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ソビエト秘密機関毒物研究所

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ソビエト秘密機関毒物研究所(ソビエトひみつきかんどくぶつけんきゅうじょ、英語: The poison laboratory of the Soviet secret services)またはNKVD・NKGB・MGB毒性学研究所(ロシア語: Токсикологическая лаборатория НКВД — НКГБ — МГБ)は、ソビエト連邦秘密警察機関内に設置された毒物研究開発施設。内務人民委員部(NKVD)・国家保安人民委員部(NKGB)・国家保安省(MGB)の作戦部門として、毒性・毒性学を研究し、生物兵器・化学兵器としての毒物を実験・治験・製造していた。

ロシア革命からロシア内戦にかけての1921年にウラジーミル・レーニンの官房内、次いで秘密警察チェーカー内に毒物開発機関が設置された[1][2]。ソ連崩壊まで、ソ連の毒物研究所は名称を何度も変更しながら毒物を製造・試験していった[1][3][4]。1990年代後半にロシア政府によって再開されたともいわれる[5][6][7]。

別名に特別室(Special Room)、カメラ(Камера 、ラテン文字転写:Kamera)[1][8]、第1研究所(ラボラトリー1)、第12研究所(ラボラトリー12)、ラボラトリーXなどがある[9][1][10]。これらの研究機関は名称変更に関わらず、「無味無臭、かつ死後の遺体からも検出されない毒物の開発」という任務は一貫していた[11][1]。

沿革

発足

レーニンの特別室、カメラ

ソ連の毒物開発計画は、ロシア革命からロシア内戦の最中の1921年にウラジーミル・レーニンの官房内に最初の毒物研究所として「特別室(Special Room)」あるいは「カメラ( Kamera)」が設置されたことから始まった[12][1][13][1]。カメラ(Kamera)という言葉には、監房や拷問部屋を連想させる不吉な意味がある[14][1]。語源のラテン語 camera は「部屋」を意味し、ドイツ語 Kammer は「部屋」転じて「官房」を意味することから、ドイツ語を読めたレーニンは「官房」を意味させたことも考えられる。

これに先立ち、1918年8月30日にレーニンが社会革命党員ファニャ・カプランに銃撃される事件が起きた。当時、銃弾には毒クラーレが塗布されていたと信じられていた[1]。後に銃弾への毒物塗布説は否定されたが、それでもレーニンにはクラーレに関する報告がなされていた[1]。元ソ連情報機関スペツナズである歴史家のボリス・ヴォロダルスキーは、このことがレーニンの毒物に対する「関心」を呼び起こし、1921年にレーニンの官房内に最初の毒物研究所が設立された主な要因になったと指摘している[13][1]。

パヴェル・スドプラトフによれば、特別室またはカメラはチェーカーによって運営され、医学者イグナティ・カザコフ(Ignatii Kazakov)が責任者を務めた[2]。カザコフは1938年に大粛清で処刑された。

1926年、OGPU(統合国家政治局)議長ヴャチェスラフ・メンジンスキーの副官ゲンリフ・ヤゴーダの監督下となった。ヤゴダは、メンジンスキーの死後、1934年にNKVD(内務人民委員部)の長官に就任した。

ソ連の諜報機関の傘下に移った特別室=カメラでの毒物開発計画は、次節で述べる1925年の軍事化学防衛委員会に端を発するソ連の化学・生物兵器計画よりも先行しており、かつ組織的にも別個の存在であった[1]。

ロシアの化学兵器計画と軍事化学防衛委員会

ロシア帝国における当初の化学兵器計画は、第一次世界大戦中にドイツが化学兵器を使用したことを契機として開始された。当時、ロシア帝国軍は中央科学技術研究所(Central Scientific-Technical Laboratory)において化学兵器の研究に着手していた[1]。革命後、ボリシェヴィキがこれらを接収し、1918年から1924年にかけて革命軍事会議の管轄下にある砲兵総局[15]の指揮下 で小規模な化学兵器計画が開始され、1924年に赤軍が組織的な改革に着手し、1925年には軍事化学防護委員会 (Voenno-khimicheskoe upravlenie, VOKhIMU[16])が設立された[1]。同委員会はソ連の化学兵器計画の大半を担う機関となり、バイオプレパラトが確立されるまでは生物兵器計画や核開発計画も担当した[1][17]。

