スンバト
From Wikipedia, the free encyclopedia
生まれ
1276年、レヴォン3世の子として生まれる。
スンバトの簒奪
ヘトゥム2世はイルハン朝から帰国後、トロス3世と共に妹である東ローマ皇帝ミカエル9世パレオロゴスの皇后マリアに会いにコンスタンティノープルへ赴いた[2]。このとき弟のスンバトを摂政として残したが、スンバトは諸侯を糾合して自ら立って国王となった[1]。スンバトは1297年にスィス市において総大主教グレゴリウスによって聖別されて国王となった[1]。スンバトはイルハン朝のガザン・ハンのところにも王位の承認を求めに行き、ガザン・ハンからもキリキア王国の封冊を得ることができた[1]。ガザン・ハンはさらにスンバトの親族の王女の一人を与えて結婚させた[1]。スンバトはスィス市に帰ると、スンバトと総大主教グレゴリウスは治世が変わったことをローマ教皇に通知し、キリキアの君主は自分と王国とともにローマ教会の保護下に入った[1]。翌年(1297年)、ヘトゥム2世とトロス3世がキリキアに帰国すると、スンバトは2人を国外へ追放した[1]。2人はコンスタンティノープルに引き返して援助を求めたが、東ローマ帝国は彼らにわずかな金銭を与えたに過ぎなかった[1]。彼ら二人はガザン・ハンの宮廷へ行こうと思ったが、カイサリヤ市で捕らえられ、バルズルベンドで幽閉され、3日後、この地でガザン・ハンの命令でトロス3世は死刑となり、ヘトゥム2世は目をつぶされた[1]。これらの残虐行為はスンバトによる煽動のせいであり、このことは彼の弟コスタンディンの復讐を招き、コスタンディンはスィス市に進撃してスンバトを破って捕虜とし、1298年にコスタンディン3世として即位した[1]。
ヘトゥム2世の復位
1299年、ガザン・ハンの第1次シリア遠征の最中、5千人のベドウィン人部隊が砂漠の一方から現れてモンゴル軍の背後を襲おうとした[3]。しかし、ガザン・ハンはマムルーク朝軍がモンケ・テムルを攻めたときと同じ戦術を使うだろうと予測し、クル・ブカに5千人を率いて後衛を指揮させ、軍の後方を防衛させる策を取った[3]。クル・ブカはアラブ人の攻めてくるのを見つけると、これに襲い掛かり、これを敗走させた[3]。戦闘の後、アピシュカが5千人を率いたキリキア国王とともにルームから到着した[3]。この時のキリキア国王は奇跡的に視力が回復したヘトゥム2世であり、ヘトゥム2世はアルメニアの藩候たちのおかげで3度目の即位をすることができたのであった[3]。前国王コスタンディン3世は廃位されたので、乱を起こそうとスンバトを獄中から救出しようと試みた[3]。しかし、コスタンディン3世は逮捕され、スンバトと共にコンスタンティノープルに送られ、この地で抑留されたのちに死んだ[3]。