Wikiwand AI

ジョン・フィニス

From Wikipedia, the free encyclopedia

ジョン・フィニス(John Mitchell Finnis、1940年7月28日 -)は、法哲学を専門とするオーストラリア出身の法学者。現代自然法論(新自然法論)の代表的な論者であり、アリストテレスやトマス・アクィナスの独創的な解釈で知られる。また、認識論、形而上学、道徳哲学の分野でも広く知られている。

概要 生誕, 教育 ...
John Finnis
Finnis on After Dark, 1987
生誕 (1940-07-28) 1940年7月28日(86歳)
アデレード, オーストラリア
教育
出身校 アデレード大学 (LLB)
オックスフォード大学 (DPhil)
博士課程
指導教員
H. L. A. ハート
研究領域・専攻分野
専攻分野 法哲学
政治哲学
宗教哲学
時代 現代哲学
地域 西洋哲学
学派 トミズム
自然法
研究機関 オックスフォード大学
著作 Natural Law and Natural Rights (1980, 2011)
概念 法実証主義批判
博士課程
指導学生
ニール・ゴーサッチ[1]
ロバート・ジョージ
テンプレートを表示
閉じる

フィニスは1989年から2010年までオックスフォード大学で法哲学の教授を務め、現在は同大学の名誉教授となっている。また、ノートルダム大学ロースクールの「ビオルキーニ・ファミリー法学名誉教授(Biolchini Family Professor of Law, emeritus)」であり、同大学の「デ・ニコラ倫理・文化センター(de Nicola Center for Ethics and Culture)」の常任シニア・ディスティングイッシュト・リサーチ・フェローも務めている。オーストラリアのいくつかの州政府(特にクイーンズランド州や西オーストラリア州)の顧問も務め、主に連邦政府や英国との関係に関する問題について助言を行ってきた。

イギリスの法廷弁護士(バリスター)としては、高等法院や控訴院での訴訟に携わった。グレイ法曹院(Gray's Inn)の会員である。2017年には名誉クイーンズ・カウンセル(KC (Hon))に任命された。2019年のオーストラリアにおける「女王誕生日叙勲(Queen's Birthday Honours)」では、法学者としての卓越した功績により、同国の民間人に対する最高位の勲章であるオーストラリア勲章コンパニオン(AC)を授与された。さらに、2023年の「新年叙勲(New Year Honours)」では、法学研究への貢献により、大英帝国勲章コマンダー(CBE)に叙された。

フィニスは数多くの博士課程の学生を指導しており、その中には、アメリカ合衆国最高裁判所判事のニール・ゴーサッチ、オーストラリア連邦裁判所判事のスーザン・ケニー、プリンストン大学のロバート・P・ジョージ、ジョージタウン大学のジョン・キーオンなどがいる。

生い立ちと学歴

フィニスはアデレードのセント・ピーターズ・カレッジおよびアデレード大学で教育を受け、同大学ではセント・マークス・カレッジに所属していた。1961年に同大学で法学学士(LL.B.)を取得。1962年、ローズ奨学金を得てオックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジへ進学し、1965年にオーストラリア連邦憲法との関連において司法権の概念を論じた論文で博士号(D.Phil.)を取得した。また1962年にはローマ・カトリックに改宗している[2]。

フィニスは、同じくオックスフォード大学の卒業生であるアウンサンスーチーの友人であり、1989年には彼女をノーベル平和賞の候補に推薦した。アウンサンスーチーは同賞を受賞したが、実際に授賞式に出席できたのは2012年6月のことであった。その際に彼女は、自宅軟禁下にあった自分を亡き夫マイケル・アリスが訪ね、「友人のジョン・フィニス」が候補に推薦したという知らせを伝えてくれたことを回想している[3]。

業績

フィニスは多くの哲学書を執筆している。最も有名な著作は『自然法と自然権(Natural Law and Natural Rights)(1980年、第2版2011年)であり、これは法哲学への重要な貢献であるとともに、自然法理論の再構築を試みたものである。フィニスによれば、基本善(basic goods)には生命、知識、遊び、美的体験、友情(社会性)、実践的合理性、宗教、結婚の8つがある。『倫理学の基礎(Fundamentals of Ethics)』は、1982年にジョージタウン大学で行った6回のキャロル講義をまとめたものである。ほか、フィニスはこれまでに5つの論文集を出版している。