第1研究所、マイラノフスキー所長の時代

1939年2月20日、グリゴリー・マイラノフスキーを所長とする「第1研究所」となった。第1研究所は、1939年から1953年3月まで、NKVD長官ラヴレンチー・ベリヤと同次官フセヴォロド・メルクーロフ監督下にあった。

マイラノフスキーは、モスクワのバッハ生化学研究所(1928年~1935年)の責任者を務めていた。マイラノフスキーは1934年、モスクワ第一医科大学生化学講座主任の座をズブラスキーから引き継いだ。マイラノフスキーは、ソ連秘密警察の「第1研究所」(毒物研究所、1938年~1946年)の責任者として、NKVDの毒物開発計画を主導した。彼は毒物の実験に政治犯を利用した[18][10]。

1940年の機密扱いのマイラノフスキーの博士論文は「マスタードガスとヒト皮膚組織との相互作用における生成物の生理活性」だった[19][10]。

マイラノフスキーは1940年代にパヴェル・スドプラトフの工作部隊の一員として、アメリカ人の共産主義者でソ連のスパイであったアイザイア・オギンスを含む政治的暗殺に参加した[20][21][22]。マイラノフスキーは毒物クラーレを注射しオギンスを殺害した[8]。

1951年に逮捕されるまで、マイラノフスキーはNKVDに所属しつつ、全連邦実験医学研究所(the All-Union Institute of Experimental Medicine , VIEM)内の専門研究所を率いて、動物や囚人を対象とした様々な化学剤や毒物の実験に従事した[10]。第二次世界大戦後、ドイツの人体実験を調査した際、マイラノフスキーは「毒物分野におけるナチスの成果は、我々のものに比べて著しく劣っていた」と結論づけている[23][10]。

マイラノフスキーの助手であったボグダン・コブロフ(Bogdan Kobulov)は、1953年の尋問で次のように供述した。「(そうした実験が人道に対する罪にあたるとは)思いません。なぜなら、実験の最終的な目的はソビエト政府の敵に対する戦争にあったからです……。私は実験を行うよう命じられたので従いましたが、一人の人間としては、それらが望ましくないものだと考えていました」[24][10]。

1954年のマイラノフスキー事件の捜査中、同研究室の研究員であったミハイル・フィリモノフ Mikhail Filimonovもまた、実験について次のように証言している。「私は毒物実験のいくつかを目の当たりにしましたが、実験には立ち会わないようにしていました。毒物が人間の精神や身体に及ぼす作用を見ていられなかったからです。中には、極度の苦痛をもたらす毒物もありました。叫び声を隠すために、私たちはラジオを購入し、(実験中に)それを鳴らしたりもしました」[25][10]。バースタインは、マイラノフスキーらを非難し、彼らが「道徳的な弱さと恐怖に駆られ、ナチスの命令に従った1930年代ドイツの研究者と同様に、KGBとの協力関係を正当化している」と非難した[26][10]。

マイラノフスキーは1951年に医師団陰謀事件(殺人医師事件)で逮捕され、10年間投獄後、ダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国のマハチカラ生化学研究所の所長を務めた。[27]。

第2研究所=特殊技術中央科学研究所=研究所 X

1950 年代、過去 10 年間の一時閉鎖後[28]、ソビエト秘密機関毒物研究所はルビャンカ諜報本部からモスクワ郊外のアカデミアン・ヴァルガ通り 2 番地に移転した[1]。研究所は公式には閉鎖されたものの、実際には移転していた。ヴォロダルスキーはこの手法を「二重のコンパートメント化」と呼び、情報を保有していた元のグループに対し、作戦が終了したと思い込ませる一方で、実際には別のコンパートメントへ移転させていた[29][1]。

表向きには「特殊技術中央科学研究所(Central Scientific Research Institute for Special Technology)または第 2 研究所(Research Institute No. 2、NII-2)と名付けられた研究所 X は、KGB の運用技術総局 (Operational Technical Directorate, OTU) に所属し、毒物、麻薬、向精神薬の研究が続けられた[30][1]。

