スウェーデン領黄金海岸
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| スウェーデン領黄金海岸 | |||||
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| Svenska Guldkusten | |||||
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黄金海岸の古地図。多数の砦が沿岸部に存在している。クリスチャンズボルグ砦(黄金海岸と奴隷海岸の境界付近に位置する)はデンマーク領として書かれている | |||||
| 公用語 | スウェーデン語 | ||||
| 首都 | クリスチャンズボー砦 | ||||
| スウェーデン王・女王 | |||||
| 1632年 - 1654年 | クリスティーナ | ||||
| 1654年 - 1660年 | カール10世 | ||||
| 1660年 - 1697年 | カール11世 | ||||
| 不定(本文参照) | |||||
| 1650年 - 1656年 | Henrik Carloff | ||||
| 1656年 - 1658年 | Johan Filip von Krusenstierna | ||||
| 1659年 - 1660年 | Johan Filip von Krusenstierna | ||||
| 1663年 - 1663年 | Tönnies Voss | ||||
| 変遷 | |||||
| 設立 | 1650年 | ||||
| デンマークによる占領 | 1658年 | ||||
| コペンハーゲン条約 | 1660年 | ||||
| 解体 | 1663年 | ||||
| 現在 |
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スウェーデン領黄金海岸(スウェーデンりょうおうごんかいがん、スウェーデン語: Svenska Guldkusten)またはカボ・コルソ(Cabo Corso。ポルトガル語で「コルソ岬」の意)は、1650年にヘンドリク・カーロフによって西アフリカのギニア湾の黄金海岸(現在のガーナ)に設立されたスウェーデンの植民地である。1663年4月にオランダに占領されるまでの13年間続いた。
1480年代の到達以降、ポルトガル人は黄金海岸に交易拠点を建設し、砦を置いて守っていた。他のヨーロッパの海運国もこの地域に目を向けて交易を開始していった。1642年、オランダ・ポルトガル戦争のためにポルトガルはこの地域の支配権を失った。オランダは植民地を征服し、多くの資産を引き継いだ。1650年代半ばまでに、すべての主要なヨーロッパの海運国は黄金海岸一帯に交易拠点を置いていた。スウェーデンでも1649年にスウェーデンのアフリカ会社が設立された。同社は、カナリア諸島より南の地域での交易に関する独占権を与えられていた。
地理
名称について
スウェーデン人は当時取得したこの植民地をポルトガル人の命名した地名、「カボ・コルソ」と呼び続けた。現在知られている「スウェーデン領黄金海岸(Svenska guldkusten)」という言葉は後代になっての物である。いずれにせよカボ・コルソが歴史家[1][2]や百科事典[3][4]で使われる用語である。
植民地
植民地は、ギニア湾海岸沿いのカボ・コルソ(現在のケープ・コースト)の周りに点在するいくつかの砦と交易所(商館)で構成されていた。これらの施設は、最初にポルトガル人が築いた物もあればオランダ人が築いた物もあり、スウェーデン人自身が築いた物もあった。 また、植民地はオランダ領になった後で、さらにイギリス領黄金海岸となった(植民地の東部はフランス領トーゴランド(現在のトーゴ)になった)ので、その時に放棄されたり逆に大規模に拡張されたり、改名されたりしたものもある。 ともかく、スウェーデンが保持していた主な施設は以下の2つの商館と6つの砦である。
- アカラ商館、カールスボルグ砦の東にあった
- カールスボルグ砦(カールスボルグとケープ・コースト城)、現在のセントラル州ケープ・コースト、1650年4月22日-1658年1月/ 2月、1660年12月10日-1663年4月22日
- ウィリアム砦(またはアンナマボ)、現在のアノマブ(セントラル州)、1650年 – 1657年
- バテンステイン砦 (またはBatensteyn)、現在のButri(ウェスタン州セコンディ・タコラディの付近)1650年 - 1656年
- クリスチャンズボルグ砦(オス城)、現在のガーナ、アクラのオス地区、植民地の首府、1652年 – 1658年
- ウィッセン砦(またはTaccorari)、現在の(ウェスタン州セコンディ・タコラディ)、1653年 - 1658年
- アポロニア砦、現在のベイン(ウェスタン州)1655年 – 1657年
- ジェモリー商館、カールスボルグ砦の東にあった
植民地時代の長
3人のスウェーデンの植民地の長はそれぞれ異なる肩書だった。
- 監督(direktör):ヘンドリック・カーロフ、1650年4月22日-1656年
- 知事(guvernör):ヨハン・フィリップ・フォン・クルーゼンシュテルン(Philipp Crusiusの息子)、1656年 – 1658年2月、1659年 – 1660年
- 司令官(befälhavare):Tönnies Voss、1663年4月16日〜22日