  • 『行為における理性(Reason in Action)』
  • 『意図とアイデンティティ(Intention and Identity)』
  • 『人権と共通善(Human Rights and Common Good)』
  • 『法哲学(Philosophy of Law)』
  • 『宗教と公共的理性(Religion and Public Reasons)』

理論的特徴

全般的に

フィニスの著作を貫く統一的なテーマは、人間がどのような人生を送りたいかについて決定を下す能力としての「人間の自由」を重視している点にある。そうした決定には、相互に比較不可能な「基本善(basic goods)」の間での選択がともなう。実践理性は、望ましい目的を達成するためにこれらの善を秩序づけなければならない。自由を成熟した形で実践するならば、いかなる基本善をも意図的に侵害することは避けられるはずであり、また、さまざまな方法や程度においてその実現を促進することができる。集団レベルでは、法(自然法と自然権)の同定や政治的決定を導く同様の論理が見られる。こうした観点から、フィニスの議論は主に意図、賢慮、道徳的選択、そして公正の概念を中心に構成されている。宗教に関する議論はより広範な考察へと及んでいる。

法哲学

「弱い」自然法論:中心的事例アプローチ

フィニスの法概念は、その著書『自然法と自然権(Natural Law and Natural Rights)』において詳述されている。本節では、同書の第1部・第2部における議論のいくつかを概説する。ちなみに同書の第3部では、法的推論(権利の概念や類推的推論を含む)に関する批判的考察を展開し、第4部では、革命に伴う法的課題や、不正な法に対する投票の可能性について論じている。

フィニスの議論は新自然法論においては「弱い自然法論」アプローチに分類される。フィニスは法について「中心的事例(central case)」から考え、ある法体系の中心的な例が法の道徳的目的にかなっているかどうかを問う。これは法の評価の問題である。したがって目的の逸脱があったとしても法的妥当性を失わせない。それはあくまで法の欠陥の道徳的評価の問題であって妥当性基準とは切り離される。フィニスの議論は道徳を妥当性基準に関連させない点で「弱い」ものである(逆に「不正な法は法でない」とすれば「強い」)。これは新自然法論においては必ずしも主流ではなく、「強い」自然法論者(ロバート・アレクシー、ジョナサン・クロウなど)はフィニスを法実証主義に過度に妥協的だと批判している[4]。

フィニスによれば、実定法は、概念的な整合性(実際、矛盾する法が共存し得る)や確立された手続きからの導出によってその権威を獲得するわけではない。むしろ、その権威は道徳に由来する。法は「道徳と同じ位置を世界において占めている。すなわち……私が何をなすべきか、どのような人間であるべきか、という点においてである」。これこそ法の中心的(あるいは最も重要な)特徴であり、あらゆる法制度の改善はこれを前提としている。

個人は、自身の利益に反する法や不公正な法であっても、法制度全体が公正である(黄金律)と見なす場合にのみ、それらに従う。なぜなら、その制度は基本善の促進に基づく共通の利益を支えているからである。不公正な法は本来の意味での法ではないが、「理性的かつ意識的な熟慮においては考慮の対象となり得るし、確かに注目し記述する価値はある」。

フィニスはジョセフ・ラズに対し、道徳は法の外部にあるものではないと論じる。なぜなら、法は(人々の協力といった)道徳的営みを可能にするものであり、「法は、人々と取引からなる『継ぎ目のない網の目(seamless web)』として立ち現れる[5]」からである。特定の法や法的決定は、多様な形態をとり得る一般的な道徳原理の適用である。したがって、法の策定に至る実践的推論のプロセスは「レシピに従えば作れるオムレツ」のようなものではない(この概念は、ドゥオーキンの『法の帝国(Law's Empire)』に対するフィニスの批判においてさらに展開されている)。