第12研究所

1953年3月14日、Laboratory 12 第12研究所へと改称され、V・ナウモフが新たに所長に就任した。スターリンの死後、ベリヤとメルクーロフは処刑され、同研究所を監督していたNKVDのパヴェル・スドプラトフはベリヤの犯罪への加担者とされ、1953年8月21日に逮捕された。スドプラトフは狂気を装ったため、裁判にかけられたのは1958年になってからであった[2]。彼はグリゴリー・マイラノフスキーの「死の研究所」への関与についても告発され、裁判で毒物の人体実験を行なっていたことが明らかになった[2]。同研究所は1942年から1946年まで、スドプラートフとその副官ナウム・エイチンゴン(Наум Эйтингон)による監督下にあった[2]。

KGB中央調査研究所

1977年、ハイテク操作特別班として KGB中央調査研究所(The Central Research Institute of KGB)が設置された[31][32]。これは後にFSB犯罪研究所へと継承された[31]。これは現在も秘密機関であり続けている[32]。

1978年、KGB第1総局傘下の中央特殊技術研究所(Central Investigation Institute for Special Technology)へと改組された[要出典]。

現代

1991年以降:ロシア対外情報庁(SVR)の複数の研究所が、西側諸国における秘密工作用の生物・毒素兵器の開発を担った[33]

FSB犯罪研究所は、34435軍事部隊(Military Unit 34435)、第二研究所(Research Institute-2,NII-2)などの別名を持つLab Xであると考えられ、いずれもアカデミアン・ヴァルガ・ストリート2番地に拠点を置いている[34][1]。2020年8月のアレクセイ・ナワリヌイ毒殺未遂事件後の米国の制裁では、この局(研究所X)が現在FSBの特殊技術センター(Special Technology Center)と名付けられ、FSB犯罪研究所が管理していることを踏まえている[35][1]。

ノビチョク

ラボX(Lab X)に加え、ロシア軍参謀本部情報総局(GRU)も独自の毒物開発を図ってきた。フォリアント(Foliant program)計画によって、1980年代後半にノビチョクを開発した[1]。

その後、1924年に設立された国立有機化学技術研究所(GSNIIOKhT)は民生用に転換され、ロシア有機化学技術研究所(Scientific Institute for Organic Chemistry and Technology(GosNIIOHT)へと改称された[1]。同研究所でもノビチョクの研究が継続していたとみられる[36][37][1]。

2010年以降、ロシア国防省傘下のサンクトペテルブルク国立軍事実験医学研究所(the St. Petersburg State Institute for Experimental Military Medicine of the Ministry of Defense (GNII VM))がノビチョクの開発および兵器化を主導してきた可能性が高く、その際科学センター・シグナル(SC Signal)の研究者らも関わったと見られている[1]。この取り組みは、GRUの特殊部隊29155部隊や、ノビチョクの当初の開発に関与したGosNIIOHTおよびシハニ(Shikhany)にある国防省第33中央科学実験研究所(the 33rd Central Experimental Institute for Scien- tific Research of the Ministry of Defense)との連携の下で行われているとみられる[1]。

人体実験

マイラノフスキーたちは、マスタードガス、リシン、ジギトキシン、クラーレ、シアン化物など致死性毒物をグラーグ(強制労働収容所)の囚人を実験台として使用した[8]。人体実験の目的は、死後の検査では検出できない無味無臭の化学物質を特定することであった。候補となる毒物は、「薬」と偽って食事や飲み物に混ぜられ、被害者に投与された[2]。

最終的に、基準を満たす製剤が開発され、C-2またはK-2(カルビルアミン・コリン・クロリド carbylamine choline chloride)と称された[2][38][39]

目撃者の証言によれば、被害者は急激な衰弱や身長の収縮といった身体的変化に見舞われた後、穏やかで静かな様子となり、15分以内に死亡した[2]。マイラノフスキーは、毒物の作用を包括的に把握するため、身体状況や年齢の異なる人々を意図的に研究所へ連れ込んだ。

ミハイル・フィリモノフの証言により明らかになったように、パーヴェル・スドプラトフとナウム・エイチンゴンは、「特殊用具」(毒物)について、人間での実験が行われた場合にのみ、その使用を承認していた[2]。

フセヴォロド・メルクーロフは、これらの実験がNKVD(長官ラヴレンチー・ベリヤの承認を受けていたと述べた[2]。

スターリンの死とそれに続くベリアの逮捕を経て、ベリアは1953年8月28日、「私はマイラノフスキーに対し、最高刑を宣告された者たちを対象に実験を行うよう命じたが、それは私自身の発案ではなかった」と証言した[2]。

