ソマリア軍
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| ソマリア軍 Xoogga Dalka Soomaaliyeed القوات المسلحة الصومالية | |
|---|---|
| 創設 | 1960-04-12 |
| 再組織 | 2008(現体制) |
| 派生組織 |
ソマリア陸軍 ソマリア海軍 ソマリア空軍 |
| 本部 | モガディシュ |
| 指揮官 | |
| 大統領 | ハッサン・シェイク・モハムド |
| 統合参謀長/国防参謀長 | オドワー・ユスフ・ラゲ |
| 国防大臣 | アブドゥルカディル・モハメド・ヌル |
| 総人員 | |
| 徴兵制度 | なし |
| 現総人員 | 約15,000人(2020年)[1][注釈 1] |
| 関連項目 | |
| 歴史 | 1960年創設。1991年の政権崩壊後機能停止・再建中。 |
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ソマリア軍(そまりあぐん、ソマリ語: Xoogga Dalka Soomaaliyeed)は、ソマリア連邦共和国の軍隊。最高司令官である大統領の下に、国家の主権、独立、領土保全を確保することを憲法で義務付けられている。
1990年代のソマリア軍は、陸軍、空軍、防空軍、海軍の4軍種で構成されていたものの、現在では陸軍、海軍、空軍の3軍種からなる。
歴史
中世から植民地時代
中世のスルタン国では、ソマリ人社会において戦士の称号が与えられる潜在的な兵士と見做されていたソマリ人の男性によって構成される常備軍が設けられていた。 1285年にイファト・スルタン国の王ウマル・ワラシュマ或いはその息子アリによるシュワの征服を発端に複数回に渡って発生したエチオピア帝国との戦闘では、双方が勝利と敗北を経験し、1529年から1543年にかけて行われたエチオピア・アダル戦争(英語版)では、イマーム、アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーが数人のエチオピア皇帝を打ち破り、「フトゥフ・アル=ハバシュ」(アビシニア征服)と呼ばれる遠征を行った。 この遠征により、キリスト教国アビシニアの約4分の3がアダル・スルタン国の支配下に置かれた。アル=ガージの軍勢はオスマン帝国の同盟軍とともにエチオピア帝国をほぼ滅ぼすまで迫ったが、アビシニア側はクリストヴァン・ダ・ガマ率いるポルトガル軍の援助を受け、独立を維持した。この戦争により両勢力は人的・物的資源を大きく消耗し、勢力は縮小した。
20世紀初頭には、マジェルテーン・スルタン国、ホビョ・スルタン国、ワルサンガリ・スルタン国(英語版)、ダラーウィーシュ国が、欧州列強との戦い(スルタン国戦役)においてソマリ人の騎兵を使用し、イタリア軍もイタリア領ソマリランドでアスカリとして雇用したソマリ人によって歩兵大隊や不正規部隊を編成し、前線警備や警察任務に充てた他、同じく編成されたソマリ砲兵やカラビニエリ部隊も1889年から1941年までイタリア軍に所属していた。 1911年から1912年の伊土戦争では、モガディシュ出身のソマリ兵1,000名以上が、エリトリア人およびイタリア兵とともに戦闘に参加し、戦後も兵士の多くは1935年の第二次エチオピア戦争に備えて再びイタリア領ソマリランドに配属された。
イギリスも同様にソマリランド騎兵隊を編成し第二次世界大戦中にイタリアによって行われたソマリランド侵攻ではアーサー・チェイター(英語版)中佐の指揮の下に戦闘に加わった。[3]
設立
ソマリア共和国独立の約1ヶ月前の1960年4月6日、イタリア信託統治領ソマリアはソマリア共和国防衛の為の正規軍としてソマリア警察部隊の機動部隊(ダラウィシュタ・ポリスカまたはダラウィシュタ)を編成し、独立後の1960年7月1日にイタリア信託統治領ソマリアがイギリス領ソマリランドと統合されるソマリア共和国が成立するとソマリランド騎兵隊と統合する形で5,000名の兵士からなるソマリア軍が編成された。 新軍の初代司令官は、英国軍政下の警察組織「ソマリア憲兵隊」で将校を務めていたダウド・アブドゥレ・ヒルシ大佐が任命され新たな将校達も英国やエジプト、イタリアで訓練を受けた。
しかし、急遽イタリア信託統治領ソマリアとイギリス領ソマリランドの統合が決まった結果、出身地域や出身部族による将校の権力分配が問題となり1961年12月にはハルゲイサで南部出身の将校が部隊指揮権を掌握したことに反発した英国で訓練を受けた北部出身の下士官達が、反乱を起こしている。 反乱は他の北部出身の下士官達によって鎮圧されたが北部出身者の不満は残り続けており、北部軍の司令官に北部出身者で当時最高位だったモハメド・ハジ・アイナシェ大佐が任命されたのもこの反乱の余波であると初代軍司令官ダウド将軍が記している。