フィニスは、法の経済分析、ゲーム理論、調整問題、カント的理性、ジョン・ロールズの「原初状態」といったものを、法的な実践的推論の妥当な説明としては退ける。またH.L.A.ハートを批判し、フィニスは「生存」を法の中心的特徴とすることに反対する。「人間の合理性は、無制限な自己優先にともなう恣意性それ自体が『合理性』からの逸脱である、と省察することもできるからである……[6]」。さらにハートの行為理論を退け、規範性は意志決定からではなく理性から生じるものとする。

フィニスは、法史を概観するその壮大な考察において、権利の意味、権威、法的方法論、制度、不法行為法、契約法、刑法、国際法など、法のあらゆる側面について、自然法論の伝統が法実証主義よりも優れた説明を提供していることを示そうとした。フィニスによれば、法の定義という問題は「中立であろうとする純粋に『分析的』な手法によっては解決し得ない」ものであり、それは「道徳的秩序に関する省察にある程度関与する」ものでなければならないと論じており、このことは法の制定や適用に携わるすべての人にとって重要な意味を持つ。ハートのいう「内的視点」は、社会科学における手法として意味をなすためには、「基本善(basic goods)」の理解を前提としていなければならない。パトリック・デヴリンの「実定道徳(positive morality)」は批判的な省察を欠き、単にある集団が抱く意見の集合体に過ぎないため、法の基礎とはなり得ない。ウィリアム・ブラックストンの自然法概念は、「自然状態にある裸の個人」を基準としていたがゆえに内容に乏しく、彼自身の法概念において何ら役割を果たしていなかった[7]。マックス・ウェーバーは、価値の客観性、すなわち理知によって価値を捉え得るという点を認めなかったため、自然法を退けた(ハートも同様である)。フィニスは、アリストテレスやトマス・アクィナスに基づく実定法の説明を提示し、ポストモダニズム[8]や批判法学(CLS)に対して、それら自身の掲げる基準に照らしても破綻しているという批判を展開している。

道徳哲学・政治哲学・宗教哲学

道徳

事実、可能性、そして結果として得られた経験に基づき、人は自分と他者にとっての善として、人間の善の基本的なあり方を容易に理解することができる。人の意志は根本的にこの理解に対する応答である。「~すべきである(ought)」は「~である(is)」から導かれるものではない。なぜなら、実践的推論の第一原理は論理的に演繹されるのではなく、知性によって直接的に理解されるからである。道徳とは、基本善を全体として考察し、それが人間の繁栄開花に及ぼす影響を熟考した結果である。フィニスは、デイヴィッド・ヒュームが道徳を同情の感情から賛否へと至るものと捉えた見解を批判し、ヒューム自身もそのような感情が他者によって認識され、同意されることを期待していたと指摘する。したがって、ヒュームの道徳は同情ではなく合理性に基づいているとする。「ヒューム自身はこれに反論する形式的で力強い主張をしているにもかかわらず[9]」、そう言えるという。

フィニスは合理性を、ある時点においてすべての人にとって何が最善かを理解しようとする、利害を離れた偏りのない視点であると捉える。フィニスによれば、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは「瞑想録における中心的な問題の一つについて迷っている[10]」。なぜなら、経験的事実の命題は必ずしも真であるとは限らないからである。しかし、フィニスは形式論理を用いて真理の自明性を擁護し、「反駁論証」に訴える。

意図

フィニスの著作は、個人の主観性の優位性を強調することで、個人を制度による虐待から守ろうとする強い関心を示している。 フィニスは、プラトンの対話篇『ゴルギアス』を用いて、(ユルゲン・ハーバーマスの討議倫理には反して)沈黙は反省と内省の場であるため、倫理的かつ有意義であると主張する。さらに(現行のイギリス法には反して)裁判所は直接的な意図と意図せざる副次的影響を区別しなければならず、単に予見可能性に基づいて意図を推定することはできないと主張する。「もちろん、意図せざる副次的影響として死を引き起こすことはしばしば不正義であるが、その不正義は状況によって相対的であるのに対し、少なくとも無辜の人間を守るという戒律はそうではない」。たとえば保険金を受け取るために飛行機を爆破し、パイロットを殺害した者は、たとえパイロットの死が予見可能であったとしてもパイロットを殺害する意図はなかったかもしれない(そのため、予見可能性だけでは不十分なのである)。一方、フィニスは、何らかの事象の発生を条件として行為に同意する者(準備的意図)は、道徳的・法的責任を負うと論じる。たとえば、イギリスの核抑止政策は国内の都市が核攻撃を受けた場合に民間人を標的とする可能性を含んでいる。