人体実験に加え、マイラノフスキーはスドプラトフの監督下で、自ら毒物を用いて人々を殺害した[2][40]。

1954年にアメリカに亡命したKGB将校ピーター・デリアビンの証言によれば、スターリン時代には人体実験が常態化しており、ラボXの職員は、様々な毒物の有効性、尋問技術における催眠術や薬物の効果を検証するために、囚人や処刑予定者などの生きた人間を用いて実験を行っていた[41][1]。

毒物の実用・暗殺

ボリシェヴィキ・ソ連が使用した化学兵器には、ソフトな化学兵器(ソフト・ケミカル)と猛毒(致死的な毒、deadly poisons)の2種がある[1][13]。毒物はその毒性によって死や危害をもたらす物質であり、化学兵器[42]としての性質を持つが、一般的な化学兵器が大規模かつ無差別な使用であるのに対して、毒物の使用は局所的である[1]。ソフト・ケミカルは、殺傷目的というよりも、標的を恐怖に陥れたり、特定の行動を阻止するために一時的に無力化する性能を持ち、拉致・強制連行・強制移送(forced renditions)や尋問での自白の強制(黙秘を維持しようとする意志の破壊)、あるいは罰の執行などに使用された[1]。

スターリン時代

ソビエト秘密機関毒物研究所で製造された毒物は様々な標的の殺害・暗殺に用いられた。カール・デューイは、ソビエト時代およびソビエト崩壊後の期間における毒物の使用の動機について、6つのカテゴリーを整理した[1]。

  1. 体制への脅威(支配層の個人的・集団的利益に対する脅威と認識されるものを含む広範なカテゴリー)
  2. 報復(亡命者に対するもの)
  3. 戦略的政治的脅威(ロシアの衛星国・近隣諸国における秩序を乱す指導者など)
  4. 武力による脅威(武装反乱勢力や民族主義グループ)
  5. 友好国への支援(他国の共産主義政権を支援する場合)
  6. 日和見的な使用(様々な任務の目的を遂行するため)。

これに加え、「意図しない犠牲者」「動機が不明な事例」というカテゴリーも考えられる[1]。

歴代のソ連指導者たちは、公然と死に至らしめたり拘束したりすれば国内で激しい反発を招きかねない反体制派や、ソ連の勢力圏内で現状を揺るがしかねない衛星国の指導者など、密かに対処したい標的に対して毒を用いた[1]。亡命者も「祖国を裏切った者」とみなされ、標的とされた[1]。チェキストの行動規範の一つは「裏切り者への報復」であった[43][1]。スターリンへの個人崇拝が蔓延していた社会では、スターリンへのいかなる批判も容認しがたい「内部の脅威」とみなされた[1]。

スターリンの統治下の毒殺事件は39件の事例に加え、実行には至らなかった3件の攻撃計画が記録されている。スターリン時代に起きたこれら42件の事例は、ソ連史における毒殺攻撃の総数(66件)の約63パーセントを占めている[1]。

フルシチョフ時代の能動的措置

ニキータ・フルシチョフ時代には、スターリン批判以後、スターリン時代の国内における行き過ぎた措置は是正されたものの、亡命者コミュニティや「人民の敵」に対する政治戦(political warfare)や能動的措置(ロシア語: активные мероприятия、アクティブニェ・メロプリヤティヤ、英語: Active measures、アクティブ・メジャーズ)は継続された[1]。ソ連は西側諸国とは異なり、政治的戦争political warfareを展開する際、公然たる活動と秘密裏の活動を区別しなかった。ソ連は「能動的措置」を「外国社会における事象、行動、活動に影響を与えるための、公然および秘密の手法」と定義した[44][1]。

1953年後半から、モスクワは二本立ての工作活動を開始した。その一つは、活動的な亡命者指導者に死刑を宣告し、その他の著名な反共産主義者を拉致していった[45][1]。拉致された人物は、ソ連へ連れ戻された後、処刑されるか、あるいは国内向けのプロパガンダに利用された(例えば、西側から自発的に帰国したと虚偽の発表を行うなど)[1]。もう一つの工作は、亡命者に対して威圧を加え、ソ連の諜報活動に協力させるか、少なくとも反共産主義活動を控えるよう威圧するというものであった[46][1]。

