年(昭和48年)の後期における8月の近鉄2連戦(近鉄の主催試合)でも近鉄側が用意した旅館に冷房装置が無かったことから「蒸し暑い。寝不足になって満足にプレーできない」としてマネージャーに冷房が完備された別の宿舎を探させた。2連戦のうち初戦が行われる八戸市営球場(八戸市)から2戦目の青森県営野球場(青森市)への移動用のバスも用意していたものの、バス移動では2時間かかるが東北本線の特急列車であれば1時間程度で済むとして選手は特急列車で移動させ、用意していたバスはキャンセルせずに報道関係者と球団スタッフが乗車し、地方球場での試合ではロッカーが手狭なためにそのまま球場に停めさせ、選手の更衣室代わりに使用させるという考えがあった[4]。さらに、前述のように選手らの自宅は東京近郊に置いたままのため名目上の本拠地こそ仙台市だが地方遠征と同様の宿泊生活を送らざるを得ないため、元々はロッテ会館の中華料理店で勤務する調理師を試合に同行させ、専属料理人として宿泊先での料理を提供し、一人当たりの仙台での宿泊費を5000円から5500円(当時)へ引き上げたほか、「仙台での戦いがロッテの命運を握っている。東京にいるような雰囲気を作って落ち着きたい」としてストレスの負担を減らすべく、仙台での門限も通常の遠征より1時間半程度遅らせていた[4]。これらにより、ロッテの仙台移転は首都圏に新たな本拠地を確保するまでの暫定措置に過ぎなかった。

なお、この渦中である1973年(昭和48年)オフにはプロ野球再編問題が勃発した。これはパ・リーグの未来を悲観した日拓ホームが以前から首都圏に本拠地を確保したい意向を示していたロッテに球団の統合を持ちかけたのが発端だったが、ロッテが単独での球団保有を維持する意向を示したことから思惑は合致せず、実現には至らなかった。

無視された仙台

1974年(昭和49年)に転機が訪れる。同年のロッテは前期2位、後期は優勝を果たしてプレーオフ進出を果たした。10月には前期優勝の阪急ブレーブスと日本シリーズ進出を賭けて対戦し、敵地である阪急西宮球場で連勝したロッテは宮城球場で行われた第3戦も4-0で勝利し、4年ぶりのリーグ優勝を果たした。同年のロッテの観客動員数は87万2千人と前年比では減少したものの、シーズンを通じて優勝争いに加わるなどしたことから2年連続でリーグトップとなった。

しかし、プレーオフ開催前にコミッショナーの大濱信泉(早稲田大学総長)から日本シリーズの開催球場について「ロッテが優勝した場合、ロッテの主催試合は後楽園球場を使用する」との通達が出された。これは当時のオールスターゲームの実施要項に「使用球場は3万人以上の収容能力を有すること」と明記されていることから日本シリーズの運営委員会もその規則に準ずる形で使用球場を決めているが、当時の宮城球場の収容人数は僅かに満たさない2万8千人で[注 8]、施設も未整備であることが背景にあった[7]。この時点で一部メディアは「名のみの地方進出」などと大濱に対する批判を展開し、宮城県民も日本シリーズが宮城球場で開催されないことに一様に落胆したものの、その一方で「施設の不備だから仕方ない」と理解を示す者も少なくなかった[注 9]。

同年の日本シリーズは中日ドラゴンズとの対戦で、ロッテの3勝2敗で迎えた10月23日の第6戦(ナゴヤ球場)では延長10回表に勝ち越したロッテがそのまま3-2で振り切り、4勝2敗で球団史上2度目の日本一を達成した。歓喜の胴上げから一夜明けて翌日に帰京した選手らはそのまま都内での優勝パレードに参加し、東京駅から銀座・赤坂から靖国通りを経由して西新宿のロッテ本社へ向かうロングランパレードだった。この大規模な優勝パレードは仙台でも「当然何らかの形でやってくれるもの」と期待は高まったが球団からは何の音沙汰も無いままシーズンオフに入り、仙台はおろか宮城県内での祝勝行事は行われず、宮城県民とりわけ仙台市民から「裏切られた」との批判を浴びる形となって宮城での人気は低下していった。

1975年(昭和50年)もロッテは宮城球場で33試合を開催したが、観客動員数は約60万人と前年を大幅に下回った。1976年(昭和51年)も同じ33試合の開催だったが半数以上の18試合はシーズン終盤の9月と10月に組まれた。これは雨天中止となった首都圏での試合の振り替え分を宮城へ移したもので、中にはダブルヘッダーを含めた8連戦も含まれており、消化試合として使われていた。