また、設立当初はハルゲイサに司令部を置く北部軍事地区がハルゲイサとブラオの2個大隊を統括し、モガディシュの陸軍司令部がモガディシュ、ベレトウェイン、ガルカヨ、バイドアの4個大隊を統括(後に4個大隊と小規模部隊は、計画中の南部軍事地区の管轄下に入る予定であった。)ものの反乱後はソ連とキューバの顧問の支援により、部隊の拡大と近代化が進められている。
ソ連はソマリア軍の近代化と兵員数の14,000人規模への拡大のために3,200万ドルの無条件融資(後に5,500万ドルに増額)を行っており西側諸国も1962年から1963年にかけて米国、西ドイツ、英国、イタリアがソマリアに対抗提案を受け入れさせようと試みたが失敗したとアメリカ議会図書館は発表している。 ただし、1962年から1963年にかけて、米国、西ドイツ、英国、イタリアがソマリアに西側諸国の提案を受け入れさせようとしたが失敗し、1963年10月以降にソマリアとソ連が始まったとする資料も存在している。
1963年オガデン反乱
1963年6月、当時のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世がオガデンの自治要求を拒否した事を理由に勃発した1963年オガデン反乱(英語版)で反乱を起こしたソマリア青年同盟によるソマリア政府への増援要請に対し、ソマリア政府は当初こそゲリラへの支援を拒んでいた。 しかし、1964年1月14月頃から両国の関係が悪化し始めるとエチオピア[4]とソマリア[5]の双方が他方による領土侵犯を行ったと主張し、空爆[6]と約3,000名の派兵を行った。
オガデン戦争
暗殺されたアブディラシッド・アリー・シェルマルケ大統領の葬儀の翌日である10月21日に1965年から陸軍参謀長を務めていたモハメド・シアド・バーレ少将によってクーデターが行われ社会主義政権が樹立された事により、ソ連から派遣された軍事顧問団による援助でソマリア軍が陸軍軍人数約2万2,000人とT-34戦車約200両やT-54/55型戦車50両に代表されるソ連から供与された兵器[注釈 2]によって6個の戦車大隊、9個の機械化歩兵大隊、5個の歩兵大隊、2個のコマンド大隊、11個の砲兵大隊(うち5個は高射砲大隊)が編成されるとバーレ少将は大ソマリア主義を掲げ1977年7月、エチオピア東部への攻勢を開始した。 第60師団がエチオピアの第4歩兵師団を破り、戦略上重要なゴデ(英語版)を制圧した事によりソマリアはオガデン地域の支配を強め、兵力を集中させてさらにエチオピア内陸部へ進撃した。 しかし、ソ連が1974年のエチオピア革命でソマリアと同じく社会主義国家となっていた社会主義エチオピアへの支援を決定しエチオピアに大量の武器と顧問団の他、およそ1万5,000名のキューバ軍部隊を投入した事によりソマリア軍は1978年までにオガデン地域の大部分から撤退を余儀なくされ、数年後にはゴデが完全にエチオピア軍の支配下に戻った。
戦争の過程で、ソマリア軍の部隊編制は大隊単位から2〜4個大隊からなる旅団単位へと拡大され、1個大隊あたり1,200〜2,000名ほどで構成されるようになった。また、戦後は中央部の町アブドゥワクが第21師団の主要拠点として使用されるようになった。
脚注
注釈
出典
- ↑ “TARDING ECONOMICS”. 2025年11月13日閲覧。
- ↑ “アメリカ国務省 Somalia - Agreement in Djibouti”. 2025年11月13日閲覧。
- ↑ Playfair (1954), p. 172
- ↑ “Somalia Blamed”. Nevada State Journal. United Press International: pp. 2. (1964年1月17日)
- ↑ “Ethiopia Blamed”. Nevada State Journal. United Press International: pp. 2. (1964年1月17日)
- ↑ “Ethiopia-Somalia-Hassle”. Star News Newspaper. United Press International: pp. 16. (1964年1月16日)
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