フルシチョフはウクライナ民族主義者組織(OUN)を弾圧した。OUNは、フルシチョフがウクライナ共産党第一書記を務めていた当時、ソビエト化に対する抵抗勢力であった。第二次世界大戦後、モスクワはウクライナ共和国の鎮圧に成功し、OUNの指導者たちは国外へ亡命した[1]。フルシチョフは1953年に権力掌握した後、1957年にOUN指導者であるレフ・レベトを殺害し、1959年にステパーン・バンデーラの暗殺を命じたが、これらの作戦においてKGBは特殊銃からシアン化ナトリウムを撃ち込む手法を用いた[1]。この手法は遺体に痕跡を残さないものであり、毒を混入させた食品や毒物注射に頼っていたスターリン時代の技術と比べて、著しい進歩を遂げており、当時のドイツ警察は他殺の疑いを抱くことはなかった[47][1]。

1964年のCIA報告書でも次のように指摘されている[1]。「スターリンの死後、国外での暗殺は稀になった。……現在、ソ連が殺害の標的にするのは、体制にとって特に危険とみなされ、かつ何らかの理由で拉致することが不可能な人物に対してであるようだ」[48][1]。

KGB工作員ボグダン・スタシンスキーは1957年にドイツ領内でウクライナの民族主義指導者レフ・レベトとステパーン・バンデーラをシアン化物を噴出するスプレー銃で殺害したが、1961年に西ドイツに亡命した。西ドイツはレベトとバンデーラの暗殺事件でスタシンスキーを裁判にかけたが、裁判中、スタシンスキーはモスクワの秘密暗殺計画の詳細を明らかにした[1]。これはモスクワにとって非常に恥ずべきことであり、以降、ソ連は、外国での暗殺をほぼ停止した[1]。

ブルガリア

ソ連ではスタシンスキー事件以後、外国での暗殺をほぼ停止したが、同盟国への毒物提供は行われた[1]。1970年代後半、KGBはブルガリアに対し、リシンを塗布した微小なペレットを発射できる銃を提供した[1]。ペレット方式は、スタシンスキーが使用した毒ガス銃や、ホフロフのタバコケース毒弾よりも技術的進歩を遂げており、ブルガリアはこれらの武器を用いて反体制派を攻撃した[1]。

1974年、ブルガリア反体制派ステファン・バンコフ(Stefan Bankov)の暗殺未遂事件が起きた[49][1]。

1978年9月、ブルガリアの反体制派作家ゲオルギー・マルコフがロンドンで暗殺された。この際、ソビエト毒物研究所で製造されたリシンを塗布した微小な弾丸を射出する「傘銃」が使用された[50][51][52][53][54]。この傘型の銃は「ブルガリアの傘(英語版)」と呼ばれる[55][1]。細菌ペレット弾が使用されたとする説もある[55]。スパイ活動史研究家のH・キース・メルトンによれば、ブルガリア秘密情報機関がマルコフの殺害を決定した際、KGBの研究所の専門家たちは2つの手段をブルガリア側に提示し、その選択を委ねました。その選択肢とは、マルコフの身体に塗布する毒性ゼラチンか、あるいは(実際に使用された)毒入りペレットを注入する器具のいずれかだった。マルコフ事件の10日前、ウラジーミル・コストフ(Vladimir Kostov)もパリで毒殺されかけた[55][56][1]。

プーチン政権

1999年にウラジーミル・プーチンが権力を握って以来、毒はロシアの国家戦略の道具として再び浮上している[1]。プーチン政権下で発生した毒物使用事件の数は67件で、ドミートリー・メドヴェージェフが大統領を務め(2008〜2012年)、プーチンが首相であった期間にも3件が確認されている[1]。プーチン政権下で発生した事件数は、ソ連時代の70年間における66件を上回っている[1]。

プーチン政権下での毒物使用の目的は、体制の利益を守ることにあるが、これはスターリン時代の官僚的な権力闘争というよりも、エリート層と実業界の癒着、クレプトクラシー(泥棒政治)によって生じた、金銭的利益や権力の防衛という性格が強い[1]。標的も政敵や政権への反対者や批判者だけでなく、ロシア支配層の個人的利益や金銭的利益を脅かす存在にまで広がり、被害者も多様化した[1]。