フィニスは、真理の輝き(Veritatis Splendor)は、道徳家が行為者の視点を採用することを要求すると主張する。これは、いかなる行為も本質的に罪深いものではなく、その罪深さは行為者の意図、意志、目的によって決まるということを意味する(トマス・アクィナスの「自然の性質による in genere naturae」と「死の性質による in genere moris」の区別に沿ったもの)。したがって、手段は目的のために意図されるという伝統的な考え方は否定され、意図された目的(直接的な効果)と意図されなかった副次的効果(間接的な効果)の区別が採用される。たとえば、敵を殺したいという欲望から発砲することは間違っているが、単に自己防衛のために発砲することは間違っていないことの理由がこれで説明できる。フィニスはさらに、悪における形式的(意図的)協力と実質的(副作用)協力を区別する。中絶を容認する修正案に賛成票を投じることで中絶の機会が減少する効果が生じる場合、それは中絶の実施への形式的協力ではないが、第三者へのスキャンダルなどをともなう実質的協力にはなりうる。フィニスは、アンスコムの意図に関する理解とはいくつかの点で異なっている。

賢慮

フィニスは、アリストテレスの賢慮(フロネシス)に関する議論は、手段の選択に関心を寄せ、目的が何であるかを明確にしていないため、倫理的な指針を提供できていないと指摘している[11]。しかし、この問題に対するトマス・アクィナスの解決策はしばしば誤解されてきた。目的は基本善であり、賢慮はそれらについて、そしてそれらを達成する手段について熟慮することに関わる。どちらの場合も実践理性によって導かれる。徳は単にシネレシスの結果ではなく、目的への傾倒と手段の選択も必要とする。一部の基本善の選択は、他の基本善の損耗、あるいは抑制につながる場合さえあるが、それが意図的でない限りにおいて許容されうる[12]。避妊、中絶、安楽死は、生命の基本善に反する直接的な選択をともなう限りにおいてーー通常はそうなのだがーー誤りなのである。

フィニスはレオ・シュトラウスらを批判し、社会の存立そのものが危機に瀕するような極限状況であってさえも、無辜の生命を意図的に奪うことは誤りであると主張する。アリストテレスに倣い、フィニスは自身の考察において友情という基本善を重視する。なぜなら、友情は他者に対する単なる義務感を超えた無私の愛をともなうものであり、したがって道徳の理想的な基盤となるからである(フィリッパ・フットへの批判)。しかしこの理想は、普遍化原理としての神との友情にまで及ばない限り、不完全なままである。フィニスは、トマス・アクィナスにおけるエウダイモニアは、すべての基本善の調和的発展の結果であるが、この世では達成できない(不完全な美)と主張する。

道徳の選択

ソクラテスは殺人者にならないという選択をすることで、彼が最善と考える方法で世界を形作った。すなわち、不正を行うよりも不正を受ける方がましだという考えである。予見可能な結果(帰結主義)に着目したり、善悪を比較したり(功利主義)、価値と「不価値」を比較したり(比例主義)することでソクラテスの選択を正当化しようとする試みは、いずれも失敗に終わる。なぜなら、それらはすべて、殺人を2件行うほうが1件行うよりも悪いという結論に至るからである。カント的な議論もまた、普遍化によって内的矛盾を回避しようとするため失敗に終わる。しかし論理によっては、どのような人間になりたいかという道徳的選択を説明できない。カントが「自然の目的」を尊重すべきだと主張したのも、彼が言う「自然」とは自然科学を意味していたため、説明できないのである。フィニスは、トマス・アクィナスは「より小さな悪を選ぶ」といった比例主義的な議論によって道徳問題を解決しようとは決してしなかったと指摘する。しかし、カントは「事例問題」において直観主義と帰結主義の両方に陥っており、「20世紀後半の学術倫理に非常によく似ている」。フィニスは、功利主義は非合理な欲求(幸福、欲望、感覚的衝動、感覚的動機など)に訴えると主張する。さらに、功利主義は多元主義によって損なわれることはない。なぜなら、多元主義は真理や証拠への配慮、洞察ではなく意見に関心を寄せ、その結果、意思決定の根拠として欲望、恐怖、自己選好、あるいは惰性に頼るからである。