川崎への移転

1977年(昭和52年)のシーズン終盤、ロッテが本拠地を神奈川県へ移転する構想が表面化した。これは大洋ホエールズが翌年から本拠地を横浜スタジアムへ移転することが決定したのに合わせ、大洋が去って使われなくなる川崎球場を本拠地として再び首都圏へ戻る可能性が浮上したためである。ただし、当初は大洋と同じく横浜を本拠地とすることを画策していた。前述のように5年間に渡ってシーズン中の長距離移動を繰り返してきたロッテにとっては選手の肉体的・精神的の負担が大きく、移動経費の負担も非常に大きかったことから川崎への移転の検討を開始した。移転が明るみになると仙台では「残って下さい」と銘打って県内財政界や県内団体などによって移転中止を求める署名活動も行われ、1週間で約43000件もの署名を集めたこともあったが[8]、日本一を達成したものの何の記念イベントも開催されなかった仙台では「首都圏に戻るのは既定路線」という冷めた見方が大半を占め、署名活動の効果は全く無かった。ロッテも後期では首位を走っていたが徐々に阪急の追い上げを受けて失速し、10月4日の後期最終戦(宮城球場)に敗れて自力優勝が消滅した。この試合では9回2死になったところでファンがスタンドから物を投げ入れたために中断し、金田が球場のマイクを使用して「選手も私も一生懸命やってきた。プレーさせて下さい」と直接訴える事態に発展した[9]。ところが、翌日の試合で阪急が近鉄に敗れたことで他力ながら後期優勝を果たし[10]、阪急とのプレーオフに臨んだ。同年もロッテがリーグ優勝を決めた場合の日本シリーズは後楽園球場で行う予定となっていた[注 10]が第5戦までもつれた末に敗退となり、リーグ優勝と日本シリーズ進出を逃した。このプレーオフ第5戦が宮城球場での本拠地最終試合となった。

この5年間でロッテにはオールスターゲームでの開催順が回らなかった。これは日本シリーズと同様に宮城球場の設備面での問題から不適当と判断され、宮城を本拠地としている期間中は「保留扱い」とされた[注 11]。その後は1992年の第3戦がオールスター史上初の地方開催として行われた[注 12]。

日本シリーズ終了後にロッテと大洋の間で使用球場について折衝を行った結果、大洋は当初の計画通りに横浜スタジアムを専用球場として使用することとなり、ロッテは大洋に代わって川崎球場を使用することが決まった。これにより、ロッテの首都圏復帰も決定し、5年間に及ぶジプシー時代は終焉した。前出の山崎は「応援してくれた仙台のファンには申し訳なかったが、選手の大半は『ああ、これでやっと東京に帰れる』と安心していた」と振り返っている。一方で宮城県出身の佐々木信行は「入団2年目に仙台に移ってから『一軍に上がれば仙台に帰れる』と目標にしていたので、そういう意味ではすごく残念だった」と語っている。12月24日には川崎市内でロッテのパレードが行われ、川崎市体育館で激励会が行われた。大洋ホエールズが川崎を半ば裏切る形で横浜へ移転したこともあって大洋の代替という形ながらも川崎市からは歓迎ムードで迎えられたが、ロッテはこれ以降、球場の老朽化や観客動員数の低迷などの影響を受けてさらなる苦難を強いられることとなる。

その後

川崎球場への移転後も宮城球場での主催試合は年間10試合程度を確保していたが、1990年代に入ると球場設備の老朽化が著しくなり、試合数は年々減少していった。2004年(平成16年)のプロ野球再編問題を経て2005年(平成17年)シーズンから新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスが宮城球場を大規模改修工事を実施した上で本拠地としたため、宮城県でのロッテ主催試合は2004年(平成16年)の1カード2試合が最後となったが、楽天参入後はビジターチームとして対戦するために「ロッテが宮城県で試合を行う」という点では試合数が大幅に増加している。

2006年(平成18年)以降は他の地方球場でも主催試合の開催が無くなり、ロッテの主催試合は全試合が千葉マリンスタジアム(ZOZOマリンスタジアム)での開催となったが、2016年(平成28年)以降は東京ドームでの主催試合が年間で1試合程度組まれるようになっている。

主催ゲームの割り振りと年間観客動員数

(プレーオフや日本シリーズは除く)

さらに見る 仙台, 後楽園 ...
 仙台後楽園神宮川崎その他年間観客動員数
(リーグ内順位)
主な出来事
1973年26試合7試合10試合18試合静岡草薙2試合
西京極2試合
946,500人(1)観客動員パ新記録
1974年27試合11試合4試合9試合静岡草薙14試合872,000人(1)球団創設2度目の日本一
1975年33試合12試合6試合14試合603,300人(2)
1976年33試合12試合8試合12試合643,300人(2)
1977年38試合12試合12試合3試合752,000人(2)翌年からの川崎移転が決定
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関連項目

  • 死のロード
  • 西日本パイレーツ - 1950年(昭和25年)の1シーズンのみ加入したプロ野球球団で、西鉄ライオンズの前身。福岡県を登記上の本拠としていながら75日間に及ぶ超長期遠征を強いられていた。
  • アストロ球団 - 野球漫画。第2戦の対戦相手がジプシー時代のロッテで、劇中でも「ジプシー球団」と揶揄されていた。
  • 後藤修 - ロッテの前身球団の一つである大映ユニオンズにも所属していた投手で、現役中に8球団を渡り歩いたことから「ジプシー後藤」の異名をとった。

脚注

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