毒物使用の実行機関もかつてはKGB(およびFSB)に限られていたが、現在ではロシア軍参謀本部情報総局(GRU)も独自の能力を追求しており、民間部門の一部も加担している[1]。

2006年のリトビネンコ毒殺をめぐって英独の警察の捜査でロシア連邦保安庁(FSB)工作員が特定されるという失態を受けて、国外での暗殺任務はロシア軍参謀本部情報総局(GRU)へと移管されたとみられ、リトビネンコ事件以降、ロシア国外で毒物を使用したことが確認されているのはGRUである[1]。GRUによる毒物使用の事例としては、エミリアン・ゲブレフやセルゲイ・スクリパリに対する襲撃が挙げられ、いずれも猛毒の化学物質が使用された[57][1]。

反体制派の殺害は影響が大きく、また、高度な毒物へのアクセスは厳しく制限されているので、大統領の承認なしに毒物が広範に使用される可能性は低く、第三者に委ねられたりする可能性は極めて低い[1]。この点については、英国リトビネンコ調査会議長ロバート・オーウェンは2016年1月、リトビネンコ殺害のためのFSB作戦はFSB長官のニコライ・パトルシェフとプーチン大統領によって承認されたと結論付けており[58]、欧州理事会もナワリヌイへの毒物投与は、大統領府の同意があって初めて可能であったと結論づけた[1]。

毒物による暗殺の犠牲者

暗殺未遂

亡命を阻止する試みにおいても、致死性の毒物や(自白を促すための)化学物質が用いられた。その例として、亡命直前に毒を盛られたナウム・サメット[73][1]や、亡命前に「自白剤(トゥルース・セラム)を用いて尋問されたオレグ・ゴルディエフスキーなどが挙げられる[74][1]。

被害者とされる人々

  • ヨシフ・スターリン。スターリンは多くの毒殺の加害者であったが、被害者でもあったとする説がある。ロシアの歴史家アントン・アントーノフ=オフセーエンコ[86]やエドワード・ラジンスキーによれば、スターリンの元警護官への調査や状況証拠から、ベリヤらによって毒殺された[87]。スターリンは1953年、ヴャチェスラフ・モロトフらソビエト政権の幹部を解任し、処刑する計画を立てていた[87]。ラジンスキーによれば、スターリンは上級警護官フルスタリョフ(Khrustalev)によって毒殺された[87][注 1]。
  • ブルガリア共産党指導者ゲオルギ・ディミトロフは、1947年にディミトロフはユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーと、南スラブ連邦(バルカン連邦構想)の創設を構想するブレド協定(the Bled Accord)に署名した[1]。ディミトロフはモスクワに呼び出された後、1949年に急死した[1]。公式には肝硬変による死とされたが、死体解剖が行われる前の発表であり、またディミトロフはアルコール依存症でもなかったため、毒殺が疑われる[89][1]。その後、ブルガリアは方針を転換し、スターリンとチトーの対立においてソビエト連邦側についた。スターリンはチトーの執務室内へ有毒化学物質を放出して暗殺することを計画したが、断念された[90][1]。
  • 1968年、チェコスロバキアの改革派指導者アレクサンデル・ドゥプチェクはモスクワからの自律を求め、プラハの春につながった。1968年8月のソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻後、ドゥプチェクらは拉致され、ソ連へ強制連行され、暴行を受けたが、解放された。解放後、ドゥプチェクは体調を崩した。「全身の痛み、吐き気、集中力の低下、思考のまとまりのなさ、不合理な言動」といった症状から、モスクワ滞在中にストロンチウム入りスープを摂取したことによる放射線障害ではないかと見られた[91][1][注 2]。
  • 1978年9月、ブルガリアの反体制派作家ゲオルギー・マルコフがロンドンで暗殺[1]。(#ブルガリアを参照)
  • 1979年12月13日、アフガニスタン革命評議会議長・アフガニスタン第2代大統領ハフィーズッラー・アミーンに対する毒殺未遂事件が発生した[92][1]。KGB第8局は、工作員ムタリン・タリボフ(コードネーム:サビール)を官邸料理人として潜入させ、アミーンらに供される食事の一部に毒を混入することには成功したが、アミーン自身は難を逃れた。アミーンは毒を盛られることを予期しており、絶えず自分の食事や飲み物を入れ替えていた[93]。一方、彼の義理の息子は急性食中毒の治療のためモスクワへ搬送された。アミーンは自身の師でありアフガニスタン初の社会主義指導者であったヌール・ムハンマド・タラキーを殺害したことでモスクワの不興を買った[92][注 3]。1979年12月にアミーンはソ連主導のクーデターによって失脚させられたが、それ以前にも彼を毒殺する試みが何度か失敗に終わっていた[92]。