公正

道徳的な意思決定とは、「各々の基本善が提示する『行為の理由、すなわち実践的理由』」に応答することによって、人間としての十全な充足(integral human fulfilment)を追求することである。ここから導き出されるのは、善を達成するために他者に意図的に危害を加えたり、悪を意図したりしてはならず、他者に対して公正に行為しなければならないということである。公正さとは、善と悪を合理的に比較衡量することではない。人間としての十全な充足を念頭に置きつつ、「様々な善や悪に対して、具体的に記憶され、経験され、あるいは想像された、自らの個性のある感情」に基づいて複数の選択肢を比較衡量し、「黄金律」に導かれて判断されるものである(アリストテレスのいう「理性的性格を備えた成熟した人物」を参照)。同様に、私道での走行速度をどうするか、あるいはイギリス法における信託制度を採用するかどうかといった決定も、共同体によって合理的な判断に基づくのではなく、前述のようなプロセスを経てなされるものである。法について対立する解釈は、二つの側面から比較検討できる。すなわち、法の素材(判例など)との整合性と、道徳的な妥当性である。「ハード・ケース」が生じるのは、整合性の観点から最善とされる解釈と、道徳的妥当性の観点から最善とされる解釈が異なる場合である。整合性と道徳的妥当性はたがいに比較衡量できないものであるため、ハード・ケースにおいて唯一正解といえるような解釈は存在し得ず、その解決は公正さに基づいてなされなければならない。

宗教

宗教とは、人間の繁栄開花への神からの期待に応えるという自由な行為である。フリードリヒ・ニーチェが「実験」という手段によって真理を退けたことは、自身の信条の真剣さを損なうものであり、一方、カール・マルクスが究極の起源に関する問いを認めようとしなかったことは、「自己創造という幻想」を招く結果となった。信仰は、「無知、幻想、誤謬を克服するために必要な、合理的探求と判断の規範に従うという合理的必然性[13]」から生じるものである。これに対し、科学は原因を追求し、偶然を単なる「一致の残余」として扱う。宇宙の必然性や無原因性を主張することは合理的ではない。なぜなら、宇宙を構成するいかなる実体や事態においても、それらのいずれも見出すことはできないからである。フィニスは、リチャード・ドーキンスが『神は妄想である』で論じた「絶え間ない複雑化」という主張を退け、チャールズ・ダーウィンの「神の存在に対する確信」を引用している。その確信は、「過去を遠くまで振り返り、未来を遠くまで見通す能力を持つ人間を含め、この広大で驚異的な宇宙を思い描くことの極度の困難さ、あるいはむしろ不可能さ」から生じるものであり、ダーウィンは「私は有神論者と呼ばれるに値する」と述べている。神の啓示は自然理性の理解を深め、かつ是正するものであり、したがって、両者の間には認識論的な相互依存関係、すなわち「反照的均衡」が存在する。自己の利益や情念が介在しない理想的な認識論的条件のもとでは、善悪の問題について広範な合意が成立するはずであり、このことは、より高次の秩序原理(=神)への訴えを裏付けるものである。