FSBの被害者とされる人々

ソ連崩壊後も関連事件が続いており、毒物を用いた暗殺事件・暗殺未遂事件として主張される

  • 1993年、ソ連崩壊後に独立したジョージア共和国初の民主的に選出された大統領ズヴィアド・ガムサフルディアは不審死をとげ、毒殺が疑われた[94][92][1]。ソ連の生物兵器開発機関バイオプレパラトの元副所長で1992年にアメリカに亡命したケン・アリベックによれば、この研究所では、ガムサフルディアを暗殺するための化学剤または生物剤の設計に関与し[95]、実際に毒殺を検討していた[96][1]。ガムサフルディアの未亡人は彼が殺害されたと主張している[97]。
  • 1997年4月にウラジーミル・ツカイ(Vladimir Tskai) がFSBによって毒殺された[1]。ツカイは、エリツィン政権下で報告された数少ない中毒死の事例である[1]。公式には肝硬変による死亡とされているが、彼は酒もタバコもたしなまず、健康状態も良好であった[98]。アレクサンドル・リトビネンコは死の直前、ツカイがFSBによって殺害されたと主張した。暗殺の理由は、ツカイがモスクワ刑事捜査局の副局長だった時に、FSBが組織し支配下に置いていたラゾフスキー・ギャングを解体したことを、FSBの他の局員が許せなかったからだという[99][1]。

2000年代

2010年代

  • 2010年12月、元KGB大佐のジャーナリストヴィクトル・カラシニコフとその妻マリーナ・カラシニコワは、FSBから水銀で毒殺されようとしていたと主張した[113]
  • 2008年、人権派弁護士カリンナ・モスカレンコは、アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件に関する審問を直前に控えた時期に、水銀中毒で体調を崩した。当初は暗殺と疑われたが、フランス警察の調査により、原因は以前の所有者が車内で気圧計を破損させたことによると判明した[114]
  • 2018年9月、抗議活動を行うバンド「プッシー・ライオット」や市民的不服従運動に関わってきた活動家ピョートル・ヴェルジロフは、原因不明の中毒になり、ドイツの医師団は、彼が毒を盛られた可能性が極めて高いと判断した[115][109]。ヴェルジロフが標的となったのは、中央アフリカ共和国におけるワグネル・グループの活動、およびワグネルを調査していたジャーナリスト3人の死亡事件を調査していたためとも見られている[116]。ヴェルジロフは重要文書が届く日に体調を崩した[116][1]。
  • 野党政治家のウラジーミル・カラ=ムルザは、2015年5月に会議中に突然体調を崩し、1ヶ月以上にわたって昏睡状態に陥った。同年2月に政治家ボリス・ネムツォフが銃殺されたこともあり、毒を盛られたのではないかと疑われた[117]。フランスの独立系毒物検査機関の解析で「通常の許容限度を数十倍上回る重金属の痕跡」が検出されたが、毒物の特定には至らなかった[118][1]。カラ=ムルザは2017年2月にも毒を盛られた疑いで再び入院した[119][109]。
  • 元ロシア連邦軍参謀本部情報総局将校であり、2010年にイギリスに亡命したセルゲイ・スクリパリは、2018年3月4日に娘とともに外出先で意識を失った。神経剤「ノビチョク」による毒殺未遂であった[120]。二人とも最終的に回復した[121]
  • ブルガリアの武器商人エミリアン・ゲブレフ(Emilian Gebrev)とその息子、そしてビジネスパートナーの1人は、2015年4月に毒を盛られたとされている。英国の捜査当局は2018年のスクリパリ毒殺未遂事件との間に関連を調査している[122]。29155部隊との関連も指摘されている[123]。ゲブレフは、当時破綻したばかりだったコーポレート・コマーシャル銀行(Corpbank)の資産の一つであった武器製造会社ドゥナリト(Dunarit)の買収を阻止するためにオリガルヒの指示を受けた国家治安機関の構成員によって毒が盛られたとも指摘されている[124][1]。
  • 2019年4月には、アブハジアの野党指導者アスラン・ブジャニアが急に体調不良となり、後に水銀とカドミウムによる中毒が判明した[1]。彼の警護官2名も同様に体調を崩したことから、全員が毒を盛られたと疑われた[125][1]。ブジャニアは、モスクワの支援を受ける現職のラウリ・ハジムバに対する有力な対抗馬であった[126][1]。ブジャニアは、大統領選挙の実施まで3週間を切った2020年3月、再び重篤な体調不良に陥り、二度目の毒殺未遂とみなされた[127][1]。

2020年代

標的とされた被害者

脅迫を受けている反体制派

チェスの王者でありプーチン反対派で、2013年に海外へ亡命したガルリ・カスパロフは、ボディガードが携行する飲料水と調理済み食品を口にしている[131]。2022年、ロシア政府は2022年にカスパロフを「外国の代理人」と指定した[132]。

2025年10月14日、ロシア連邦保安局(FSB)は、カスパロフをはじめ、反体制派のオリガルヒで2013年にイギリスに亡命したミハイル・ホドルコフスキー、プーチン政権下の元首相ミハイル・カシヤノフ、反体制活動家ウラジーミル・カラムルザら20人の「テロ組織」が暴力的な政権奪取を企てたとして刑事捜査を始めた[133]。

2026年5月にカスパロフはテロリズムを正当化し「外国エージェント」の活動をおこなったとして逮捕状を発行した[134]。

2026年6月、ロシアの裁判所は、反体制派オリガルヒミハイル・ホドルコフスキーがインターネットでロシア軍に関するデマを流布した罪で有罪とし、欠席裁判で10年の懲役刑を言い渡した[135]。

関連研究所

グロドミリャ島

グロドミリャ島では1930年に口蹄疫ウイルス研究所が設立され、1934年から1935年にかけて、FMD施設は赤軍細菌戦研究施設である生物技術研究所(コード表記V/2-1094)へ移管された。1936年から1941年にかけて赤軍軍事化学部管轄の第三試験場がグロドミリャ島に設置された[136]。

ヴォズロジデニヤ島

1920年代に赤軍が生物兵器の実験研究所の設置場所の選定を開始[136]。1936年、細菌学者イワン・ミハイロヴィチ・ヴェリカノフ(1898年 – 1938年4月8日に粛清)率いる研究集団がヴォズロジデニヤ島に上陸、1937年にはツラレミア(野兎病)、ペスト菌、コレラ菌の細菌・生物兵器研究所が建設された[136][137]。島の北部に研究所職員のための特別都市アラルスク-7(ロシア語: Аральск-7)や飛行場も建設された[136]。1942年、同島にゴロドムリャ島から第52野戦化学研究所(PNIL-52)、軍部隊04061(コードネーム:Barkhan)が移転した[136]。病原体や菌株のサンプルは、 ステプノゴルスク科学技術微生物学研究所、キーロフ200、スヴェルドロフスク19、オムトニンスク、ザゴルスク6などから送られた[137]。

1971年には研究所から天然痘が流出し、10名が天然痘に罹患し、女性1名と子供2名が疾患で死亡したアラル天然痘事件が起きた[138]。

1979年、スヴェルドロフスク(エカテリンブルク)の第19施設(ロシア語: 19-й городок、英語: Compound 19)で炭疽菌が漏れたスヴェルドロフスク炭疽菌漏出事故で少なくとも105人が死亡した[138]。ソ連政府の発表では95人が感染し、68人(71.5パーセント)が死亡したが、実際には死者数も感染者数もそれより多かった[139]。 施設の近くの陶磁器工場には2,180人が勤務していたがその後数週間で少なくとも18人が死亡した[140]。1979 年4月2日から3日にかけて第19施設の空調システム故障により炭疽菌が漏出した[139][141]。

1988年、ソビエトはヴォズロジデニヤ島に炭疽菌の備蓄を処分した[138]。1991年11月に閉鎖されるまでに炭疽菌、天然痘、野兎病、ブルセラ症、ボツリヌス菌、ベネズエラウマ脳炎、ペストなどの各種病原体がここで実験された[136]。2021年までに遺構はウズベキスタン政府によって取り壊された[137]。

その他

関連人物

脚注

参考文献

関連項目

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