神への信仰は、私たちがこの世界でどのように行動するかに影響を及ぼす。ジョン・デューイが知識と実践的な制御を混同したことは、「ナチズムの後に主張されなければならなかった人権」の基盤を揺るがすものである。宗教的な議論は理性に訴えるものであるため、それは「公共的理性」の行使として正当なものであり、公共的理性、熟議、意思決定の場において、無神論や不可知論を当然の前提(デフォルト)として扱うべきではない。宗教は憲法上の保護を受けるに値するものであり、同時に、自然理性の一般原則との整合性という観点から、裁判所によって批判的に検討されるべきものである。ロールズのテーゼは、信教の自由を排除しようとする特定のイスラム教の解釈に対しては成立し得ない(フィニスは異端者に対する強制を支持したトマス・アクィナスの見解は本質的に不当なものであったと論じている)。フィニスはアウグスティヌスとは異なり、永遠の命とは人間の経験から切り離された「至福直観(beatific vision)」ではなく、道徳的に意義ある多くの選択が完成することであると論じている[14]。

『倫理学の基礎』

本書は、フィニスの思想における存在論的・認識論的な基礎を提示するものである。そこでは、人間の善が人間の欲望から生じるという考えは退けられ、善とは「基本善(basic goods)」の実現であり、それへの参与であるという見解が採用されている。したがって、「認識論は『倫理学の基礎』ではない」(p. 21)。

倫理学が扱うのは、個人が経験する基本善についての推論である。ロバート・ノージックによる「経験機械」の比喩は、欲望が倫理の指針となり得ないことを示している。なぜなら、達成をともなう人生よりも単なる快楽に満ちた人生を選ぶ者は誰もいないからである。人々は、ヒューム的な意味での満足ではなく、「完成(perfection)」の探求において基本善に惹きつけられる。ジョン・ロールズが提示するような、万人のニーズを満たすかのように装う「善に関する希薄な理論(thin theories of the good)」は、結果として実践理性に関する希薄な説明をもたらすことになる。

フィニスは、価値の言明の客観性を否定しようとする「奇妙さ」や自然主義からの議論を退ける。そのような客観性は、色の客観性と比較できる。「イギリスの郵便ポストが赤いのは、実際に赤いからである……『赤い郵便ポスト』とは、『人間にとって赤い郵便ポスト』の略ではない」(p. 65)。赤さとは「人間中心的なカテゴリー」である(すなわち、対象そのものとは区別されるが、それでも客観的に真であり妥当である)。

フィニスは「理性の透明性」を提唱し、「私はpだと考える(なぜなら……)」という表現が、「pである」あるいは単に「p」という事態に対して透明であることを示す。そして、この推論の筋道を、良心「について(about)」の問いではなく、良心「の(of)」問いという性質と結びつける。8~9個の基本的要請に沿って機能する「実践的合理性」は、基本善と価値との間のギャップを埋める中間的な原理を提供する。

フィニスは自由の可能性を擁護するが、その可能性を想定すること自体が、すでに自由の行使(それを信じるか否かという選択)を伴っている。基本善の間でのいかなる選択も自由の行使をともなわねばならない。なぜなら、それらはたがいに比較不可能なもの(incommensurable)だからである。そのような選択は、(将来の選択や行動における一貫性への期待を通じて)重要なコミットメントを生み出すが、それは(以前の選択に対する悔い改めをともなうような)両立不可能な選択がなされるときまで続く。選択することは、単にAかBかを選ぶこととしてではなく、知識や理解と同様に、人格の選択をともなうものとして知性によって捉えられる。

著作

  • Natural Law and Natural Rights, Oxford: Clarendon Press, 1980; 2nd ed., 2011.
  • Fundamentals of Ethics, Washington D.C.: Georgetown University Press, 1983.
  • Nuclear Deterrence, Morality, and Realism, with J. M. Boyle Jr. and Germain Grisez, Oxford: Clarendon Press, 1987.
  • Natural Law, 2 vols (as editor), New York: New York University Press, 1991.
  • Moral Absolutes: Tradition, Revision and Truth, Washington D.C.: Catholic University of America Press, 1991.
  • Aquinas: Moral, Political, and Legal Theory, Oxford: Oxford University Press, 1998.
  • The Collected Essays of John Finnis, 5 vols, Oxford and New York: Oxford University Press, 2011.

脚注

参考

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks